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中国リポート

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●北京市出身の男子選手
盧啓偉・王大勇・楊玉華・范長茂・滕義・陳志斌・張雷・王涛・熊柯・楊子(ヤン・ツー/シンガポール)・唐鵬(香港)・侯英超・閻安
※荘則棟(5歳で江蘇省揚州市から転居)


 北京市出身の主な男子選手は、上記のような顔ぶれになる。北京市卓球チームが発足したのは1956年。国家体育運動委員会(現在の国家体育総局)の初代主任である賀竜元帥が、全国から優秀な卓球選手を集めてチームが発足。実質的には国家チームと言っていい顔ぶれで、発足から10年あまりは全国大会でも無類の強さを誇った。

 そして北京市チームが生んだ伝説のチャンピオンが、1961・63・65年世界選手権優勝の荘則棟だ。出生地は江蘇省揚州市だが、両親とともに5歳で北京市に移住。揚州市で卓球を始めたわけではないので、北京市出身とさせていただこう。幼い頃は体が弱く、5歳の時でも15kgしかない痩せた子どもだったというが、15歳で北京市のジュニアチャンピオンに輝き、1958年に国家ジュニアチーム入り。フォアの攻撃とバックショートという「左推右攻(左押し・右打ち)」の中国式ペン速攻とは違う、「両面攻(両ハンド攻撃)」スタイルを独自の工夫で磨いていく。
 
 荘則棟は61年北京大会で男子団体・シングルスの2冠を制して国民的英雄となり、63・65年大会も制して3連覇を達成。65年大会決勝の李富栄戦については、「上層部から『荘則棟が勝つ』という命令が下りました。いろいろな人から3回目の優勝は『李富栄が負けてくれた』と指摘されましたが、それは事実です」と自ら語っているが(卓球王国2003年8月号)、それまで荘則棟は李富栄に対して圧倒的に分が良かった。公平な条件で対戦しても3連覇の可能性は高かっただろう。外国選手に手の内を見せないように、あるいは強いチャンピオンを誕生させて中国の国力を示すように、上層部が中国選手同士の勝敗を決める「勝利者操作」が日常的に行われていた時代だ。

 2013年2月に亡くなった荘則棟の激動の人生については、ここではとても書ききれない。1974年に国家体育運動委員会(現:国家体育総局)のトップ(主任)にまで上り詰めながら失脚し、80年から山西省チームで指導するようになった時、発した名言。「練習をナショナルチームの2倍することです」と荘則棟が提案した時、「私たちはいつ寝るんですか?」と驚く選手たちに彼はこう言った。「生きている時にずっと寝ていたら、あなたがたは死んだ時に何をするんですか」。大企業の管理職が言ったら猛烈なパワハラになりそうだが、何という迫力だろうか。卓球王国編集部でも未だに(冗談で)よく使われている。

 それから少し下の世代では、『幻惑の縦回転サービス』でもお馴染みの楊玉華(日本名:大倉峰雄)は、83年世界選手権東京大会の男子複銅メダリスト。東北福祉大に留学後、全日本学生4連覇と圧倒的な強さを見せた。楊玉華から3〜4歳年下の范長茂と滕義も、いずれも中国代表で活躍。右ペン表ソフトの范長茂は83年東京大会の男子団体優勝メンバーで、後にドイツ・ブンデスリーガでもプレーし、現在はもともとの母体である八一解放軍チームの男子監督を務める。右シェークフォア表ソフトの滕義は、85・87年世界選手権男子シングルス3位、87年男子ワールドカップ優勝。ぎこちないバックハンドと、長身を屈めるようにして打つフォア表ソフトの強打が印象的な、天才肌のプレーヤーだった。

 近年の選手では、96年アトランタ五輪銀メダリストの王涛がいる。「パンダ」の愛称で親しまれ、小柄で太鼓腹の体躯でありながら、打球センスは抜群。バック面の表ソフトから繰り出す「七色のバックハンド」と、左腕独特のシュートドライブで世界の頂点に迫った。劉偉と組んだ混合ダブルスでは世界選手権3連覇を達成しているが、同一ペアでの混合ダブルス3連覇は世界卓球で唯一の記録。長身で美人の劉偉の横で、少々遠慮した様子で立っていたのを思い出す。現在は八一解放軍チームの総監督で、軍人としても少将の要職にある。

 昨年、全中国選手権で39歳にして「19年ぶりの優勝」を飾った侯英超は、Tリーグでは木下マイスター東京の守護神。中国スーパーリーグでは2006年まで北京銅牛でプレーした。馬龍も所属していたクラブで、ちなみに当時監督だった閻永国の息子さんが閻安だ。北京銅牛はこのシーズンを最後に甲Aリーグに降格し、現在に至るまでスーパーリーグには北京市のクラブは登録されていない。2018年から中国卓球協会の副会長を務める張雷(93年世界選手権男子団体・ダブルス2位)のお膝元だけに、北京市をスーパーリーグの檜舞台に戻せる、地元出身のチャンピオンの登場が待たれるところだ。

◎北京市男子明星隊 MEN’S BEIJING ALL STARS
先鋒 侯英超
次鋒 范長茂
中堅 滕義
副将 王涛
大将 荘則棟


・数多くの名選手がいる中で、あえて全員「正胶(表ソフト)」の使い手を選ばせてもらった。右シェークバック表ソフトカットの侯英超、右シェークフォア表ソフト速攻の滕義と左シェークバック表ソフト速攻の王涛、そして右ペン表ソフト速攻の范長茂と荘則棟。速さとテクニックを兼ね備えた強豪チームだ。
  • 1960年代に中国の国民的英雄となった荘則棟。まさに不世出のチャンピオン

