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2018世界卓球ハルムスタッド大会速報

 1980年代から2000年までスウェーデン時代は続いた。人口880万人の小さな国が10数億人から選ばれた中国のエリート選手たちを次々と破っていった。世界選手権での団体優勝、ワルドナーやパーソンは世界選手権やオリンピックで優勝した。
 ワルドナーやパーソンはまさに天才で、同時期に二人の天才が生まれたのはスウェーデンに、天才をはぐくむ土壌があったからだ。個人のアイデアを重視し、年齢による上下関係もなく、選手の創造性を大切にする民族性があった。

 実は荻村伊智朗がスウェーデンを愛したのは、その民族性が理由だろうと織部やヘイエドールは証言する。スウェーデン人のオープンマインドな性格、卓球の伝統もないから余分なプライドも持たない。一方、スウェーデン人には質実で誠実なメンタリティーもある。それを荻村は感じていた。彼自身も、日本の中で異質なメンタリティーを持っていた。大学の体育会的な上下関係の強い気風を嫌がっていたからだ。
 ステラン・ベンクソンという世界チャンピオンを輩出し、1973年には世界選手権の団体優勝を果たしたスウェーデン。アルセア、ベンクソン、ヨハンソンというスターが世界への道を切り開いた後に、ワルドナーやパーソン、アペルグレン、カールソンなどの才能あふれる選手たちが栄光の時代を築いた。

 ワルドナーやパーソンの栄光の時代、日本は低迷していた。古くさいと言われたフォアハンド主戦の卓球から抜け出せずに、シェークハンド攻撃の卓球にも順応できなかった。しかし、当時からスウェーデンの選手や関係者は口々にこう言っていた。「今スウェーデンが強いのは日本のおかげ、オギムラのおかげなんだ。オギムラがスウェーデンの基礎を作ってくれた」。選手やコーチたちは日本を訪れ、惜しげもなく講習会を開き、彼らの最新の卓球を披瀝した。「我々が日本に来て、日本の卓球の人たちに伝えることは恩返しだから」と。

 その後、スウェーデンは低迷する。偉大な天才が去り、才能ある若い選手が枯渇していた。逆に日本は水谷や張本に代表される天才たちを得た。歴史は場所を変えながら繰り返されていくものだ。
 創造的で、実戦的な「スウェーデン練習」はその後、ヨーロッパ各地でも採用され、特別な練習ではなくなっていた。
 スウェーデンは1990年代以降、強い選手が海外でプレーするようになる。プロ選手として高い報酬のところでプレーするのは当然だろう。しかし、反面、国内リーグのレベル低下を招き、スウェーデン卓球を長く支えてきたクラブシステムがぐらつき始めた。以前は、クラブに行って、トップ選手たちを見ながら子どもたちも育っていった。それがワルドナーであり、パーソンだった。ところが、トップ選手が海外に流出し、子どもたちは憧れるべきトップ選手を失ったのだ。
 実は、この問題はスウェーデンだけでなく、ヨーロッパの国々のあちらこちらで発生していた。自国のトップ選手が自国から離れ、ジュニア選手が思うように育たない。 ヨーロッパの卓球が低迷するその背景には、こういう理由がある。

 男子のおいて、日本は現在中国に次ぎ、ドイツと肩を並べる世界No.2の国となったが、もし1990年代のようにヨーロッパが強かったら、安閑としていられない状況だっただろう。
 ヨーロッパにはスウェーデンを筆頭に、フランス、ユーゴ、イングランド、ポーランド、ベルギーなどがひしめき合っていた。そういった国と今の日本が対戦したら、それも白熱するだろう・・・そんな妄想を考えている。 (今野)
  • 1987年に国際卓球連盟会長となった荻村伊智朗

