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卓球王国ストーリ-

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 1999年5月上旬のことだ。
 目の前に座ったソーレン・アレーン氏は新宿のサンルートホテルの喫茶店で悲しそうに話を始めた。
 当時、全日本の監督はスウェーデンのソーレン・アレーン氏。低迷する日本卓球界を改革するために日本卓球協会が招聘し、97年8月にナショナルチーム男子監督に就任。アレーン氏は96年ヨーロッパ選手権でスウェーデンの男子監督を務め、優勝に導いていた。

 スウェーデン式のきめ細かい指導法、合宿を行い、若手の発掘などにもエネルギーを注いでいた。また、日本独特の高体連、日学連、日本リーグという連盟が独自に活動するため、ナショナルチームとして合同合宿、強化ができない。そこにもメスを入れようとした。

 ところが、次第に強化対策本部の反対勢力から、「外人の監督に日本の卓球がわかるかのか」という疑問の声が上がり始め、「強化対策本部の監督解任」の動きが出てきた。
 98年アジア選手権が大阪で行われた時も、監督解任を要求する反対勢力の会議が行われ、新聞誌上にも掲載された。

 しかし、現場では、アレーン監督の指導を、徐々に選手たちやスタッフが認めつつあった。合理的な練習であり、体系的なトレーニングの実践、何より選手たちを大事にしていたのだ。
 しかし、時間とともに反対勢力との不協和音が大きくなっていく。加えて、頼りにしていた高島規郎氏も先に辞任に追い込まれ、最後には孤立無援の状態になっていった。

 アレーン氏の人柄と指導力を高く評価していた今野は、その日、インタビューをするつもりで会った。そしてインタビューが始まって、5分も経たないうちに、彼はいきなりテープレコーダーのスイッチを自ら切り、「悪いけど、これからのことはオフレコ(録音不可)にしてくれないか」と切り出したのだ。
<続く>

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  • ソーレン・アレーンの就任早々のインタビューを掲載した11号

  • インタビュー記事

 1997年10月発売の第7号では表紙は卓球界のキング、ワルドナー(スウェーデン)。当時の世界チャンピオンだ。
 ジャパンオープンで大会前半の選手が比較的リラックスしている時に、会場の片隅に撮影セットを組み、選手が練習が終わった時に声をかけ、撮影セットに連れ込み、高橋前発行人が5分ほどで撮影し、その後に今野編集人がミニインタビューするという「王国方式」を確立。

 世界のトップ選手たちは快く応じてくれた。当時の専門誌では世界初の試み(卓球専門誌も多くないけど)というか、通常卓球メーカー誌は契約のからみがあるので、契約以外の選手には「手を出せない」わけだから、卓球王国がやらないでどこがやる、というものだ。

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 28号で晴れて「月刊コード」を取得。これは「月刊誌」として、雑誌流通の中で認められた証だ。ところが、やる気にあふれていた矢先に大トラブルが発生した。

 それは29号、1999年10月号での出来事。
 印刷も終わり、搬入された新しい卓球王国。そこでなんと「乱丁」が起きた。乱丁とはいわゆる製本ミスで、ページの順番が乱れることだ。
 間に合うところには発送をストップし、すぐに再印刷となったが、書店には間に合わなかった。この号は表紙は木方慎之介選手(当時明治大→協和発酵)で、特集は「ボールを左右に曲げる」。冗談ではないが、まさにページが右や左へ移動してしまった。

 この乱丁本を見たときにスタッフは真っ青となった。どれだけの被害があるのだろうと考えると、今野も頭真っ白の状態になった。すぐに再印刷するものでクレームに対応、交換の処置。そして、取り次ぎ会社に謝罪のため何度も出向いた。

 クレームの電話がじゃんじゃん鳴るかと思いきや「いや〜、変わったページの作り方すると思った」と言われる始末で、悲しいかな、こちらの心配とは別に意外にも影響力がないのかなと逆に落ち込んでしまうほどだった。
 創刊以来、お付き合いをしていた大手印刷会社だったが、あまりに無責任な態度に腹を立て、即刻、取引をやめ、別の大手印刷会社に変えたのは、この次の号から。ところが、印刷コストはそれまでよりもだいぶ安くなり、まさに「災い転じて福となす」ことになった。
 この時、今野が感じたのは「ピンチはそこをしのげばチャンスになるんだ」という人生訓だった。
  • 乱丁になった28号