  • フリーハンドを体に巻きつけるような独特のスイング。真似した人も多かった

  • 右シェークフォア表ソフト速攻の滕義。世界選手権は2大会連続3位

  • 15年スーパーリーグプレーオフで、解放軍チームのベンチに入った范長茂

  • 95年世界選手権での王涛(左)/劉偉のプレー。この大会で3連覇達成

  • 張雷は中国卓球協会の副会長。選手時代は日本のサンリツでもプレー

  • 今も現役バリバリの侯英超。3位に入った06年ITTF・WT・グランドファイナルでのプレー

  • 08年北京五輪で、故郷に錦を飾ったヤン・ツー

 中国卓球人国記は黒龍江省・吉林省・遼寧省という「中国東北部」を離れ、今回は首都である北京市を紹介する。出身選手について紹介していく前に、まずは北京市と卓球というスポーツの関わりについて取り上げたい。……小難しい長文になってしまいますが、しばしお付き合いを願います。

 この北京市の中心部にある世界遺産「天壇公園」の東側に、体育館路という一本の道路がある。800mほどの短い道路だが、その両側には国家体育総局、中国オリンピック委員会など、中国のスポーツ機構の中枢が集まっている。国家卓球チームが練習する国家体育総局・訓練局(ナショナルトレーニングセンター)の卓球場や、選手たちが暮らす国家チーム専用の選手寮『天壇公寓』もここにあり、中国代表選手の練習拠点として機能している。中国卓球協会の広報誌『ピンパン世界』も、国家体育総局の下部組織である中国体育報業総社のビルにオフィスを構えている。

 様々なスポーツのトレーニングセンター、スポーツ用品店やスポーツに関する書籍を扱う書店が立ち並ぶ体育館路。筆者もずいぶん昔、邱鐘恵さんが創業した『邱鐘恵体育用品商店』を訪れるため、この体育館路に足を運んだことがある。邱鐘恵さんは1961年に北京市で行われた第26回世界卓球選手権北京大会で、中国女子初のシングルスチャンピオンとなった中国卓球界のレジェンド。そして北京市と卓球の関わりを振り返る時、欠かせないのがこの世界選手権北京大会だ。

 北京大会が行われる7年前、建国から間もない1954年にIOC(国際オリンピック委員会)に加盟した中国。オリンピックを中国の威信を示す「国威発揚」の舞台にするため、国内大会では陸上や重量挙げの世界記録が次々に更新され、各競技で強化が進められた。しかし、中国(中華人民共和国)と同時に台湾(中華民国)もIOCに加盟したことで、いわゆる「ふたつの中国問題」が発生。台湾の除名を求める中国に対し、IOCのアベリー・ブランテージ会長は「オリンピックは政治を語る場ではない」と要求を拒否し、中国は加盟からわずか4年後の1958年にIOCを脱退。陸上・水泳・サッカーなど8つの国際競技連盟、そしてアジア卓球連盟からも脱退し、国際スポーツ界から孤立していく。

 中国が加盟を続けた国際競技連盟は、卓球・バレーボール・アイスホッケー・スケートの4つのみ。ITTF(国際卓球連盟)ではイギリスの共産党員でもあったアイボア・モンタギュ初代会長が中国と密接に連絡を取り、台湾(中華民国)からの度重なる加盟申請を否決していたため、「ふたつの中国問題」が発生しなかった(現在はチャイニーズタイペイとしてIOCやITTFに加盟)。

 陽の光が差すほうへ芽が伸びていくように、中国は卓球というスポーツで成績を伸ばしていく。先に国際大会で成績を残していた香港から、52年世界男子団体3位の傅其芳・姜永寧、さらに容国団を中国に招聘。容国団は59年世界選手権ドルトムント大会の男子シングルスを制し、中国に初の世界タイトルをもたらした。中国はソ連(ソビエト連邦)との「中ソ対立」によって、スポーツ大国であるソ連との「ソ連ルート」が下火になっていたが、卓球では「香港ルート」が大いに活用された。

 そして59年ドルトムント大会でのITTF総会で、1961年第26回世界卓球選手権の北京市での開催が決定。建国以来、初の世界的なスポーツイベントの開催に向け、中国全土で集合訓練と選抜リーグが行われ、1960年12月に108人の選手を初代国家チームメンバー(108将)として北京市に集めた。当時、中国は毛沢東による急進的な社会主義政策「大躍進政策」の失敗により、数千万人の餓死者を出す未曾有の国難に見舞われていたが、国家チームの選手たちには十分な食糧が与えられた。邱鐘恵が合宿所から外出した際、飢えた市民たちが食糧の代わりに木の葉を摘んでいるのを見つけ、「木の葉が食べられるの?」と尋ねて笑われたという逸話を自伝に記している。

 突貫工事で建てられた北京工人体育館(収容人員15,000人)は、観客を2回入れ替えながら連日超満員。毎日4万5千人の観客が入ったことになる。中国チームは観客の大声援をバックに、男子団体と女子シングルスで初優勝するなど、7種目中3種目を制した。先日亡くなられた星野展弥さんの連続ロビングを、徐寅生が連続強打でついに打ち抜いた「十二大板」など、数多くの名勝負や逸話が生まれ、国威発揚の最高の舞台となった。中国の現代スポーツ史において、61年世界選手権北京大会は重要なトピックスのひとつだ。

 世界選手権北京大会から10年後、第31回世界選手権名古屋大会で展開された中国とアメリカの「ピンポン外交」では、翌72年にアメリカ選手団が北京市を訪問。中国の建国後、初のアメリカ人による公式訪問となった。それに前後する形で、中国は国連への復帰(71年)、IOCへの再加盟(79年)など国際社会への扉を次々に開いていった。

