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卓球王国ストーリ-

トップニュース卓球王国ストーリ-
 2000年5月号(36号)では世界選手権クアラルンプール大会を今野、高橋で取材。
 この大会で日本男子は素晴らしいプレーの連続でドイツ、タイペイなどを連破し、15年ぶりのメダルを獲得した。ヨーロッパでの松下、田崎選手などの取材をしていたために、卓球王国の二人はベンチの後ろでほとんど応援団状態。しまいには、あまりにガッツポーズなどをするために、ITTF(国際卓球連盟)の役員に「日本ベンチの後ろにいる取材陣は何だ」と注意される羽目になった。

 しかし、そんなことなど耳に入らず、熱くなっていた。このときの表紙はスウェーデン対中国の男子決勝で、劉国梁に勝ったワルドナーが高橋カメラマンに向かってガッツポーズをするというおまけまでついた。

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↓e-Book 2000年5月号
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 2000年4月号(35号)の表紙は小山ちれ選手。当時、小山選手は負けなしの卓球界の女帝だった。ジャパントップ12の会場に照明セットを持ち込み撮影したのだが、あまりに雰囲気を出し過ぎたか、下横からの照明でなんとも怖い(失礼)写真になった。ある意味、インパクトが強く、より小山選手の強さを引き出す表紙となったのだ。

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  • 撮影場所は代々木第2体育館。女帝は怖いほどの迫力

 2000年2月号(33号)のメイン特集は「欧州卓球最前線!」。今野と前発行人の高橋カメラマンで、木方慎之介選手のいるスウェーデンリーグと、松下浩二選手のデュッセルドルフと田崎俊雄選手のいるゲナンのブンデスリーガ、そしてデュッセルドルフとルバロワのヨーロッパチャンピオンズリーグを取材した。

 ブンデスリーガの取材会場は、ゲナン。本当に田舎町で、当時は貨幣はユーロではなく、ドイツマルク。フランスからドイツ入りした二人はマルクを持っていなかった。
 しかもあまりに田舎で銀行がない。ホテルにチェックインしたものの、お金を持っていない二人の望みの綱は、駅前のATM。しかし、どうもいろいろなカードを使うのだが、うまくお金の引き出しまではいかない。このままでは、食事もできない。実はホテルにチェックインした時に「カードの支払い、大丈夫?」と聞いたら、「No」と言われていた。ということは、食い逃げならぬ、泊まり逃げ・・・?

 ところが、ダメ元で使った郵便局(日本の郵貯カード)のカードが使えたのだ! その日は、豪勢(?)なイタリアンをたらふく食べ、次の日、歴史的な(今では珍しくないが)松下対田崎の試合を取材したのであった。

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 老練な卓球メーカーの社長様たち。「いいね。頑張ってね」と会えば言ってくれたし、創刊の頃から広告もいただいた。
 しかし、何年かしてからあるメーカーの方に言われたのは、「あの頃、卓球王国に広告を出すのをやめましょうよ、という動きがあったんですよ」という話。
 歴史を持つメーカー雑誌に割り込むとは失礼千万、ということだったのか。

 また、2000年の年頭から大手メーカーがスポンサー撤退。痛かった。粘るしかなかった。発行を続けてしっかりと認めてもらうしかなかった。ただ、用具特集ではそのメーカーのラバーやラケットを紹介できない。我慢比べとなった。
 そして、1年後に、スポンサーとして復活していただいた。

 喜んだのもつかの間、その年(2001年)の秋から9カ月間、別の大手メーカーがスポンサー撤退。その理由はよくわからないが、これも痛かった。
 でも、同じ戦法を使った。我慢比べ。メーカーの営業が悲鳴を上げた。ショップの方やユーザーの方が「なぜ卓球王国で商品が紹介されないの?」と営業マンに聞くので、嫌気がさしたらしい。

 しかし、あとで振り返ると、これは寒気がするような状況だった。「もし同時に撤退されていたら、会社がもたなかった」という意味で・・・。
 書店で売る卓球王国。
 「卓球をしてみたい」「昔やっていたからまたやってみよう」という人が書店で卓球王国を買うことが、卓球市場への貢献にもなるという思いがある。また、卓球王国で卓球メーカーの商品を見てもらうことで、ユーザーへの情報提供とユーザーの購買意欲を高めることにもつながると思っている。
 そういう意味では、卓球メーカーと卓球王国は距離を置きながらも、非常に近い関係性を作っている。

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  • 全メーカーの用具が見られるというのも卓球王国の特徴だった