 日本とスウェーデンには実は深いつながりがある。
 それを日本の若い選手や指導者は知らない。そこには「OGI」の存在がある。
 日本の荻村伊智朗は1954年と1956年の世界チャンピオン。現役時代を含め、数十回もスウェーデンを訪れている。
 なぜ荻村がそれほどまでにスウェーデンを愛していたのか。その理由を昨日、ITS三鷹代表の織部氏(以下敬称略)とスウェーデンのジャーナリストのクリスチャン・ヘイエドール(通称ピレさん)に聞いてみた。
 織部は小さい頃から東京の青卓会(のちにITS三鷹)で荻村の指導を受け、スウェーデンのファルケンベリでもプレーした経験を持つスウェーデン通だ。ヘイエドールはスウェーデン代表として61年と63年の世界選手権に出場し、その後、ジャーナリストになった人だ。自分の子どもに「イチロー」と名付けるほどの「オギファン」だった。

 荻村が選手兼コーチとしてスウェーデンに来たのは1959年。それ以前には選手としてストックホルム大会に参加している。59年には、スウェーデンを北から南まで回りながら、エキジビションマッチやコーチを行った。ただ、スウェーデンの選抜選手を集めて合宿を行った時に「事件」は起きた。
 荻村はシリアスあった。大真面目にコーチをしようとした。当然だろう。コーチングでも妥協しない男だった。十名を超える選手が集まってきたが、練習が始まってすぐに練習場を去る選手がいた。「おれたちは卓球をやりに来たのに、なんだこれは」と怒って練習場から出て行った。
 1950年代のスウェーデンでは卓球はスポーツと言うより「楽しいゲーム」だった。練習とは言え、彼らはすぐにゲームを行い楽しむのが常。ところが、日本から来た愛嬌のないチャンピオンは、練習前に体操をやり、トレーニングまでやるではないか。それは当時の日本では当たり前だったのだが、「おれたちは体操選手じゃないんだよ」とみんなが怒ってしまった。
 
 2回目の合宿に荻村が練習場に向かうとそこにいたのはたった一人の少年しか来ていなかった。ハンス・アルセア、のちにヨーロッパチャンピオンとなり、1967年の世界選手権ではダブルスで世界チャンピオンとなった人だ。その合宿ではアルセアと荻村がマンツーマンの練習を行った。
 しかし、不器用で鈍くさいアルセアが成績を出すのを見たほかの選手たちも荻村の合宿に参加をし始め、ほどなくスウェーデンは「ヨーロッパの中の日本チーム」を揶揄されるまで強くなっていく。 (今野)
  • 1954年世界選手権で優勝した荻村伊智朗

 いよいよ世界選手権が始まる。
 会場は人口6万6千人のスウェーデンの西南の町ハルムスタッド。世界選手権開催史上、もっとも小さい町での開催となった。
 スウェーデンには卓球の聖地と言われる場所がある。それはハルムスタッドの隣町である「ファルケンベリ」だ。この名前を聞いたことがあるだろう。バック2本(バックハンドフォアハンド)、フォア1本(フォアへの飛びつき)のフットワーク練習だ。 
 ファルケンベリはハルムスタッドよりもさらに小さな町だが、卓球においては世界中にその名を知られている。なぜならこの小さな町から世界チャンピオンが二人も生まれているからだ。

 ステラン・ベンクソン(1971年世界チャンピオン)とウルフ・カールソン(1985年世界ダブルスチャンピオン)だ。
 ベンクソンは1969年に日本へ卓球留学し、その2年後に世界チャンピオンとなった。日本の荻村伊智朗(元世界チャンピオン、元国際卓球連盟会長)に指導を受け、日本式の練習を理解し、尊敬し、実行した選手だった。彼が日本に来て、フットワーク練習を行ったが、それをスウェーデンに持ち帰り、バックハンドを使うヨーロッパ用に変えたのが「ファルケンベリ」だった。ファルケンベリでプレーするベンクソンが広めたフットワーク練習だったためにスウェーデンでこの練習を「ファルケンベリ」と呼び、スウェーデンが世界で活躍した時期に、このフットワークは日本にも逆輸入された。