 世界選手権北京大会とピンポン外交は、卓球が中国の「国球(国技)」と呼ばれるようになった二大要因と言っても過言ではない。競技スポーツに「為外交服務(外交に奉仕する)」と「為祖国争光(祖国のために栄光を勝ち取る)」というふたつの任務が課せられている中国。首都であり、政治の中心である北京市は、卓球というスポーツを通じて国際政治の檜舞台となる「宿命」を背負っていたのだ。
  • 1961年世界選手権北京大会の舞台となった北京工人体育館

  • 中国女子初の世界チャンピオンとなった邱鐘恵

  • 松崎キミ代さんと歓談する中国の周恩来総理(左端)

 6月23日、創設記念日の「オリンピックデー」を迎えたIOC(国際オリンピック委員会)は、オンラインで世界のトップアスリートがリレーを繋ぐ「トレーニング教室」を実施。卓球からはウーゴ・カルデラノ(ブラジル)が参加し、様々なトレーニングメニューで自慢の身体能力を披露した。

 中国オリンピック委員会も同日、「保持強大(stay strong)」をテーマとして、中国が生んだオリンピアンたちによるオンラインイベントを開催した。中国チームからは劉国梁・中国卓球協会会長と馬龍・丁寧が3人揃って登場。さらに引退したレジェンド枠として、五輪・世界選手権・ワールドカップでの優勝という「大満貫」を達成した伝説の女王、鄧亜萍・王楠・張怡寧が元気な姿を見せた。ちなみに劉国梁・馬龍・丁寧の3人も大満貫を達成しており、最強軍団・中国ならではの豪華メンバーだ。

 劉国梁会長は東京五輪が1年延期されたことについて、「ポジティブに考えれば、2024年のパリ五輪までの3年で二度のオリンピックに出場できるということであり、これはひとつのチャンス。どんな時も積極的な姿勢と自信を保つことで、本当に強い選手になれるのだ」とコメントした。

 一方、3人の女王も後輩たちへエールを送った。92・96年五輪優勝の鄧亜萍は日本女子チームの急速な進化に触れ、「中国チームもさらに進化を速めなければいけない」と警鐘を鳴らした。2000年五輪優勝の王楠は「試合のリズムをコントロールする能力をより高めてほしい」とコメント。08年五輪優勝の張怡寧は中国最大のライバル・伊藤美誠選手に対し、「伊藤(美誠)のバックハンドは非常に速く、中国ではあのようなスタイルの仮想選手(トレーナー)を見つけるのは難しい。普段どおりのプレーだけでは対応できないし、時には非合理なプレーも必要」と語っている。

 現在、中国選手団は3月中旬から集合訓練を行っていた中国・マカオを離れ、広東省広州市の広州体育職業技術学院で練習しながら、2週間の隔離期間を取っている。かつて劉詩ウェンや樊振東、周啓豪らが腕を磨いた体育学校だ。その後、チームの選手たちは久々にそれぞれの母体のチームへと戻り、7月下旬から再び集合訓練をスタートさせるという。
  • 「ピンチをチャンスに」と劉国梁会長(19年男子ワールドカップ時)。……後ろのパンダちゃんが気になりますね

◎遼寧省出身の女子選手(再掲載)
[瀋陽市]張瑞・于夢雨(ユ・モンユ/シンガポール)・侯美玲(フー・メレク/トルコ)・周シントン・周一涵(ジョウ・イーハン/シンガポール)・陳幸同
[鞍山市]王越古(シンガポール)・韓莹(ハン・イン/ドイツ)・單暁娜(シャン・シャオナ/ドイツ)・李暁霞・郭躍・常晨晨・石磊(石賀浄/韓国)・曹麗思・王芸迪
[撫順市]王楠・湯媛媛(張莉梓/日本)・木子・劉詩ウェン
[丹東市]文佳
[錦州市]胡玉蘭・李佳・李佳イ   
[本渓市]朱香雲


 数多の女子世界チャンピオンを輩出してきた遼寧省。その2回目では、地元を離れて成功した選手たちにスポットライトを当ててみたい。

 2012年ロンドン五輪金メダリスト、13年世界選手権優勝の李暁霞は鞍山市の出身。7歳で卓球を始めてたちまち虜(とりこ)となり、母親の姜艶さんは李暁霞の練習のため、家に卓球台を買い込んだ。その後、何度か遼寧省ジュニアチームの集合訓練にも呼ばれた李暁霞だが、同い年の郭躍に比べると俊敏性のない地味なプレーに映り、ジュニアチームに残ることはできなかった。

 李暁霞はその後、「啓蒙教練(初期のコーチ)」である石雪梅に連れられて参加した山東省での大会で、山東省チームのコーチに才能を見出され、10歳にして山東省へ移籍してプロ選手の道を歩み始めた。あまりに選手層が厚いため、優秀な人材が次々に流出し、結果的には人材の「空洞化」を招いてしまったというのが、「王者の揺籃」遼寧省のもうひとつの側面でもある。

 李暁霞はその後、02年全中国選手権を14歳で制して国家1軍チーム入り。世界選手権では07・11年と女子シングルス決勝で悔しい敗戦を喫したが、12年ロンドン五輪で初出場・初優勝。13年には世界選手権と地元・鞍山市での全中国運動会を制し、いわゆる「全満貫」を達成した。「李暁霞時代」は決して長くはなかったが、バックサイドを厳しく切るバックドライブから、回り込んで両サイドへ一撃のフォアドライブで打ち抜くコンビネーションは抜群。長身を利した、李暁霞ならではの「勝利の方程式」だった。

 遼寧省を去ったもうひとりの世界女王は、劉詩ウェン。出身は王楠と同じく、古くから炭鉱の街として知られた撫順市。母親の王麗風さんはかつて遼寧省チームでプレーした卓球選手で、娘が5歳の時には卓球を始めさせた。劉詩ウェンを教えていたのは、かつて王楠も指導した「啓蒙教練」の張晶清コーチ。後に張コーチは広東省広州市で指導するようになり、王麗風さんはわずか7歳の娘を張コーチに託し、撫順市から遠く離れた広州市へ送り込んだ。