 WEBという電子媒体の力はすごい。リアルタイムに情報が日本中を駆け巡る。最近の卓球王国の毎月の訪問者数は20万人ほどに近づきそうな勢いだ。全日本選手権や世界選手権の速報の時には、50万人を越す。閲覧するページ数は毎日3万ページ、月で100万ページ程か。

 確かに「こんなに情報を発信して、月刊誌は大丈夫?」と心配するのは無理もない。しかし、月刊誌の売り上げも全く落ちていない。
 ある意味、WEBでの情報発信は「スピード」が肝だ。情報量も好きなだけ無制限に発信できる。

 けれども、「月刊卓球王国」のような印刷媒体は確実に「記憶」に残るし、何度も読み返すことができる。同じ情報でも性質は違う。紙媒体は電子媒体の動画にはかなわないが、印刷媒体の視覚と知覚に訴える点において、電子が紙にかなわない部分も多い。

 今や、紙の「月刊卓球王国」と電子の「卓球王国WEB」は、卓球王国という会社にとって、ひとつの大きなパッケージとなっている。
 お互いがインターラクティブ(双方向)に影響と相乗効果を与えることが狙いだ。
 残念ながら、出版界で同じようなこと(ポータルサイトの運営と出版が双方向で密に行われるケース)をやっている会社を見たことがないので、手本にできない。
 出版社などの紙媒体を持っているところは基本的にWEBが怖い。怖いものには手を突っ込みたくない。WEBをやればやるほど自分で自分の首を絞めている感覚になるからだ。

 しかし、出版界でも希有な例として、卓球王国は紙の「月刊卓球王国」と電子の「卓球王国WEB」の両輪を動かそうと試行錯誤している。
 格好良く言えば、卓球界のメディアとしてパラダイム(規範)を変える試みなのだ。
 創刊当時からの昔の話を書き綴っている「卓球王国ストーリー」だが、この辺でちょっと最近のことを書こう。
 
 何年か前から「卓球王国はマンネリになっているんじゃない?」と言われてきた。それはそうだろう。200冊も作っていたら、時に同じことを繰り返している感覚に襲われるのだ。
 
 そこでこの2年間近く、編集会議(進行会議と企画会議の2回行う)では、常に読者ターゲットを明確にしていくこと、同じ企画を繰り返さないことを討論している。最近、以前の卓球王国とは誌面が違ってきているのではないかと思っている。

 そして、最新号でコラムを書いている朝日新聞の稲垣氏がこう心配している。「卓球王国はウェブ展開も熱心だ。速報も早い。雑誌を買わなくても相当な情報を手に入れることができる。無料で貴重な情報を放出して、大丈夫なの? とすら思ってしまう」

 会議でも同様の心配を編集部員はしている。
 しかし、発想を変えるしかない。卓球王国WEBは「情報スピードが勝負」だ。情報は古かったら意味がない。卓球界の情報はもちろんだが、卓球王国の情報をいち早く、大量に発信している。それは、卓球王国WEBから「月刊卓球王国」に強力に誘導するためだ。
 なぜなら、卓球王国の柱は「月刊卓球王国」であることに違いないからだ。作る側からしても、手前味噌だが、この月刊誌の情報量と深さはWEBでは追いつかない。作る側からしても、特に最近の「月刊卓球王国」は面白い。作る方が面白いのだから、読む方はもっと面白いに違いない(!)。
<続く>
  • 編集部(の一部)。事務所移転前はカオス(混沌)だったが、今はさっぱりとしている

 創刊当時から卓球王国が言われ続けてきたこと。
 それは「700円? 高い!」という読者の声だった。創刊号は146ページ、3号目が130ページ。創刊号で様子を見て、3カ月後に2号目、その翌月に第3号、ところが、出版社の関係で2カ月空いて第4号となり、早くも「卓球王国危機説」が流れた。