 過去のスウェーデンでの世界選手権はストックホルムかイエテボリだったが、なぜ今回ハルムスタッドで開催されたのか。
 それは今から数年前、ハルムスタッドの卓球クラブの会長が「ハルムスタッドで世界選手権をやりたい」という荒唐無稽なアイデアを言い出し、それが実現したという。
 小さな町での開催で、まずホテル数が絶対的に少ない。市内にホテルは3、
4軒しかない。世界中から集まる卓球関係者は宿泊するのにひと苦労だ。アクセスもあまり良くない。コペンハーゲン(デンマーク)から電車で2時間を要して来るか、イエテボリ空港から1時間ほどかけてくる。それに観客がどれほど集まるのかも心配だ。
 不便ではあるけど、小さな町の卓球クラブの情熱が世界選手権の誘致に成功したことも驚きだ。これもスウェーデンらしいことかもしれない。

 このハルムスタッド開催の裏にはヨーゲン・パーソンの存在がある。1991年の世界チャンピオンで、スウェーデンの栄光の時代を築いたスーパースターだ。前述したように、ファルケンベリとハルムスタッドは隣町。ハルムスタッド生まれのパーソンは小さい頃からファルケンベリで練習していた。そこには憧れのスター、ベンクソンがいた。ファルケンベリには当時、リンドやカールソンなども練習していた。
 ハルムスタッドが生んだスーパースター、パーソンの存在が卓球クラブの「世界選手権をこの地で」という思いの根底にあったのだ。 (今野)
  • 28日のプレスカンファレンスにも出席したパーソン。まさに大会の顔だ

 バールベリでの調整合宿を終え、今日27日にハルムスタッドに到着した日本男子チーム。午前中から会場で練習に汗を流した日本女子チームに続き、移動の疲れも見せずに会場練習を行った。

 男子の選手団の本隊とは別に、1時間早いバスで会場に到着し、ウォーミングアップの後でスパーリングパートナーの木造勇人とボールを打ち合っていたのは張本智和。ひと足早く会場で練習させたのは倉嶋洋介監督の指示だ。倉嶋監督は25日にバールベリで行われたスウェーデン男子との親善試合「荻村伊智朗メモリアルマッチ」でも、少し練習していきなりトップに出場というハードな状況を張本に課している。

 「(張本)智和には、ぼくから試合に出すぞと言いました。常に楽な環境で、しっかり調整して試合ができるわけじゃないし、悪条件でもやらなければならない試合もある。そういう状況でも『何で調子が悪いんだ』で終わってしまうのではなく、考えながら戦える選手になってもらいたい」(倉嶋監督)。当の張本本人は、倉嶋監督の「親心」を知ってか知らずか(知ってるはずです)、ナイスボールには顔をほころばせ、無心にボールを打ち続けていた。アジアカップ後に一度硬いラバーに変更しながら、重量面の問題もあり、結局元に戻したというバック面だが、バックドライブは相当にボールを「食って」いる。中国勢に勝るとも劣らぬ迫力だ。

 日本からの出発前日のため、残念ながら取材することはできなかったが、荻村伊智朗メモリアルマッチの結果は下記のとおり。コーチとしてスウェーデンに渡り、また多くのスウェーデン選手を日本に受け入れて鍛え、北欧の強豪の礎を築いた荻村氏の功績を記念したもの。トップ張本は昨年の世界ジュニア2位のモアガルドに対し、ゲームカウント0−2とリードされながら逆転勝ちを収めた。

●荻村伊智朗メモリアルマッチ
〈日本男子 3−1 スウェーデン男子〉
○張本智和 3−2 T.モアガルド
○松平健太 3−1 Jon.パーソン
 大島祐哉 0−3 M.カールソン
○木造勇人 2−1 T.モアガルド
  • 移動からすぐ練習でも、智和スマイル!