 最初はホームシックにかかって毎日泣いていたという劉詩ウェンだが、次第にその天賦の才を発揮して、05年に国家1軍チーム入り。世界選手権では09年横浜大会から3位・3位・2位・2位・3位と頂点を目前に足踏みが続いたが、19年世界選手権で初優勝を飾り、10年越しの悲願達成となった。現在は右ひじの故障が長引き、マカオでの集合訓練中に行われている部内対抗戦も3回連続で欠場するなど、その状態が懸念されているが、有終の美を飾ることはできるだろうか。

 その他の選手では、海外への移籍組の多さが目を引く。シンガポール女子チームの主力となった王越古・于夢雨(ユ・モンユ)・周一涵(ジョウ・イーハン)、ドイツ女子チームのツインエースである韓莹(ハン・イン)・單暁娜(シャン・シャオナ)など、帰化選手が主軸の強豪国を支えてきたのは遼寧省出身の選手たちだ。福原愛さんの専属コーチとなり、強い絆で結ばれた湯媛媛コーチ(日本名・張莉梓)も遼寧省出身。福原さんも小学生時代から遼寧省チームで練習を行って世界のトップ選手に成長し、後に中国スーパーリーグの遼寧本鋼とも契約した。

◎遼寧省女子明星隊 WOMEN’S LIAONING ALL STARS
先鋒 郭躍
次鋒 胡玉蘭
中堅 劉詩ウェン
副将 李暁霞
大将 王楠


・「出身地主義」で編成しているこのオールスターチーム。なんと遼寧省女子は5人全員がシングルスの世界チャンピオン。まさに空前絶後の「女王軍団」だ。カミソリ左腕の郭躍、オールラウンダーの胡玉蘭、史上最速と言われる両ハンド速攻の劉詩ウェンに重量級ドライブの李暁霞、そして両ハンドの圧倒的な安定性を誇った王楠。個性あふれるスタープレーヤーが顔を揃えた。
  • 13年世界選手権で優勝、「パリの女王」となった李暁霞

  • 劉詩ウェンは19年世界選手権で悲願の初V。故障の回復が待たれる

  • 非常に勝負強かった王越古。日本リーグの十六銀行でもプレーした

  • 16年リオ五輪で日本の前に立ちはだかり、ドイツに銀メダルをもたらしたハン・イン

  • こちらはちょっと懐かしい顔。トルコに帰化したフー・メレク

◎遼寧省出身の女子選手
[瀋陽市]張瑞・于夢雨(ユ・モンユ/シンガポール)・侯美玲(フー・メレク/トルコ)・周シントン・周一涵(ジョウ・イーハン/シンガポール)・陳幸同
[鞍山市]王越古(シンガポール)・韓莹(ハン・イン/ドイツ)・單暁娜(シャン・シャオナ/ドイツ)・李暁霞・郭躍・常晨晨・石磊(石賀浄/韓国)・曹麗思・王芸迪
[撫順市]王楠・木子・劉詩ウェン
[丹東市]文佳
[錦州市]胡玉蘭・李佳・李佳イ
[本渓市]朱香雲


 実に5人の女子世界チャンピオンを輩出している遼寧省。1973年世界選手権サラエボ大会優勝の胡玉蘭は、男女を通じて中国初のシェーク攻撃型の世界チャンピオンだ。もともとカット型だった胡玉蘭だが、カット型の先輩である林慧卿・鄭敏之を超えるのは難しいと、71年名古屋大会後に担当コーチの梁友能とともに攻撃型への転向を決断。73年サラエボ大会ではカットも交えるオールラウンドプレーで初優勝した。

 胡玉蘭と梁友能には、中国卓球界では有名な「錦嚢妙計」の故事がある。サラエボ大会の際、梁友能は中国選手団に加わることができず、愛弟子に二通の封筒を授けて言った。「すぐに開けてはいけない。大会で困難に遭遇した時はひとつ目の封筒を開け、再び困難に見舞われたら、ふたつ目の封筒を開けなさい」。

 女子団体決勝リーグで韓国に敗れ、優勝を逃して落胆に沈む胡玉蘭がひとつ目の封筒を開けると、こう書いてあった。「林慧卿に学べ、名古屋大会の団体戦で敗れても、そこから教訓を学び、盛り返して個人戦で3つの世界タイトルを奪取したのだ」。ふたつ目の封筒を開けたのは、準々決勝のロドベリ(スウェーデン)戦でのベンチ。左腕を傷め、敗色濃厚な胡玉蘭が開いた手紙には、「勝つか負けるかは、ここでの頑張りに懸かっている。奇跡は往々にして、あと少しの努力の先に生まれる」とあった。奮起した胡玉蘭は逆転勝ちし、頂点へと駆け上がった。

 師弟の絆と、絶対的な信頼関係がもたらしたタイトル。56年世界選手権東京大会で、「大会が終わるまで開けてはいけない」と渡された封筒に「優勝おめでとう」と書かれていた、大川とみ(56年世界女王)と矢尾板弘の逸話を想起させる。胡玉蘭は現役引退後、国家チームのコーチを務めた後に1987年にフランスに渡り、フランス女子チームの監督としても多くの選手を育てた。

 また、遼寧省の女子選手のひとつの特徴として、1990年代から2000年代にかけて、サウスポーの選手が多かったことが挙げられる。世界選手権3連覇(99・01・03年)の王楠を筆頭に、中国スーパーリーグの遼寧鞍鋼で王楠とツインエースを張った郭躍(07年世界選手権優勝)、04年世界ジュニア決勝で劉詩ウェンを破って優勝した常晨晨、「王楠2世」と呼ばれた08年前中国チャンピオンの文佳など、枚挙にいとまがない。ただし、プレースタイルはそれぞれに個性的であり、王楠と郭躍というふたりの世界女王を比べても、スタイルは全く違う。

