スマホ版に
戻る

中国リポート

トップニュース中国リポート
 「郭躍はすでに世界選手権パリ大会のシングルスへの出場は不可能だ。これまでに安定して好成績を収めてきた李暁霞とのダブルスは、出場の準備を進めているが、まだパリ大会に出場できるかどうかはわからない」(中国女子チーム・孔令輝監督)

 先月行われた、中国女子チームの世界代表選考会「直通巴黎(直通パリ)」の第1ステージで、頸椎を傷めたことによる目まいや吐き気などを訴え、途中棄権した郭躍。武楊と胡麗梅が代表入りを決めた第2ステージも棄権していた元世界女王に対し、孔令輝監督は「その症状がいまだに改善されない」として、郭躍がパリ大会のシングルスには出場しないことを明言している。すでに2カ月近く、計画的な練習ができていない状態だという。

 腰やひざ、あるいは肩の故障に比べて、卓球選手の頸椎の故障というのはそれほど耳にする機会はない。しかし、人体の要衝(ようしょう)として、傷めると全身に影響を与え、しかも治りにくいと言われるのが頸椎の故障だ。
 03年パリ大会ではわずか14歳で世界選手権デビューを飾り、ベスト8に入った早熟な天才少女・郭躍。07年世界選手権での優勝をピークに、ゆるやかな下降曲線をたどるその競技人生は今、大きな危機を迎えている。3連覇がかかる女子ダブルスだけでも、何とか出場してもらいたいものだが……。
  • 競技人生のピンチを迎えた郭躍

 「直通巴黎」の女子第2ステージで、世界選手権パリ大会のシングルス出場権を獲得した胡麗梅。名前の字面(じづら)も、「フー・リーメイ」という発音しやすい名前も、なかなか押し出しが効いている。山東省の中央部にある淄博(しはく/ズーボォ)市の出身。11歳の時から八一解放軍チームに所属しているが、昨シーズンも郭躍・木子・曹臻らがいて超級リーグには出場できず、甲Aの重慶康徳にレンタルされていた選手だ。

 以前はカット打ちが弱点と言われていたが、最近ではかなり改善され、対カットの黒星もほとんどなくなっていた丁寧。その丁寧に、なぜ胡麗梅は2連勝することができたのか。
 中国のカット主戦型はバック表ソフトが主流である中で、胡麗梅はバック面が粒高ラバー。そのため、昨年のロンドン五輪までは特別に国家1軍チームに昇格し、「仮想・金璟娥」として李暁霞や丁寧のトレーナーを務めていた。丁寧がカット打ちに習熟すると同時に、胡麗梅も丁寧の球威やコース取りにかなり慣れていたはずだ。

 そしてもうひとつ、意外に大きい要因となったのが、試合が行われた内蒙古自治区オルドス市が、標高約1,350mの高地にあったこと。会場を訪れていた国家女子チームの元監督・施之皓が「卓球は高地でやるには向かないスポーツだ。空気が薄く、空気抵抗が少なくなるため、ボールのスピードも回転量も変わる」と述べている。中国全土で開催される超級リーグでも、試合が標高の高い僻地(へきち)で行われ、思わぬ波乱が起こることがある。
 丁寧自身も「(高原では)カットの回転量が普段よりも多くなる」と述べている。あえてそんな環境で代表選考会を行うとは…。日本ならばブーイングが起きそうだが、さすが中国、という感じがする。

 最も、空気が薄い環境では、運動量が多いカット主戦型にかかる負担はより大きくなる。第3ステージの代表決定戦で、丁寧の威力あるパワードライブを最後までしのぎきり、第5ゲーム10−5のマッチポイントでは丁寧のストップにススッと前へ出て、フォアミドルへ完璧なフォアドライブを決めた胡麗梅。その体力と精神力を賞賛するべきだろう。
 現在のところ、まだ世界ランキングがない胡麗梅。パリ大会もノーランクか、かなり低いランキングで迎える可能性が高い。ドローでこの胡麗梅がどこに入るのかも、戦局にかなり影響を与えそうだ。

photo:気の強そうなチョッパー・胡麗梅(写真提供:ITTF)
 3月5〜8日に行われた女子の「直通巴黎(直通パリ)」・第2ステージ。開催地となったのは、内蒙古自治区のオルドス(鄂爾多斯)市。巨額を投じてビル群やニュータウンが建設されながら、住む人がおらずにゴーストタウンと化しているという。
 そんな少々不気味な街で行われた第2ステージは、驚くべき結果となった。代表権を獲得したのは武楊と胡麗梅というふたりのチョッパー。しかも胡麗梅は世界女王・丁寧を二度も破ったのだ。結果は下記のとおり。