  • バックドライブ、走ってます

  • 張本と親善試合で対戦したモアガルド。バックプッシュが得意

 ハルムスタッドアリーナに到着し、スピーディに取材用のIDを受け取ることができた王国取材班。今日は午後3時以降に日本選手がメイン会場で練習するが、現在は中国選手やスウェーデン選手が練習中。

 現世界王者の馬龍は、メインコートに入るなり、おもむろにサービス練習、さらに中陣から強く弾くミート打ちで、卓球台の弾みやラケットの弾みを入念にチェック。そこから始めたフォアドライブの連打は、相変わらず素晴らしい威力と安定感。練習相手の樊振東のフォアドライブも相当威力がついたが、やはり馬龍のフォアドライブは別格。バランス、スイングスピード、インパクトからの流れるような次球への動作、惚れ惚れするようなフォアドライブだ。

 スウェーデンチームでは、地元のクラブチームであるハルムスタッドBTKのエース、右シェークフォア表のM.カールソンが軽快なフォア連打を見せていた。会場には過去5回の世界団体優勝を記念する写真なども飾られ、大会ムードを高めている。
  • 馬龍、きっちり仕上げてきている

  • 昨年は故障に泣いた許シンだが、快調な動き

  • M.カールソンはスウェーデン男子のキーパーソン

  • 懐かしい! 91年千葉大会のスウェーデン男子の優勝メンバー

 最高気温は13度、最低気温は4度前後まで下がるハルムスタッドの街。ようやく春が訪れた、という感じ。人口6万人前後、市の中心部は歩いてぐるりと回れてしまう小さな街だ。

 街のあちこちに「heja sverige!(頑張れ、スウェーデン!)」という幟(のぼり)や旗が掲げられ、市内のあちこちで行われる「WE LOVE PING PONG」という市民参加型イベントも準備が進められている。男子は戦力的にベスト8以上も十分狙えるスウェーデン、選手たちの頑張りで大会を盛り上げてほしい。
  • K.カールソン、M.カールソン、エクホルムが大会の顔として登場

  • 会場のハルムスタッドアリーナ

  • 市内の広場に並べられた卓球台

  • 地元の新聞に、71年世界チャンピオンのステラン・ベンクソンの記事が

  • オブジェが市内のあちこちにある

  • お洒落です、北欧です

  • スウェーデンのつくし、日本と同じ

  • 桜がちょうど見頃を迎えている

 ただいま、現地時間は深夜1時半。26日の日本時間12時40分に東京・羽田空港を出発した王国取材班4名は、ハルムスタッドに到着しました!

 ルフトハンザドイツ航空で、まず羽田からミュンヘンまで12時間。そこから到着が遅れていたイエテボリ行きの便に乗り継いで、イエテボリに着いた時には夜の22時。同じ便にトキッチ(スロベニア)がいたので、「ITTFのシャトルバスが来てやしないか」という淡い期待もむなしく、到着ロビーには卓球関係者はゼロ。……それくらい無計画で現地に来た、ということなんですけどね。

 しかし、ここからの乗り継ぎは強運でした。今野編集長がインフォメーションデスクでハルムスタッドまでのアクセスを尋ね、イエテボリ中央駅に行くバスにちょうど乗り込むことができました。バスが着いてから、1時間に1本のハルムスタッド行きの電車に乗れるかどうかは微妙な時間。
 「車内でチケットは買えないの?」「あそこの黄色い自動販売機で買ってください」「スウェーデン語で全然わからないよ」「裏に英語の販売機があるから!」。電車のドアの前に立っていた、検札のおばちゃんとすったもんだのやりとりのあげく、一度は積み込んだスーツケースを下ろすように言われたほどギリギリのタイミングで、切符をゲット。切符を確認した、任務には忠実ながら気の良さそうなおばちゃんの、「パーフェクト!」という言葉が心に残っております。