 両ハンドの安定性と守備力が抜群だった王楠は、中国女子が「男性化」に突き進む前夜に生まれた「不敗の女王」だ。2008年北京五輪で女子団体優勝を果たして現役を引退し、世界選手権・オリンピック・ワールドカップで獲得したタイトルは実に「24」に達した。北京五輪の翌月には実業家の郭斌さんと盛大な船上結婚式を挙げ、「実業界に転身か?」と話題になったが、実際には09年に「共青団(中国共産主義青年団)」の一員となり、政界入り。19年には中国共産党中央宣伝部のレクリエーション・スポーツ部門の部長という要職に就いている。

 一方、王楠の10歳年下である郭躍は、史上最年少の11歳で国家2軍チームのメンバーとなり、2004年の世界選手権団体戦で早くも世界チャンピオンとなった早熟なプレーヤー。ボーイッシュなルックスで、抜群のスイングスピードから放つカミソリドライブが武器だった。

 2007年世界選手権で19歳にして初優勝を飾り、12年ロンドン五輪では団体金メダリストとなった郭躍。しかし、後に首の故障に苦しみ、生まれ故郷の鞍山市で行われた13年全中国運動会でも首を傷めて団体とシングルスを棄権。翌年の世界代表選考会「直通東京」のさなか、練習態度や卓球へのモチベーションの低下を指摘されて国家チームを外され、そのままラケットを置いた。国家チームの引退式典にも出席せず、天才少女の去り際はあまりにも寂しかった。

 その後、金融財務のMBA(経営学修士)を取得した郭躍だが、現在の肩書きはいわば「タレント」。知名度を生かしてテレビのバラエティ番組や話題のネット動画に登場し、社会奉仕の活動なども行っている。現役時代より大幅に減量し、メイクをバッチリ決めた姿には、かつての「假小子(おてんば娘)」の面影はない。
 ……ここで紙幅(紙じゃないですけど)が尽きました。遼寧省・女子編その2に続きます。
  • 中国初のシェーク攻撃型のチャンピオン・胡玉蘭

  • 世界選手権3連覇の王楠は、現在は政界でも活躍

  • 05年に岡山県総社市で行われたスーパリーグ開幕戦、笑顔を見せる福原愛さん(右)と王楠

  • 史上最年少記録を次々に塗り替えた郭躍(07年世界女王)

  • 04年世界ジュニア優勝の常晨晨。日本リーグの日本生命でもプレー

  • 王楠によく似たプレースタイルだった文佳

  • この人も遼寧省出身。13年全中国運動会ベスト8のペン粒高・周シントン

◎遼寧省出身の主な男子選手
[瀋陽市]李鵬・王俊・王会元・于沈潼・馬琳・譚瑞午・韓陽(日本)・雷振華・周斌
[鞍山市]張超・馬龍・尹航
[撫順市]徐輝・王建軍・呉家驥(ウ・ジアジィ/ドミニカ共和国)・孫聞・徐海東
[錦州市]翟一鳴


 中国でも指折りの「人材輩出省」である遼寧省。男子の馬琳、馬龍、女子の胡玉蘭、王楠、郭躍、李暁霞、劉詩ウェンと7人の五輪・世界チャンピオンの出身地で、そのうち馬龍、郭躍、李暁霞の3人が鞍山市の出身だ。「鉄鋼の街」として知られる鞍山市は、もともと手軽に楽しめるスポーツとして卓球が人気だった。その街を「卓球の街」にした立役者のひとりが、白清漢という人物だ。

 1961年の世界選手権北京大会での中国チームの健闘に感銘を受けた白清漢は、卓球台もない小学校で「地面に卓球台を描いて子どもたちに打たせる」ところから指導をスタート。3人の子どもたちも選手を経て指導者となり、長男の白暁東は妻の石海梅とともに馬龍、李暁霞、郭躍、王越古、石磊(石賀浄)らの「啓蒙教練(初期のコーチ)」として、「金メダル夫妻」の異名を取った。白清漢は孫の白石・白鶴もプレーヤーとして活躍し、「白家三代」で卓球界に名を馳せている。

 また、馬龍・郭躍・李暁霞が生まれた1988年には、国家体育総局が鞍山市を卓球の強化・普及を進める重点都市に選出。遼寧省チームよりも立派な卓球のトレーニングセンターが建設され、強化に役立ったことも大きい。

 2013年、この鞍山市で第12回全中国運動会・卓球競技が開催。ライバルの張継科の後塵を拝していた馬龍が、男子シングルスで初優勝を果たし、ここから「絶対王者」への道を歩んでいった。選手として育ったのは、13歳の時に入学した北京市の什刹海体育運動学校だが、故郷・鞍山に錦を飾ったことが選手としての大きな転機だった。
 フォアのパワードライブが印象的な馬龍だが、遼寧省チーム時代に指導していた王俊(77年世界団体優勝メンバー)によれば、意外にも「ボールセンスに優れた選手だったが、チームに入った頃はバックハンドが強く、フォアハンドはあまり得意ではなかった」という。チームの誰よりも真面目に練習するその姿勢が、フォアの剛剣を磨き上げたのだ。

 もうひとりの「馬」、馬龍より8歳年上の馬琳は省都・瀋陽市の出身。遼寧省ジュニアチームの一員だったが、13歳の時にチームメイトの譚瑞午(後にクロアチアに国籍を変更)とともに広東・仙頭市卓球学校に引き抜かれた。劉国正(01年世界男子団体優勝)や張ユク(元香港代表)もこの時に仙頭市卓球学校に入学したひとりだ。その直後に14歳で全国青少年選手権で優勝し、国家チーム入り。プレーヤーとしての経歴は山あり谷ありで、世界選手権では三度決勝に進出していずれも敗れているが、08年北京五輪金メダリストの称号は燦然と輝く。