  • メーカーの商品の比較はメーカー専門誌ではできないことだった

 卓球王国を創刊するにあたり、重要な課題があった。
 それは、いかに卓球メーカーから広告を集めるかということだった。ところが、1987年にわずか2年間で休刊となった『卓球マガジン』は卓球メーカーからの広告が少なく、財政的な意味でも厳しい局面に立たされ休刊となった前例を見ていた。もちろん休刊の理由はそれだけではないが・・。

 創刊にあたって、当然のことながらスポンサーになり得る卓球メーカーへの「お願い」に赴いた。しかし、当時は3大メーカーが独自に卓球雑誌を出していた。これは報道雑誌というよりも、その基本は自社のコマーシャル雑誌。
 メーカー専門誌は売り上げで黒字にすることはできない。あくまでも、会社のイメージアップ、商品の訴求効果を高める目的のために、卓球メーカーは宣伝費として割り切っている。
 もちろん、これらのメーカー専門誌は普及の面で日本の卓球の歴史の中では果たした役割も大きかった。

 今野が自分の会社で製作に関わっていたTSPトピックス。卓球王国創刊の半年後には雑誌製作を返上する旨をヤマト卓球に伝えた。「もちろんそのまま他の方にやっていただいて結構です。でも、卓球王国にもスポンサーとして協力してほしい」と訴えた。
 結局、TSPトピックスは1997年7月に休刊となった。

 ほとんどの卓球メーカーは協力的だったが、一方で懐疑的だった。「本当にやっていけるのだろうか・・」と。
 書店売りの雑誌では、販売による売り上げとスポンサー収入が車の両輪。創刊当時のもくろみは、全卓球メーカーや日本リーグに加盟している卓球部を持っている会社からの広告出稿を期待していた。
 しかし、ふたを開けてみると、卓球メーカー以外の広告は難しかった。そういう逆風の中で、雑誌の裏表紙(表4と言います)に年6回のペースで「ミキハウス」さんが広告を出していただいたのはありがたかった。卓球部の大嶋監督や澤井部長(当時)にはお世話になった。また、協和発酵(現協和発酵キリン)さんも佐藤真二監督の後押しで、年5回というペースで、創刊以来、現在もスポンサーになっていただいている。

 一方で、「卓球王国に広告を出すのはやめましょうよ」という動きが水面下であった。広告を出すのをやめようという意味は、この新しい雑誌を認めない、つぶしてもいいという意味にも解釈できるものだった・・。
 <続く>
  • 創刊当初から、表4で出稿をいただいたミキハウスさん

  • 今でもスポンサーとして広告をいただいている協和発酵(現協和発酵キリン)さん

 2001年世界選手権大阪大会は4月下旬のゴールデンウィークに開催された。5月発売号は大会後の速報で、記念すべき出版社としての1号目だ。
 ところが、大会期間中に1本の電話が会社から入った。
「卓球王国の誌面のデザインをしている会社が、次の号から仕事しないと言っています!」
「うそだろ! それは困るよ」(今野)
「卓球王国の仕事はやりたくないと言っています」(会社)
「それなら、この間の別冊をやってくれたNデザイナーに頼んでくれ!」(今野)

 思い当たる節はあった。
 毎月のように、卓球王国からデザインの依頼をするのだが、「このデザインじゃダメです。もう一回やり直してください」「この色は使わないで欲しい。イメージに合わない」
 などの注文をして、嫌がられることが多かったのだ。編集部としては、少しでも良いデザイン、かっこいい誌面を目指しているのに、どうもお互いの好みや主張が食い違っていたのだ。

 急遽、依頼したNデザイナーはその場をしのぎ、また素晴らしい仕事をしてくれた。結果、その後の誌面も良くなったと思っている。今もそのデザイナー、永丘氏はうちの誌面のデザインを担当している。
 またまた「災い転じて福となした」例だ。ピンチの時には集中力が高まり、良い仕事ができるのだ。
 
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  • 永丘氏がデザインした誌面。2001年7月号より

 取り次ぎ会社からのヒアリングの後、卓球王国の版元になっていた新宿にある会社を訪れた今野。待ち構えていたのは社長と営業担当の役員。社長は元々ひと癖ふた癖あるような鋭い眼光の人だったが、営業担当の役員はそれまで温厚な感じで接していた人だったが、その役員まで顔が一変していた。
「取り次ぎ会社に聞いても、雑誌コードは金で売買するものではないと言われました。ましてや、雑誌コードを取得するときにはいろいろ動いていただきましたが、もともと雑誌コードをとるために、部数を伸ばすためにいろいろやってきたのは卓球王国です。だから、すんなりと出版社として独立させて欲しい」(今野)
「何を寝ぼけたこと言ってんだ。うちが動かなかったら次の号は出せないぞ。いいのか!」(某出版社営業担当役員)
「それは恐喝ですか? 次の号はもちろん出してもらわないと困ります。ただし、大金を出す余裕なんてうちにはないです」(今野)