 真っ暗な車窓、南へとひた走る電車。途中で、かのステラン・ベンクソンやピーター・カールソンの出身地であるファルケンベリ駅に停車。ファルケンベリ・フットワークをやらされたら30秒で倒れそうなほど疲労困憊の取材班も、これにはちょっとだけ興奮。そして深夜の12時過ぎ、ようやく終点のハルムスタッド駅に着きました。

 大都会だったイエテボリに比べ、ハルムスタッド駅はなんともこぢんまりとした感じ。駅からホテルまでは1kmちょっと。大荷物でも歩くか、まさかこの深夜にタクシーなんて……ここで奇跡が起きました。一度問い合わせをしたホテルのフロントが気を利かせてくれたのか、はたまた全くの偶然か、日本では見たこともないほど巨大なワゴンタクシーが、駅前の広場に停車していたのです。なんて幸先の良い。

 「逆転満塁ホームランだ、これ逆転満塁ホームランでしょ」と連呼する編集部中川。大男4人とスーツケース、カメラバッグを軽々と呑み込んだワゴンタクシーは、今大会の宿泊先であるファースト・ホテル・マーテンソンに滑り込みました。日本からの所要時間はほぼ19時間!

 ……つらつら書き連ねてしまいました。失礼しました。日本でもテレビやネットで大会の映像はバンバン見ることができますが、ハルムスタッドはこんなに遠いところです。
 大会は29日から開幕。前日の28日の昼から行われるプレス・カンファレンスには、スウェーデン選手の他に選手代表として丁寧(中国)、ボル(ドイツ)、そして日本から張本智和が出席。日本選手や海外選手の会場練習の様子などもお伝えしていきます。
  • イエテボリの空港で、でかいボルボがお出迎え

  • 取材班が飛び乗ったハルムスタッド行きの電車

  • 瀟洒なホテルの外観

  • 我々を救ってくれたワゴンタクシー

 世界団体6回目の出場となる石川、世界選手権初出場の長崎とともに、団体メンバーの中核となるのが伊藤美誠・平野美宇・早田ひなという高校3年生トリオだ。

 「高校3年生トリオで世界戦を戦えるのはめちゃくちゃ楽しみですね。小さい時から切磋琢磨してきた仲間なので、本当に夢みたい。小さい頃から一緒に出たいと話していました。これが早いのかどうかわからないけど、10代から一緒に出られるのは光栄です。小さい頃から目標だった石川さんと3人でチームを組めるのも幸せですね」。コメントを求められた伊藤は少し興奮した面持ちで語った。世界団体を前に「めちゃくちゃ楽しみ」というのがいかにも伊藤らしい。
 16年リオ五輪準決勝のドイツ戦トップでゾルヤに痛恨の逆転負けを喫しながら、それをバネにひと回りもふた回りも大きく成長した伊藤。「リオでも団体戦を体験できているので、3人同世代だけど、そこは引っ張っていくという思いでやりたい」と少しだけ「お姉さん」な一面をのぞかせた。

 今年3月でJOCエリートアカデミーを1年早く修了し、プロ選手としての第一歩を歩み出した平野美宇は、「エリートアカデミーを卒業してもここに泊まっているし、プロ選手になっても変化はそこまでないかなと思います」と彼女らしいコメント。しかし、「長いラリーでも体勢が崩れないことを目標に頑張っています。練習でもふたりのトレーナーを相手にしたり、多球練習などで自分の限界をどんどん広げていけたらいい」と成長への意欲も見せた。
 16年の世界ジュニア団体戦では、8戦全勝の活躍でチームを優勝に導いた伊藤、決勝3番で貴重な勝利を挙げた早田に対し、平野は最後まで調子が上がらなかった。「3人の団体戦で優勝している時はいつも私は活躍していなくて、美誠ちゃんに頼っていた。去年のアジア選手権の団体戦で、初めて美誠ちゃんの足を引っ張らずに決勝まで行けたので、今回もチームに貢献できるようにしたいですね」(平野)。

