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卓球王国ストーリ-

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 SPIN-OFF(スピンオフ)とは副産物、派生商品という意味だ。
 1997年1月に創刊した卓球王国は、その後月刊化を達成し、3年ほど経ってから別冊を考えた。スポーツ出版界で様々な別冊はあるが、まず考えたのは卓球王国ならではの「別冊卓球グッズ」。メーカーの枠を超えた用具マニアのための一冊だ。第1号は2001年1月だった。
 この辺から「転がりだしたボールは止まらない」状態だ。
 01年世界選手権大阪大会の前に大会ガイドブックとして「卓球世界戦」の別冊を出した。のちにこれは09年世界選手権横浜大会の大会公式ガイドブックにつながっていく。

 そして同年の秋には「卓球写真集」を出すことを決めた。世界戦での素晴らしい写真を収めた卓球写真集だ。世界選手権後、早速、ITTF(国際卓球連盟)シャララ会長と直接メールのやりとりで「ITTFの公式写真集として出版」という話を取り付けた。

 あれから13年経った。
 昨日、締め切り直後の編集会議を行った。4月、5月の SPIN-OFF(スピンオフ)を確認した。
 4月中旬に「写真集TABLE TENNIS FASCINATION」(150ページ)、同じく世界卓球直前に「公式プログラム」(150ページ)、4月21日発売号の卓球王国には60ページの「日本卓球リーグ選手名鑑」が付録(日本リーグではこれは公式の選手名鑑になります)として入る。
 そして5月下旬には「別冊卓球グッズ」が発刊。
 編集スタッフはなぜか無口(!)になり、下を向く人もいる。そうです。月刊誌以外にこの仕事をこなし、しかもほとんど外部スタッフなしでやる。まさに春の正念場! 
 編集長は鬼!と陰口をたたかれているに違いない。
 各自の担当割もほぼ終えた。手前味噌であるが、卓球王国のスタッフの仕事のスキルは相当に高い(おだてなければ・・でも、ホント)。
 「この仕事をこなしたらみんなで南の島でバケーション!」。もちろんこれは編集長の妄想ですが(笑)。
  • 第1号の別冊卓球グッズ

  • 2001年世界選手権前の別冊

 2001年秋に今野が向かったのは上海。
 地元で駐在している日本人向けの『上海ウォーカー』という雑誌を発行されている会社を訪れた。そこで中国での出版事情のレクチャーを受けたのだ。

 そこでわかったのは、雑誌、書籍を出版するには政府の許可が必要で、政府系の広告代理店を使わなければいけないこと。出版社などのマスコミは日本からの独資(100%子会社)は不可能。合資(中国の会社との共同出資)が可能か微妙、もしくは100%の現地法人にしなければいけないこと。
 このハードルは高かったし、わかったことは、中国におけるマスコミはすべて政府にコントロールされているという点だ。
 
 もし、中国にとってマイナスのことを書いた出版社は、許可を取り消され、出版を絶たれることを意味する。
 そういうことを考えたら、苦労して独立したものの、出版の自由を与えられている日本は天国にも思えた。

 いずれにしても、中国版卓球王国の夢はこのときに遠のいたのだ。
 創刊してから4年ほど経ち、2001年に全中国大会に取材に行った卓球王国編集部。その頃から、「中国で卓球王国を発刊できないか」と今野は考えていた。
 実は創刊して2年ほど経った頃、台湾(チャイニーズタイペイ)で3回ほど「中国語版・卓球王国」が発刊されている。それは台湾のある卓球用具メーカーの代理店が王国のデータを使い、現地の人が翻訳して作ったものだ。技術ページやトップ選手のインタビューなどは使えるので、いわゆるライセンス契約での台湾版卓球王国発刊だったが、うまくいかなかった。
 それは台湾市場では広告収入も少なく、競技人口が少なかったからだ。

 しかし、何度も中国に足を運ぶうちに、中国市場の大きさに当時から実感し、特に卓球王国より前に発刊していた「ピンポン世界」の広告ページの多さに注目していた。広告が入れば、雑誌は成り立つ。まさに北京五輪の前のスポーツバブルだったのかもしれない。

 全中国大会が終わった後も、一度、その可能性を探るために今野は上海に乗り込んだ。現地でビジネスをしている知人を頼って、現地の出版社や紅双喜の社長などと面会した。そこで聞いたことは日本では想像できないことだった。 
 <続く>
  • 中国の卓球専門誌「ピンポン世界」

 卓球王国が全日本選手権のランカー(ベスト16)の使用用具を記載するようになったのは、創刊されて3回目の全日本取材からだ。98年12月開催の全日本選手権からだった。