 などというやりとりがあった。温厚そうに見えていた営業担当の役員の豹変ぶりには驚いた。これが本当の顔だったのか……。まるでやくざの事務所のようではあったが、今思えば良き経験だ。
 結局は、わずかな手数料を支払うことで解決して、2001年7月号、通巻50号から晴れて卓球王国は出版社として独立して、取り次ぎ数社に対し、口座を開設して、版元としてスタートした。
 奇しくも、その号は、2001年世界選手権大阪大会の特集号だった。
 ところが、ホッとしたのもつかの間、卓球王国に次なる試練が待ち構えていたのだ。  <続く>

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  • 卓球王国が出版社になった記念すべき1冊目は、2001年7月号

 1997年1月の創刊以来、最初の3号までは不定期だった。しかし、その後、(株)卓球王国は、雑誌を毎月出しているものの、「出版社」としては認められていなかった。つまり、雑誌制作会社という扱いだった。
 2001年までは新宿のとある出版社の「目の眼」の別冊コードを使い、その出版社にお金を払って、書店に配本してもらっていた。あくまでも軒先を借りている間借り人・・・それが卓球王国という会社だった。
 月刊コードを取得して、独自で別冊も出せるようになったものの、卓球王国が独自で営業できない。そこで月刊コードを取得した1999年から2000年にかけて、間借りしている出版社に「版元(出版社)として独立させて欲しい」とお願いしていた。

 ところが、お願いに行くと、こういうやりとりになった。
「通常、月刊コードを借りるだけでもお金がかかるものだ」(某出版社社長)
「それは独立するためにお金を払えということですか」(卓球王国今野)
「直接的には言えないけど、それが出版界の常識だ。1千万、2千万払うところもある」(某出版社社長)

 そこで取り次ぎ会社(雑誌・書籍を流通させる会社)に聞きに行った。
「うちの出版元から、版元として独立するなら、月刊コードに対してお金を払えというようなことを言われていますが、これは出版界での常識なんですか」(今野)
「噂では聞いたことはあるが、うちではわからないし、何とも言えない。雑誌コードは相撲の年寄株とは違うから」(某大手取り次ぎ会社)
 魑魅魍魎の世界か!? ゼロから始めた卓球王国。月刊コードを取得したのに出版社ではないから、自由に別冊や書籍が出せないもどかしさ。取り次ぎ会社の返事を持って、今野は新宿南口から歩いてすぐの出版社を再び訪ねた。 <続く>
 1999年の8月、ユーゴ内戦の影響で世界選手権の会場が変更になり、アイントホーヘン(オランダ)で変則的に個人戦だけの世界卓球が開催された。
 今から見ても、日本の低迷の時期だ。

 卓球王国は当時は予算がないので、この大会の取材は今野ひとり。日本を発つ前にスタッフに伝言した。「内容は言えないけど、白黒ページ2ページ空けておいてくれ」。それはアレーン監督の辞任を伝えるページ。彼との約束を守り、王国スタッフにもアレーン辞任は伝えなかった。

  8月21日発売の卓球王国(1999年10月号)では2ページで緊急インタビューを掲載し、その中でアレーンは約束事を守らなかった協会や強化本部を痛烈に批判した。(200号裏話18に前出)
「強化対策本部の一部のメンバーがぼくをサポートしてくれなかった。あまりに多くの約束事が破られ、自分の背後で何の話し合いもないままに決定が行われた」「ぼくは日本を愛していた。ぼくの2年間は無駄ではなかった」

 男子のソーレン・アレーン監督は、日本男子がすべて敗れた8月7日の10時半にホテルの一室に選手を集め、初めて「辞任」を伝えた。ショックでその場で泣き出す選手もいた。2年間という時間をかけて、アレーンと選手が築いた信頼関係の終焉だった。

 世界選手権の詳報を掲載した9月21日発売の卓球王国(1999年11月号)では、当時の専務理事は「よくやってくれたと感謝している。世界選手権の直前で選手にショックが走るので選手には言わないでくれと頼んだ」と語り、批判の的になった強化本部長は「辞任のことを聞いたのも大会期間中だった。私自身びっくりした。はっきり言って、彼が辞めた理由に私たちのこともあると思いますが、彼はそれを口にしなかった」とコメントしている。