 公開練習で中陣から強烈な両ハンドドライブを打ち込んでいた早田は、男子選手にも打ち負けないすごいパワーを見せていた。「自分はもともとラリーでの両ハンドドライブの得点率が高いですが、卓球はサービス・レシーブから始まるので、サービスから3球目・5球目、レシーブから4球目・6球目というところで安定してコースを突いて、より質の高いボールを送ることを意識しています」(早田)。台上での細かいテクニックとチャンスメイクの幅が広がれば、鬼に金棒だ。
 早田は「自分たちより年下の長崎選手が選ばれたことで、自分たちが一番年下ではいられないという責任感を感じています」とも語っている。団体5番手に15歳の長崎が選ばれたことで、高校3年生トリオも気持ちが引き締まる部分はある。今回の日本女子は、いろいろな意味でバランスが良い。

 最年少の15歳、長崎は初々しさと同時に、こんな冷静なコメントが印象的だった。
 「平野さんや伊藤さん、早田さんは小学生時代から強くて、お互い良いライバルとして強くなってきた。私はそれに比べると、同い年の中では独走していた感じなので、「もっと頑張らなきゃいけない」という悔しい気持ちの中で頑張ってきた点では、(平野・伊藤・早田のほうが)自分より経験値が多い」。非常に客観的かつ冷静な自己分析だ。「五輪出場は3人だけなので、年下だからと言って遠慮せず、もっともっと頑張っていきたい」(長崎)。今大会での経験は、彼女の将来にとってかけがえのないものになるだろう。
  • 団体戦に燃える伊藤。今大会も活躍に期待

  • 平野が爆発すれば、日本女子はひとつ上のステージに行ける

  • 男子顔負けのパワーを誇る早田

  • 2人のトレーナーにフォアハンドを打ち込んでもらい、練習に励む長崎

 14年東京大会、16年クアラルンプール大会と2大会連続で女子団体決勝に進出し、2月のチームワールドカップでも決勝進出を果たした日本女子チーム。今大会の代表メンバーは下記のとおり。

☆日本女子チーム
馬場美香監督
石川佳純(全農・左シェーク両面裏ソフトドライブ型・WR3・6回目)
平野美宇(日本生命・右シェーク両面裏ソフトドライブ型・WR6・初出場)
伊藤美誠(スターツSC・右シェークフォア裏ソフト/バック表ソフト攻守型・WR7・2回目)
早田ひな(日本生命・左シェーク両面裏ソフトドライブ型・WR18・初出場)
長崎美柚(JOCエリートアカデミー/大原学園・左シェーク両面裏ソフトドライブ型・WR81・初出場)

※カッコ内の回数は世界選手権団体戦の出場回数

 16年クアラルンプール大会の代表メンバーは福原・石川・伊藤・若宮・浜本。代表メンバー3人が入れ替わり、平野・早田・長崎の3人が初出場となった。
 2月のチームワールドカップから、チームのキャプテンを任されたのは石川佳純だ。中学3年生で代表入りを果たし、準決勝のシンガポール戦トップに大抜擢された08年広州大会。5時間に及んだ準々決勝の韓国戦3番で、クレバーなラリー展開で唐イェ序を破った10年モスクワ大会。準々決勝の韓国戦で、今度はモスクワ大会のリベンジを喫し、チームメイトとともにミックスゾーンの裏で涙に暮れた12年ドルトムント大会……過去の世界団体での戦いぶりが昨日のように思い出される。