 それは今思えば画期的なことだった。それまで、メーカー情報誌では契約選手の用具は公表しても、それ以外の選手の用具には触れないし、タブーだった。そのメーカーの用具を使っている人だけが登場したり、中には撮影用に貼り替えたり・・というウソのような話を聞いたことがある。
 卓球王国が全日本上位者の男女32名の使用用具を掲載した。
 世の中の用具オタクや中・高校生が泣いて喜ぶようなページだったに違いない。
 
 ところが、問題が発生。それはメーカーと契約している選手が、そのメーカーのものを使用していないケースがあったからだ。それを書いてしまうと、選手が契約打ち切りだと言われてしまい、生活にも影響を与えることになってしまう。困った。
 そこで、そういう場合は、あえてメーカー名を入れない表記にするしかなかった。メディアとして、公表したいのはやまやまだが、選手の生活を脅かすのは本意ではないからだ。(ただそのメーカー名を入れない時点でバレバレだが・・・)

 結果として、「全日本報道で卓球王国が使用用具を公表する」ことが選手やメーカーにも浸透していくことになる。
 最近では、男子においてバタフライがテナジーで寡占状態。これほどの広告効果のあるページはないだろう。他メーカーからすると目障りにも思えるページで、「あれだけの独占だったら、やる意味ないから、あの公表スタイルは不要かも」という意見も出てくる。
 しかし、用具マニアや他メーカーの奮起を期待するためにも続けていくべきなのか。卓球市場は生き物だ。いつか「テナジー超え」を果たすラバーが出現して、使用用具の傾向が変わるかもしれない可能性もあるのだから。その時には読者はそこを知りたくなるだろう・・。
  • 最新号では1月の全日本選手権の選手データ&使用用具を掲載している

 あれは藤井基男さんが亡くなる6年前だった。
 藤井さんから今野への電話。いや、わざわざ会社まで来ていただいたのかもしれない。「面白い人がいるんだけど。伊藤条太さんという人なんだ。一度原稿を読んでもらいたいんだけど」
 こんな会話だったかもしれない。というか、この頃の記憶があまり鮮明ではない。大体は後日、伊藤条太さんから聞いて、今野の記憶に上書きされている気がするからだ。

 初めて伊藤さんと会ったのは1997年。千葉のジャパンオープンの会場。いきなり声をかけられたような……。伊藤さんは以前、今野がやっていたTSPトピックスに「タマキチくん」というギャグマンガを送ってくる常連だった。その程度の記憶だった。確か、会場で「もし私が若かったら、卓球王国で働きたいと申し込んでいた」というニュアンスのことを言ってきた。伊藤さんは宮城県の仙台で、世界的な企業で働く会社員。当時から、抑揚のないしゃべり方で、理屈っぽい、理系の臭いを発する人だった。
 今よりも、頭もふさふさで、「卓球王国で……」と言った時にメガネの奥で眼光がキラッとしたような(のちに確認したらコンタクトレンズだったので、これは記憶違い(笑))、しないような。その後、お互いの連絡も途絶え、一度全日本選手権の会場で立ち話をした程度。
 なのに、ある日、藤井さんからの推薦の言葉。後で聞けば、藤井さんは他の卓球メーカー専門誌も紹介したそうだが、本人(伊藤さん)のたっての頼みで、卓球王国になったとのこと。伊藤さん、見る眼はある!

 それからの「伊藤条太」の活躍はみなさんのご存じの通り。「文字好きの卓球愛好者」から絶大な支持を受け、「THE FINAL」では卓球記録映画監督まで務めるほどだ。
 いつも仕事帰りに、伊藤さんと電話をするのが今野の習慣になっており。楽しい。
 そんな楽しい卓球マニアを紹介していただいた藤井さんは卓球王国という会社にとっても恩人なのである。
*記憶違いは「たぶん」本人がブログで修正すると思います。あしからず。
  • 仙台駅の前で藤井さんと伊藤さん(若い!)