 146ページで、今よりカラーページは多くないが、700円という値付けは、当時の書店に並んだ他のスポーツの専門誌を見ながら決定した。書店に並んだ時には全く問題のない値段だったが、当時から今まで、卓球人の中で比較されるのは老舗の「卓球レポート」「ニッタクニュース」でそれぞれ400円、300円。だから「卓球王国は高い」と言われる。しかも、前述の雑誌はメーカーのコマーシャル誌で書店に置かれることなく、年間購読すると割引まであるではないか。

 現在、卓球王国は毎月200ページ前後、12月21日発売号はなんと226ページでカラーページが178ページもある。値段は変わらず700円。
 書店での他のスポーツ専門誌はもっとページ数も少なく、900円、1000円という値付け。同業の出版社には「このボリュームでこの値段は安すぎるでしょ」と言われる始末だ。さすがに、創刊から17年経って、「高すぎる」とは言われなくなった。

第4号の表紙は97年世界選手権で男子ダブルスのメダルを獲った松下浩二選手と渋谷浩選手。この号から発売元は骨董品を扱う雑誌を発行している里文出版になった。

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  • この号から発行元が骨董品を扱う雑誌を作っている里文出版になった

 創刊号が出たのは1997年1月。その頃、今野は自分の会社で「TSPトピックス」というメーカー誌の編集に関わっていた。掛け持ちだから、死ぬほどの仕事量になっている。
 一方、高橋(前発行人)氏は自分のカメラマンの仕事をこなしながら、卓球レポートの写真なども撮影していた。
 3月にあるメーカーのお偉い人に二人は呼ばれた。「なんや、あの表紙は、なめとんのか!」。完全な怒りモードだ。
 創刊号の表紙は赤の背景に、赤のウエアを着ていた愛ちゃんこと福原選手。ウエアはタマス製。これが怒りの原因だったらしい。その方曰く、一番のスポンサーはうちだろ。よりによって、タマス製のウエアを着せるとは何ごとだ、と怒り心頭。

 「創刊号は全面を赤にして書店で目立たせたかった。それで選んでいったら、このメーカーのこのウエアが一番良かった」と説明した。「そんなら、卓球ウエアではなくて、その辺で売っているポロシャツにせいや」と収まらない。
 その怒りのせいではないが、第2号はイエローの背景に、イエローウエアの愛ちゃん。ちなみに、そのウエアは怒っていた方の会社のもの。第3号はまた別の大手メーカー……。当時は、表紙を決めるのも配慮のかたまりだった。

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  • 創刊号は赤の背景に赤のウエア

  • 第2号は黄色の背景に黄色のウエア

 85年から2年間、ベースボールマガジン社が刊行していた『卓球マガジン』は日本卓球協会の機関誌だった。
 卓球王国を創刊するに当たり、編集長兼会社代表の今野は単身、日本卓球協会にあいさつに行った。

 当時の協会の事務局長に面会し、聞かれもしないのに「最初から協会の機関誌になるつもりはありません。書きたいことを書ける卓球ジャーナリズムを貫きたいと思っています」などと、今思えば余計なことを今野は言い放っていた。
 当時38歳。若くはないが、発言は、まさに若気の至りだ。最近、わかったことだが、今野が師と仰ぐ荻村伊智朗さん(故人)も自らが発行人となり、製作した『卓球ジャーナル』(現在卓球王国WEBでeBook発売中)を38歳の時に創刊している。ただし、収益性が悪く、赤字を毎月出しながら、約10年間ほどで月刊は中止となった。
 さすがに師匠とはいえ、その部分は真似できない。

 さて、当時の協会の事務局長には「卓球専門誌は大変だよ。簡単じゃないよ。せいぜい借金作らないで頑張りなさいよ」と励ましとは言えない、冷たい言葉が返ってきた。 

 今考えても、協会機関誌という立場であれば、様々な情報も入手しやすく、「錦の御旗」で取材もしやすかっただろう。
 しかし、当時はいきがるわけでもなく、協会機関誌になることは全く考えていなかった。長く、卓球メーカー誌にたずさわり、「書きたいことが書けない不自由さ」を実感し、「使いたい写真を使える自由」がほしかったのだ。