 1980年代に活躍した選手では、左シェーク異質攻撃型の王会元がいる。フォアのパワードライブと多彩な回転を操るバック表ソフトのテクニックを駆使し、シングルスでは83年世界選手権の3位が最高成績だが、その実力は今も高く評価されている。国家チームを引退後、日本の龍谷大学に留学し、長く龍谷大学卓球部監督を務めている。

 89年世界選手権3位、馬文革と組んだペアで92年バルセロナ五輪ベスト8の于沈潼は左ペン表速攻型。24歳で国家チームを引退し、こちらは日本リーグの住金物流(当時)でプレー。奥さんの趙多多(日本名:東童多英子)は日本に帰化し、96年アトランタ五輪に日本代表として出場したが、于沈潼は後に中国に戻り、遼寧省男子チームの監督を務めた。男子チーム監督の座は、2014年に李暁霞の夫であるジャイ一鳴に引き継がれ、女子チーム監督に就任したのは08年北京五輪日本代表の韓陽。中国から来日した卓球選手・コーチには、遼寧省出身の人が非常に多いのだ。載せ切れなかった皆さん、スミマセン。

◎遼寧省男子明星隊 MEN’S LIAONING ALL STARS
先鋒 張超
次鋒 于沈潼
中堅 王会元
副将 馬琳
大将 馬龍


・遼寧省出身の男子選手のオールスターメンバーは、多彩なプレースタイルが揃った。一撃のパワードライブが武器の「角刈りアニキ」、張超は団体戦に強かったナイスガイ。張超・馬琳が広東省チーム、馬龍が北京市チームに移籍し、地元を離れてしまったが、各省のオールスターチームと比べても顔ぶれは豪華。時空を超えて対抗戦をやれば、有力な優勝候補になるだろう。
  • 実力は間違いなく世界王者クラス、左シェーク異質の王会元

  • 左ペン表速攻の于沈潼は、日本リーグでもプレーした

  • 08年北京五輪のゴールドメダリスト、馬琳は瀋陽市出身

  • 馬琳と広東・仙頭市卓球学校でチームメイトになった譚瑞午

  • 08年北京五輪に日本代表として出場した韓陽は、現在は遼寧省チーム女子監督

  • 2013年全中国運動会で、故郷に錦を飾った馬龍

  • 右ペンドライブの徐輝、中国スーパーリーグでは地元の錦州銀行でプレー

  • 2018年世界ジュニア王者の徐海東(右)。左のオバさまは…地元の方です

●吉林省出身の男女選手
[長春市]■王皓 □唐娜(唐イェ序/韓国)
[白山市]■許紹発
[吉林市]■王楚欽 □李佳原
[延辺自治州]■丁祥恩(韓国)

※■=男子選手/□=女子選手


 1965年の第2回全中国運動会では、男女団体ともベスト8に入った吉林省。この年に吉林省チームから国家チームに入った許紹発が、1973年世界選手権で投げ上げサービスを披露して話題となり、75年世界選手権では男子団体優勝に貢献した。
 許紹発はその後、国家チーム男子監督や総監督(1985〜1992)を歴任。中国チーム、特に男子は成績が伸び悩んだ時期だが、孔令輝や劉国梁を早くから抜擢して若手の育成に務める一方、蔡振華の指導力を見抜いてイタリアから呼び戻すなど、先を見据えた人材の発掘で90年代後半の中国男子復活の礎を築いた。日本の卓球ファンにはシームレスボールで知られる卓球ブランド『XuShaofa』を起業したり、中国への大会誘致やマッチメイクに奔走したり、指導書も出版するなど、八面六臂の活躍を見せてきた卓球人だ。

 一方、吉林省チームはその後、長い低迷期に入り、出身の選手たちはより良い練習環境を求めて新天地に旅立った。輩出した選手の代表格は王皓、そして若手のホープである王楚欽だ。

 幼い頃はあまりにやんちゃで、両親がおとなしくさせるために女の子の格好をさせたという逸話を持つ王皓は、12歳で名門・人民解放軍チームのメンバーとなった。彼の代名詞といえばやはり「直拍横打(ペンホルダーの裏面打法)」。後に「王皓2世」と呼ばれた若手ペンホルダーは数知れず、そして未だ誰ひとりとして王皓を超えられない。オリンピックでは3大会連続銀メダルと頂点にあと一歩だったが、09年世界選手権横浜大会で見せた圧巻の強さ、決勝の王励勤戦で優勝を決めた瞬間のガッツポーズは忘れられない。

 2013年に舞踏家の閻博雅さんと結婚した際は、地元・長春市で盛大な結婚式を行い、2017年10月には長春市がスタートさせた小学生の課外教育プログラムの一環として、その名を冠した『吉林省星皓卓球学校』を創立した。故郷を離れて久しいが、王皓はやはり吉林人なのだ。

 体が弱かったことから、運動で体を鍛えるために7歳で卓球を始めた王楚欽は、地元の有名なコーチである温立彬の指導を受け、10歳で親元を離れて北京市チームの一員となった。2014年世界ジュニアで初めて彼のプレーを見た時、感じたのは「世界チャンピオンになれる選手だ」ということ。それまでの中国の左腕選手はダブルス要員の印象が強く、バックが弱かったり、プレーが荒削りな選手が多かったが、王楚欽は柔らかいボールタッチと威力あるバックハンドを備えていたからだ。2020年5月11日に20歳になったばかりで、樊振東とともに中国男子の次代を担う選手だ。