 田崎俊雄選手は「彼の辞任は自分にマイナス。彼のモチベーションが落ちるようになったのは、そうさせた人が悪い。世界選手権で勝って彼に恩返ししたかった」とコメント。
「悲しいです。言われた時には涙が止まらなかった。彼に会って世界という目標を持てたのに……」(三田村宗明)
「彼のやり方は役に立った。感謝したい。アーレンに任すべきだった」(偉関晴光)
「5月に辞めると言った時に協会はオープンにすべきだった。彼に対し礼を尽くし、別れのための準備もしたかった。監督が替わるたびに強化が変わる。長期的な強化が協会にない。アレーンが2年間で日本に残したことは多い」(松下浩二)(以上99年11月号より)

 アレーンが選手に伝えた夜、彼とITS三鷹の織部幸治氏と3人で食事をした。店を出たら、ばったり協会関係者と顔を合わせた。「聞いた? ソーレンは何も言ってくれなかった。水くさいよな」と耳打ちされた。「あなたたちが彼に協力しなかったんでしょ!」と叫びたかったが、言葉を飲み込んだ。
 これが、1999年の電撃的なソーレン・アレーン氏の監督辞任の真相である。

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  • 1999年11月号でのアレーン監督辞任に関する記事

 1997年に日本のナショナルチームチームの監督に就任した初の外人監督、ソーレン・アレーン氏。
 高校・大学・日本リーグという各カテゴリーにおける縄張り争いと、一貫指導ができないもどかしさと、卓球右翼からの激しい抵抗。
 1999年5月の新宿サンルートホテルの喫茶店で、インタビューをするつもりが「オフレコ」と言われ、スイッチを切られた。
 
 「今野さん、実はぼくはナショナルチームを辞めることになった。日本を離れるよ」。それまで、度々食事をしたり、居酒屋に行っていた間柄。日本の卓球界では、英語でコミュニケーションを取れる人が少なく、アレーンの息抜きのように会っていたのだが、「まさか」と思いつつ、「やっぱり」という思いもあった。

 スタート時は、高島規郎さん、前原正浩さんと一緒にトロイカ体制で日本を改革しようとしたが、前原さんは離れ、高島さんも辞任に追い込まれていた。アレーンの周りで残ったのは、スウェーデン語を話す協会の国際局の横田幸子さん(元全日本チャンピオン)くらいだった。当時の強化本部長は風見鶏のように方針を変え、アレーン監督に協力しない状況が続いていた。
 アレーンがやりたいことがあっても何もできない状態に追い込まれていた。一方、選手はようやく彼の人柄ややり方に慣れ、信頼を築き始めていたのは何とも皮肉だった。

 「辞めるけれどもS専務理事に、マスコミや選手にも公表しないでくれと言われた」と苦しそうに語るアレーン。「なんで、辞める準備は君も選手も必要だろう? おかしいだろ」と今野。
 「ぼくもそう思ったから、専務理事には、日本卓球協会も次の準備をする必要があるから、公表すべき、と言ったんだがダメだと言われた。8月のアイントホーヘンでの世界選手権で選手やスタッフに言うつもりだ」
 また、これか。
 協会、とりわけ専務理事は体面を気にして、強化のことを考えていない。こうやって次々に強化の現場の人間が変わり、そのたびに人事もすべて変わり、良い方法も継承されないのだ。だから日本の強化にはつながりがない。
「わかったよ、ソーレン。約束するよ。君も苦しいな、誰にも言えないのは。ひとつだけお願いがある。次の世界選手権の直後の卓球王国にはその記事を載せるよ。それはいいね?」
「わかった」
 
 それから数日後に彼と東京・吉祥寺の居酒屋で飲んだ。飲みながら
「苦しいよ。みんなはまだオレがまだやるつもりで先のことを話してくる。おれは選手にも協会の事務局の人にも、スタッフにも嘘をつきながら8月まで過ごすんだ」
 その日、泥酔したアレーン。そんなに酔う彼を見たのは初めてだった。タクシーに乗せ、あのでかい体を背負って、武蔵境にあった彼のマンションに連れて行った。
 最後のアイントホーヘン(オランダ)での世界選手権はそれから2カ月半後にあった。
<続き>

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  • 8月21日発売の29号に掲載したソーレン・アレーン監督の単独インタビュー