 卓球界の様々な事象を考え、紹介し、時にはいくら内部の人たちと仲が良くても、協会のやり方を批判しなければいけない時があることは十分に予想できた。いみじくも荻村さんは今野の結婚式に出席した際にスピーチでこう言っている。
「テニスにはテニスジャーナリストがいる、サッカーにはサッカージャーナリストがいる。だから、君は今までいなかった卓球ジャーナリストの道を歩むべきだ。それが卓球界への貢献だ」
 その時に、今野が時に協会をも批判する雑誌を作るとは思っていなかったと思う。荻村さんは1994年12月に亡くなった。卓球王国が創刊されたのはそれから2年後の1997年1月である。

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  • 荻村氏が発行していた卓球ジャーナル

 世界の卓球界を見ると、卓球専門誌は実は数えるほどしかない。
 ヨーロッパでは60数万人の登録人口を持つドイツ。『ティッシュテニス』で発行部数は推定15000部前後か? これは月刊誌で、協会の公認誌としてスポーツ系の出版社に委託して作っている。その証拠に、ドイツではクラブ(チーム)も協会への登録制になっており、チーム数も1万ほどあり、協会登録すると自動的にこの月刊誌が送られてくる。
 フランスにも『PING PONG』という月刊誌がある。スウェーデンには季刊か隔月かで発行される『PINGIS』、中国には『ピンポン世界』(兵兵世界)と最近新しく発刊された『ピンポン』(兵兵)がある。韓国には『月刊卓球』。

 そのほとんどが卓球協会の広報誌、機関誌なのだ。そこで収益をあげるというよりも、協会が予算を取り、広報誌として活用しているのが現状だ。
 卓球王国が10周年記念号に、国際卓球連盟のシャララ会長が祝福の言葉を寄せてくれた。
「世界の卓球専門誌はいくつかあるが、わずかな例外を除いて、ほとんどの専門誌は協会が発行したり、卓球メーカーが作っているものだ。ところが、卓球王国は実にユニークだ。民間の出版社が発行している唯一の雑誌だからだ。世界の中でもっともプロフェッショナルな専門誌であることは明らかだ」

 もちろん、カナダのITTFオフィスには毎月卓球王国が送られている(彼らは日本語は読めないが、その「質」はわかるらしい)。シャララ会長とは、彼が日本に来るたびに可能な限り、時間を作って会っている。のちに、彼の甥っ子を預かることになろうとは思わなかったが……。    <続く>
  • 中国と韓国の卓球専門誌

 「燃えた撮影、岩崎事件」のあった創刊2号。この号では、お恥ずかしいミステイクもあった。
 それは五輪ダブルス金メダリスト、シングルス銀メダリストの中国の大物サウスポーの「王涛(ワン・タオ/オウ・トウ)」。来日した際に、撮影とインタビューを行ったのだが、出来上がってから読者に指摘された。
「なせ、王涛は右手でラケットを握っているんですか?」
「ガーーーンン!!」

 ショックだった。あれだけ何人もかけて校正(文字と写真のチェック作業)したのに、何とも初歩的なミスではないか。
 つまりこうだ。
 卓球王国は創刊号から完全デジタルでDTP(デスク・トップ・パブリッシング)をやっていた。これは当時は珍しく、パソコンのMACを使って、最終原稿までパソコンで作成するもの。ただし、当時は今のようなデジタルカメラでは撮影していなかったので、フィルム撮影だった。

 撮影したフィルムを印刷所に渡して、スキャンしてもらい、印刷所がDTPのデータに貼り込むのだが、その時に表裏が反対に貼り付けられ、右利きになった王涛に編集部では誰も気がつかなかったのだ。
「オウットウ! 何というミスだ!」としゃれを言っている余裕など全くなかったは当然のこと。トホホ・・・。
  • 王涛のページ

  • 右利きでも様になっている(そういうことじゃなくて・・・・)