 今野が24歳か25歳頃、今で言うプータローというか、アルバイトをしながらその日暮らしをしていた。ある日、荻村伊智朗さんから電話をもらった。「今野、藤井さんが会いたいと言っているから、会社に来なさい」
 以前から貧乏学生だった今野は藤井基男さんが編集長として当時関わっていた「卓球ジャーナル」(発行人・荻村伊智朗)のアルバイトをしていた。
 荻村商事(社長・荻村さん)に行くと、藤井さんに近況を聞かれ、「卓球ジャーナルで働いてみるか」と言われた。
 藤井さんは岩手県庁を経て、「卓球レポート」(タマス社刊)の編集長として名著を残した人だ。頭が良くて、シャイで優しい人だった。数年間、藤井さんのもとで仕事をさせていただいて、卓球雑誌の編集のノウハウを学んだ。

 卓球王国を始めてからもいろいろと応援していただいて、藤井さんの本を小社から三冊上梓した。卓球歴史家として文章の書ける人を私は藤井さん以外に知らない。
 2009年4月。横浜での世界選手権を目前に控えたある日、同じ青卓会で卓球をしていたITS三鷹の織部幸治さんから電話をもらった。「藤井さんが入院している。なるべく早く会ったほうがいいよ」。以前から、ガンが転移をしているのは本人から聞いていた。「ついに来る時が来たのか」と落ちこんだ。

 千葉の成田市にある病院にお見舞いに行った。枕元には「世界選手権横浜大会の公式プログラム」が置いてあった。卓球王国が製作したものだ。「悪いね、今野君。せっかく立派なプログラムを送ってもらったのに、読めないんだよ」と絞り出すように声を出す藤井さん。すっかり体は細くなっていた。
 「藤井さん、この病室にテレビがあるから、世界選手権見てくださいね」と言ったが、じっと前を見つめた藤井さんから返事はなかった。

 「民間の出版社で卓球の専門誌を成功させたのは卓球王国だけなんだから、すごいことだよ今野君。君とはよい仕事をさせてもらったよ。ありがとう」。最後まで、人を思いやり、励ます人だった。
 目の前の藤井さんがぼやけてしまいながら、こう言うのが精一杯だった。「ぼくのほうこそ、感謝しています。藤井さんと出会ってなければ、こうやって卓球王国もやっていないんですから」。

 「早く良くなってください」とその時、言えなかった。最後に、「今野君、もっともっと頑張ってね。君は歴史に残る仕事をしているんだから」。握った手は細くなっていた。涙で藤井さんの顔がよく見えなかった。
 それが恩師・藤井基男さんの遺言だった。
 大好きだった藤井さんが亡くなったのは2009年4月24日。その4日後に横浜大会は開幕した。
  • 若かりし頃の藤井さん(左)と荻村さん

 もし「荻村伊智朗」という人がいなければ、「卓球王国」は存在しなかっただろう。
 今や卓球界ではその名前が認知されるようになった卓球王国。創刊当時、雑誌自体を知ってもらうことから始まった話は前述の通り。

 会社設立時から編集長と代表を務めていた今野は、山形の高校を卒業後、東京での一浪を経て、武蔵野美術大学の造形学部視覚伝達デザイン学科に入学。とはいえ、中学・高校時代は指導者のいない中で「卓球一色」。愛読書は「卓球レポート」。高校時代に読んだ記事の中で、鳥取の青谷町の山根さんという方が、東京で荻村さんに師事し、帰郷後に指導者になったことに目をとめ、「自分も荻村さんに教わり、帰郷して指導者になろう」と決めた。
 美術部でもなく卓球部だったのに、美大を目指すという、今思えばハチャメチャな進路ではあったが……。

 東京の三鷹に本拠地があり、荻村さんが主宰していた「青卓会」という卓球クラブに入り、卓球に打ち込んだ今野。荻村さんの独特の卓球理論に包まれ、常に海外の選手などとの交流がある環境だった。ヘボなのに卓球に打ち込みすぎて、大学を中退する始末。「ヘボほど卓球が好き」。これは後年、前原正浩さん(日本卓球協会専務理事)に言われた名言(!?)だ。
 その後、荻村さんの会社に入り、「卓球ジャーナル」や卓球メーカー専門誌と関わることになった今野。「卓球が好き→美術大学でデザインを専攻→写真も撮れ、レイアウトもできる→編集が好き」というつながりで、この世界に足を踏み入れた。

 ちなみに、初のビッグゲームの取材は1979年世界選手権ピョンヤン大会。当時はまだ大学2年生。「今野、大学で写真も勉強していたな、ピョンヤン行くぞ」と軽く言われたが、それが人生を変えるようなアルバイト(?)だったのだ。(アルバイトと言っても報酬はなく、世界選手権を見れるというご褒美のみ。食費も確保され、これでも十分だった!)
 もちろん、荻村さんとの出会いがなければ、卓球専門誌の仕事もしていなかっただろう。卓球王国の発行人となるカメラマンの高橋氏との出会いもあり、 のちに独立し、卓球王国を設立、創刊することになる。
 「卓球をメジャーにするために、卓球ジャーナリストの道を歩め」とは荻村さんが亡くなる4年前に言われた言葉だ。その道をしっかりと踏みしめているかどうか、天国の師匠は何と評価してくれるのだろうか。
  • 荻村さんが生きていたら「卓球王国」はどのように評価されるだろうか