 その他の選手では、07年世界ジュニア男子チャンピオンの丁祥恩(韓国)は、北朝鮮との国境沿いにある延辺朝鮮族自治州出身で、「朝鮮族」と言われる朝鮮系中国人。韓国に渡って世界ジュニア王者となった後、長く故障に苦しんだが、17年アジア選手権で準優勝するなど見事に復活した。長春市出身の唐娜(韓国名・唐イェ序)もやはり朝鮮族で、05年全中国運動会に天津市代表として出場した後、韓国の実業団・大韓航空でプレー。07年に韓国国籍を取得し、08年北京五輪で女子団体銅メダルを獲得している。
  • 投げ上げサービスから王道の速攻プレーを見せた許紹発(卓球ジャーナル73年1月号より転載)

  • 09年世界選手権で頂点に立った王皓

  • 小柄ながら一発のパワードライブを放つ丁祥恩

  • 現在は北京市チーム所属の王楚欽。中国男子の次代を担う選手

  • 吉林省から天津市、そして韓国へと活躍の場を求めた唐娜(唐イェ序)

◎黒龍江省出身の女子選手
[ハルピン市]韓玉珍・王輝(日本)・張瀟玉・馮天薇(シンガポール)・王シュアン(王+旋)・顧若辰
[チチハル市]王曼昱
[大慶市]丁寧・車暁曦
[伊春市]焦志敏


 黒龍江省出身の選手で、最初に世界で活躍したのは韓玉珍だ。1961年の全中国選手権で黒龍江省を初の女子団体優勝に導き、李富栄とのペアで混合ダブルス優勝。1961年世界選手権北京大会では混合ダブルス2位、女子ダブルス3位の好成績を収めた。
 この時まだ19歳。将来を嘱望(しょくぼう)された選手だったが、「周囲より良い成績を」というプレッシャーがあまりにも大きかった。62年に日本に遠征した際、「侵入者に襲われた」と狂言の自傷行為をしたり、チームメイトのラケットを水洗トイレのタンクに捨てるなどの問題行為が発覚。その後は中国代表に返り咲くことなく、79年に38歳の若さで病死している。

 黒龍江省出身の女子選手、その特徴のひとつが恵まれた体格だ。実は黒龍江省は中国全土でも「平均身長の高い省」のひとつで、各省の平均身長ランキングでは男女とも3位(2018年調べ)。女子は平均165.25cmに達する。

 その特徴が最もよく現れているプレーヤーが丁寧だろう。かつて「工業は大慶に学べ」と言われた工業都市・大慶市の出身だが、丁寧が腕を磨いたのは北京市。早くから抜群の身体能力を発揮していた丁寧は、9歳の時に「まだ幼すぎる」という理由で黒龍江省のジュニアチーム入りを断られてしまう。その後、北京市の名門・什刹海体育学校の関係者に才能を見出され、母親の高風梅さんは丁寧を連れて北京へ。北京市女子チームの周樹森監督との運命的な出会いがあり、学費も全額免除で迎えられた。

 黒龍江省チームとしては大魚を逃した形だが、地元に残っていたら、後の五輪女王も生まれていなかったかもしれない。中国の卓球選手はこのように、より良い練習環境や活躍の場を求め、早ければ8〜9歳で地元を離れ、名門の卓球学校に進むケースが多い。丁寧も出身は黒龍江省だが、所属チームはあくまでも北京市。卓球人国記をやるうえでは難しい面もあるが、出身地として明記しておきたい。

 丁寧の他にも、88年ソウル五輪3位のサウスポー・焦志敏、シンガポール女子チームの絶対的エースとして君臨し続ける馮天薇、男子顔負けの豪快なパワードライブを放つ車暁㬢など、攻撃力のある女子のシェークドライブ型が多く育っている黒龍江省。そして今、黒龍江省出身の選手で最も期待を集めているのが、176cmの長身を誇る王曼昱だ。母方の叔母の勧めで5歳で卓球を始め、13年全国青年選手権で優勝して国家2軍チーム入り。14・15年世界ジュニアでは史上初の2連覇を達成した。昨年は不調に苦しみ、ライバルの孫穎莎に先行を許した感もあるが、精神面も含めてまだまだ伸びしろはある。

 もうひとり、黒龍江省の女子選手で印象に残るのは右シェークバック表・攻守型の王シュアン。国家チームでは長く福原愛選手のコピー選手を務め、「隠れた英雄」としてチームを支えた。17年全中国運動会で、30歳という年齢を感じさせないハッスルプレーを見せ、ベンチで大粒の涙を流した姿が忘れられない。王シュアンとダブルスを組み、美女プレーヤーの呼び声高かった右ペンドライブ型・張瀟玉も懐かしい選手だ。

□黒龍江省・女子明星隊
WOMEN’S HEILONGJIANG ALL STARS
先鋒 馮天薇
次鋒 王輝
中堅 王曼昱
副将 焦志敏
大将 丁寧


・出身地重視で、丁寧はあえて黒龍江省チームの大将に入ってもらった。王曼昱・焦志敏・丁寧という中堅〜大将の平均身長はゆうに170cmを超える攻撃的なチーム。日本に帰化し、全日本女王に輝いたナックルカットの名手・王輝が華を添えている。
  • 右ペン攻撃型の韓玉珍はハルピン市の出身

  • 2014年アジア競技大会での焦志敏。安宰亨(韓国)と国際結婚した

  • 2000年世界団体優勝メンバーの王輝(右から2番目)

  • 17年世界選手権で3回目の優勝を果たした丁寧

  • 今も世界のトップを維持し続ける馮天薇

  • 巧みなバックショートを武器に、国家チームでもプレーした張瀟玉

  • 2017全中国運動会で、女子団体決勝進出に貢献した王シュアン

  • 車暁㬢の一発のパワードライブはすごい破壊力

 中国卓球ファンの皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
 3月13日にカタール・ドーハから中国・マカオに帰国した中国チームは、現在も練習拠点である北京市に戻ることはできず、マカオで集合訓練を行っている。北京に戻れる日はそう遠くないはずだが、報道陣も選手にはほとんど接触することができない。5月23日に部内対抗戦が行われ、男子は樊振東、女子は王芸迪が優勝しているが、伝わってくる情報は限られている。