 大会前の調子について尋ねられ、「試合前の調子は自分の経験ではあてにならない。すごく調子が悪い時に大会本番では良いプレーができたり、逆に調子が良くても大会ではダメだったりする。調子の波は最近そんなにないので、体調をしっかり整えて準備したい」と語った石川。豊富な試合経験を感じさせたた。チームワールドカップ決勝では2番で朱雨玲に敗れたが、「反省練習もしっかりやってきた。『こういうところを攻められるんだな』という課題をもらった気がするので、そこは直したつもりだし、大会で試していきたい」とコメント。敗戦を糧に、たゆまず歩み続けてきたからこそ、天真爛漫な卓球少女は堂々たる日本女子の大黒柱へと成長してきた。

 公開練習では、御内健太郎(シチズン時計)を相手にカットの対策練習に励み、カット打ちの名手である軽部隆介(シチズン時計→鹿児島相互信用金庫)や、練習相手である御内からも積極的にアドバイスを受けていた。カット対策の練習環境としては申し分のないものだ。昨年のドイツオープンでは武楊(中国)を破るなど、そのカット打ちのレベルはすでに最高水準にあるが、少しも油断は見られない。日本女子の馬場美香監督も「カット打ちでは、キム・ソンイ(北朝鮮)に確実に勝てるくらいのレベルを東京五輪まで維持しなければいけない」と語っており、まさにその言葉どおりの練習だった。ハルムスタッド大会でも若いチームを力強く引っ張ってくれるだろう。
  • 公開練習で安定したカット打ちを披露した石川

  • 御内の鉄壁のバックカットに対してもミスは少なかった

 4月20日の公開練習でトレセンの卓球場の扉を開けた時、目の前にフォアドライブを連打する大きな背中があった。「デカいな、誰だろう?」と思ったその選手は……髪型の変わった張本智和だった。

 身長が半年で2cmほど伸び、現在の身長・体重は174cm・64kgだという張本。その背中は驚くほど「太く」なっていた。太くなったというのは、もちろん太ったという意味ではなく、筋肉がついて背中も腰回りもガッチリしてきた、ということ。以前はフォアドライブを連打すると腰の位置が高くなり、ボールがうわずる印象があったが、スタンスが広く、体勢が低くなり、パワフルなフォアドライブを連打できるようになっている。フォアドライブの打球点は非常に早く、堅固なブロックを誇る松平健太をノータッチで抜く場面もあった。

 3月末にNTC近くの卓球場で張本の技術撮影を行った際、バックハンドのカウンタードライブの打球点と威力に驚かされたが、強く打った時にボールが落ちる時があり、倉嶋洋介監督から「バック面のラバーはもっと硬くしてもいい」と言われていた。実際に4月上旬のアジアカップ後、バック面のラバーを硬くしたそうだが、公開練習では「ちょっと重くなったので元に戻しました」とコメント。かなり重いラケットでも振り切れる筋力はついてきているが、まだ試行錯誤の段階にあるのだろう。それでも技術面では、アジアカップの時よりもすべての技術において、安定性が増したという。

 2月のチームワールドカップは、張本にとってプレッシャーとの戦いだった。逆転勝ちした香港戦の5番について、「負けたらメダルがなくなる試合だったけど、逆に追い詰められすぎてメダルのことを忘れられたことが逆転につながった」と語っていた。
 そして、同時にこうも言っていた。「チームカップでは格上にも格下にも負けて、負けを経験できたので、それは逆に良かったと思います」。無類の負けず嫌いである彼の「負けを経験できて良かった」というひと言が、むしろ頼もしかった。しっかり敗戦を受け入れ、経験として自分の糧にしている様子がうかがえた。

 20日の公開練習では、「世界選手権に出られるからには、すべての試合を勝ちに行きます」と力強く語った張本。昨年末の世界ジュニア選手権の取材では、直前に欠場が決まって何とも残念だった。今大会では世界の卓球ファンが、樊振東をノックアウトしたワンダーボーイのプレーに注目している。
  • 格段にたくましさを増してきた張本智和の背中

  • 快速バックハンドの威力は相変わらずだ