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卓球王国ストーリ-

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 もし「荻村伊智朗」という人がいなければ、「卓球王国」は存在しなかっただろう。
 今や卓球界ではその名前が認知されるようになった卓球王国。創刊当時、雑誌自体を知ってもらうことから始まった話は前述の通り。

 会社設立時から編集長と代表を務めていた今野は、山形の高校を卒業後、東京での一浪を経て、武蔵野美術大学の造形学部視覚伝達デザイン学科に入学。とはいえ、中学・高校時代は指導者のいない中で「卓球一色」。愛読書は「卓球レポート」。高校時代に読んだ記事の中で、鳥取の青谷町の山根さんという方が、東京で荻村さんに師事し、帰郷後に指導者になったことに目をとめ、「自分も荻村さんに教わり、帰郷して指導者になろう」と決めた。
 美術部でもなく卓球部だったのに、美大を目指すという、今思えばハチャメチャな進路ではあったが……。

 東京の三鷹に本拠地があり、荻村さんが主宰していた「青卓会」という卓球クラブに入り、卓球に打ち込んだ今野。荻村さんの独特の卓球理論に包まれ、常に海外の選手などとの交流がある環境だった。ヘボなのに卓球に打ち込みすぎて、大学を中退する始末。「ヘボほど卓球が好き」。これは後年、前原正浩さん(日本卓球協会専務理事)に言われた名言(!?)だ。
 その後、荻村さんの会社に入り、「卓球ジャーナル」や卓球メーカー専門誌と関わることになった今野。「卓球が好き→美術大学でデザインを専攻→写真も撮れ、レイアウトもできる→編集が好き」というつながりで、この世界に足を踏み入れた。

 ちなみに、初のビッグゲームの取材は1979年世界選手権ピョンヤン大会。当時はまだ大学2年生。「今野、大学で写真も勉強していたな、ピョンヤン行くぞ」と軽く言われたが、それが人生を変えるようなアルバイト(?)だったのだ。(アルバイトと言っても報酬はなく、世界選手権を見れるというご褒美のみ。食費も確保され、これでも十分だった!)
 もちろん、荻村さんとの出会いがなければ、卓球専門誌の仕事もしていなかっただろう。卓球王国の発行人となるカメラマンの高橋氏との出会いもあり、 のちに独立し、卓球王国を設立、創刊することになる。
 「卓球をメジャーにするために、卓球ジャーナリストの道を歩め」とは荻村さんが亡くなる4年前に言われた言葉だ。その道をしっかりと踏みしめているかどうか、天国の師匠は何と評価してくれるのだろうか。
  • 荻村さんが生きていたら「卓球王国」はどのように評価されるだろうか