 中国リポートも(ますます)休眠状態に陥ってしまうので、渋めの企画を始めたいと思います。中国の主だった省や直轄市ごとに出身選手を取り上げ、その歴史や特徴を紹介する、題して『中国卓球人国記』。最新のニュースを挟みながら、不定期で連載していきます。第1回は中国で最も北に位置する黒龍江省、男子選手編からスタートしましょう……。

中国卓球人国記01「大器を育む黒龍江省-男子編」

◎黒龍江省出身の男子選手
[ハルピン市]孔令輝・王永剛(吉富永剛)
[綏化市]姜海洋・李洋
※不明 王飛・徐瑛彬

 黒龍江省が生んだ最大のスターは、なんと言っても2000年シドニー五輪金メダリスト、1995年世界チャンピオンの孔令輝。「精密機械」と称された正確無比なプレーで数々のビッグタイトルを獲得し、中国でも絶大な人気を誇った。中国のシェークドライブ型を一気に「世界標準」まで引き上げた、卓球史に名を残す偉大なチャンピオンだ。彼を育てた父・孔祥智さんもかつては黒龍江省男子チームでプレーし、引退後は黒龍江省男子チームの監督を長く務めた。

 黒龍江省男子チームは1991年の全中国選手権で、孔令輝、日本で長くプレーして日本国籍も取得した王永剛(93年世界選手権ベスト8/日本名:吉富永剛)、そして中国の「裏面打法・第一世代」である右ペンドライブ型の王飛(現・黒龍江省チーム総監督)らを主軸に男子団体優勝。中国超級リーグの全身である「全国卓球クラブリーグ」では1995年(黒龍江雅豊)・1997年(黒龍江金太陽明星)大会で優勝し、中国卓球クラブ超級リーグがスタートした1999年シーズンにも優勝を果たすなど、一時代を築いた。
 しかし、2005年にスポンサー企業を失ったことで、資金難に陥った男子チームは甲Aリーグへ降格。エースの孔令輝は山東魯能へ移籍し、長い低迷期に入ってしまった。

 そして孔令輝が17年世界選手権個人戦の開幕直前、カジノでの借金スキャンダルが持ち上がり、中国女子チーム監督の座を追われたのはまだ記憶に新しい。劉国梁が中国卓球協会の会長として完全復活した今、孔令輝は一連の権力闘争に巻き込まれ、「割を喰った」という印象が強い。カジノでの金銭問題など、その気になればいくらでも内部で処理できるからだ。

 孔令輝は2020年2月、新型コロナウイルス感染症の影響拡大を受け、「加油! 武漢」というメッセージをSNS上で発信。久々に元気な姿を見せたが、かつての国民的ヒーローが卓球界の表舞台に返り咲く日は来るのだろうか。

★黒龍江省・男子明星隊 MEN’S HEILONGJIANG ALL STARS
先鋒 徐瑛彬
次鋒 李洋
中堅 王飛
副将 王永剛
大将 孔令輝

 黒龍江省出身の男子選手で、オールスターズを結成してみた。先鋒や次鋒というのは武道の団体戦の試合方式ですが、ご容赦くださいませ。若手のホープ、世界ジュニア代表の徐瑛彬を先鋒として、左シェークドライブ型の李洋(07年アジアジュニア優勝)、右ペンドライブ型の王飛、右ペン表の王永剛、そして右シェークドライブの孔令輝。戦型のレパートリーに富む、なかなか魅力的なチームですね。
  • 95年男子世界チャンピオンの孔令輝。そのプレーは実に美しかった

  • 懐かしい孔令輝の逆横バックサービス。チームメイトの王飛も裏面から出していた

  • 93年世界選手権ベスト8の王永剛。現在は指導者として活躍

  • 現在、黒龍江省チームの総監督を務める王飛。現役時代は細かった

  • 2006年世界ジュニア男子複優勝の右ペン表・姜海洋(右)。左はパートナーの呉ハオ

 ITTFワールドツアープラチナ・カタールオープンの終了後もカタールに留まり、受け入れ先を探していた中国チーム。3月12日の中国リポート『中国チーム、カタールオープンの獲得賞金を全額寄付』では、まだ受け入れ先は未定とお伝えしていたが、その直後にマカオが受け入れ先となることが伝えられた。そして13日、中国チームはカタールから香港に飛び、陸路でマカオ入りした。

 マカオは1999年にポルトガルから中国へ返還された特別行政区で、「カジノの街」として有名。2月には新型コロナウイルスの感染拡大で、そのカジノも2周間の営業停止となり、閑散とした街の様子が伝えられていた。しかし、この40日ほどは新規患者はゼロ。その安全性が評価され、中国チームの合宿先として白羽の矢が立ったというわけだ。

 ちなみに中国チームはマカオに入ってから14日間は、選手たちはホテルと体育館の往復のみで、毎日の体温測定が必須。人が集まる公共活動などにも参加できない。「旅先」のカタールよりストレスはずっと少ないものの、選手たちの日常はまだ戻ってこない。

 ITTF(国際卓球連盟)はすでに4月末まで、主催大会を一時的に中断することを発表。5月開催の香港オープンや中国オープンについては、今日16日に緊急会議を行い、開催の可否については今後発表される。中国は香港や深セン(中国オープンの開催地)に近いマカオで集合訓練を行い、ワールドツアー2大会に向けて調整していくが、大会が開催されるかどうかは微妙な状況だ。