 通常、外国選手のインタビューする時には二通りの方法をとる。
 まずその選手の母国語と日本語のできる通訳を置く場合。その選手の内面の部分まで質問することができる。ただし、これは通訳する人の力量に頼ることになるし、卓球を知っている人となると適任の人を捜すのは難しい。

 もうひとつは、今野が英語でインタビューする場合。これは対象選手の英語の力量と今野の語学力によるのだが、例えば、スウェーデン選手やサムソノフ、ロスコフなどはこれでも大丈夫だ。

 ガシアンは英語が相当に話せるし、シーラも大丈夫なのだが、パリでの取材の時には英語ではなく、フランス語にしたかったので、無理を言って、通訳にミッシェル・ブロンデルコーチの奥さん「かおりさん」にお願いした。フランスに長く住む日本人である。

 やはり母国語のほうが感情は伝わる。取材は当時二人が所属していたパリ郊外の『ルバロワ卓球クラブ』のクラブハウスで行った。
 そして、ガシアンの父の話になった時に、感極まってガシアンもシーラも涙を流しながら当時のことを振り返ったのだ。当然、インタビューするほうももらい泣き……。
 彼らのバックグラウンドを知る卓球メディアならではの取材だった。
 今でも、ガシアンと会って、食事などをするとその時の話になる。「インタビューを受けて泣いてしまったのはあの時だけだよ」と彼は言う。感動する瞬間は言葉を超えて存在する。
 編集者冥利に尽きる経験だ。


e Book 2001年2月号
http://world-tt.com/ps_book/ebook.php?lst=2&sbct=A&dis=1&mcd=AZ145&pgno=7
  • ガシアンとシーラのインタビュー

 今野は編集者(1981年以降)としてのキャリアの中で、何百人以上のインタビューをしてきた。その中でも最も印象深いインタビューがフランスのガシアンとシーラへのそれだ。
 ガシアンは1993年世界チャンピオン。シーラは当時ヨーロッパのトップ選手の一人で、ダブルスのパートナー。二人は2000年シドニー五輪の男子ダブルスで銅メダルを獲得した。

 しかし、92年バルセロナ五輪でも銀メダルを獲得しているなど、ガシアンの銅メダルには驚かないのだが、大会前に彼のお父さんが亡くなり、五輪前に十分に練習できる状態ではなかった。

 ガシアンのお父さんは、いつもフランスチームの試合に帯同して、トランペットを持って応援する陽気な人で、世界選手権を観戦した人ならば誰でも知っている有名な人だった。その父の急死でガシアンは打ちひしがれていた。そしてチームメイトも……。シーラも個人的にもガシアンと仲が良く、家族ぐるみのつきあいをしていた。
 そこの背景を十分知っていたし、また友人のフランスのミッシェル・ブロンデルコーチからも聞いていた。

 かくして、2000年秋のヨーロッパ取材は、まずパリに降り立ち、この二人のインタビュー、そしてその後ドイツに行き、日本選手の活躍を見に行くことになっていた。 <続く>

e Book 2001年2月号
http://world-tt.com/ps_book/ebook.php?lst=2&sbct=A&dis=1&mcd=AZ145&pgno=7
  • ガシアンとシーラが表紙を飾った2001年2月号

 出版社として独立する直前、2001年1月に卓球王国初の別冊を出した。「卓球グッズ」だ。13年ほど前の話だが、なぜ1月という卓球市場の冷え込む季節に発刊したのか記憶があいまいだ。
 ただ「月刊誌として何とか別冊を出したい!」という強い思いだけがほとばしっていたのは想像できる。このあとには大阪での世界選手権のための別冊も出している。今考えれば、少ない人数で恐ろしい仕事量をこなしていたことになる。

 月刊コードという資格があれば、月刊と月刊の間に1冊別冊を出せるというのが雑誌の流通界の決まり事。果たして「卓球グッズ」は無事に発刊。今見てもなかなかの出来映えだ。全メーカーの新製品カタログや用具のこだわり、グッズストーリーなど、内容も豊富。用具マニアの垂涎の的になるような一冊になっている。
 卓球メーカー誌ではない卓球王国ならではの別冊と言えるだろう。


↓王国e Book『卓球グッズ2001』はこちら
http://world-tt.com/ps_book/ebook.php?lst=2&sbct=B&dis=1&mcd=BZ038&pgno=1