☆☆☆ 女子「直通巴黎」・第2ステージ 3.5〜8/内蒙古自治区・オルドス市 ☆☆☆

〈第1ステージ〉

A:1.朱雨玲(3勝0敗)/2.李暁丹(1勝2敗)/3.王シュアン(1勝2敗)/4.馮亜蘭(1勝2敗)
B:1.丁寧(3勝0敗)/2.常晨晨(1勝2敗)/3.曹臻(1勝2敗)/4.盛丹丹(1勝2敗)
C:1.文佳(3勝0敗)/2.武楊(2勝1敗)/3.顧若辰(1勝2敗)/4.趙岩(0勝3敗)
D:1.胡麗梅(3勝0敗)/2.陳夢(1勝2敗)/3.饒静文(1勝2敗)/4.楊楊(1勝2敗)

※各グループ1位の選手は準々決勝進出
※2〜4位の選手によるリーグ戦を行い、各グループ1位の李暁丹・常晨晨・武楊・陳夢が準々決勝進出

〈第2ステージ〉
●準々決勝

朱雨玲 3−0 陳夢   武楊 3−0 文佳
胡麗梅 3−2 李暁丹  丁寧 3−2 常晨晨
●準決勝
武楊 −5、−4、6、10、8 朱雨玲
胡麗梅 12、10、9 丁寧
●決勝 武楊 1、10、2、9 胡麗梅
★武楊が3人目の中国女子代表に決定!

〈第3ステージ〉※4選手のトーナメントの勝者が胡麗梅と対戦
●1回戦

李暁丹 8、9、−9、6 朱雨玲
丁寧 −2、9、9、−5、9 陳夢
●2回戦 丁寧 8、5、−9、5 李暁丹
●決勝 胡麗梅 −10、10、8、8、5 丁寧
★胡麗梅が4人目の中国女子代表に決定!

 武楊が第1ステージ2位から勝ち上がり、代表権を獲得したのも結構なニュースなのだが、いかんせん胡麗梅が残したインパクトが大きすぎる。何しろ一度もシニアの国際大会に出たことのない(ITTFジュニアサーキットには出場)、世界ランキングも持っていない選手が、いきなり世界選手権のシングルスに五星紅旗をつけて出場するのだ。中国のマスコミは「史上最大のダークホース」と書き立てている。

 まだ18歳の胡麗梅は、右シェークフォア裏ソフト・バック粒高のカット主戦型。3月1日に終了した2軍チームと1軍チームの入れ替え戦で優勝して1軍チームに昇格し、さらに頸椎を傷めた郭躍の欠場によって、幸運にも「直通巴黎」に出場した。第1ステージを1位通過しただけでも番狂わせなのだが、世界女王を二度までも破った。第3ステージの代表決定戦では、第2ゲーム2−7、第3ゲーム3−7のビハインドから逆転したのだから驚く。

 「うれしいし、とても興奮しています。2試合目は4−1で勝てるとは思っていなかった。パリ大会ではまず外国選手に負けないことが大事。あとは一試合ずつ頑張るだけです」(胡麗梅/出典:『網易体育』)。「将来の目標は世界チャンピオン」とも語った胡麗梅。そろそろ原稿が長くなってきたので、胡麗梅ちゃんの紹介はまた後ほど……。
★★★ 男子「直通巴黎」・第3ステージ 3.1〜5/江蘇省鎮江市 ★★★

●男子E〜F組(A〜C組の敗者によるリーグ戦)
E:1.閻安(2勝0敗)/2.馬琳(1勝1敗)/3.陳杞(0勝2敗)

閻安 6、4、−6、9 馬琳
閻安 3、8、5 陳杞
馬琳 8、7、4 陳杞

F:3選手が1勝1敗で並ぶ
樊振東 10、−6、9、4 王皓
王皓 2、7、10 ハオ帥
ハオ帥 −10、11、−5、5、7 樊振東

※1ゲームマッチによる再試合
王皓 14−12 樊振東
樊振東 11−9 ハオ帥
王皓 12−10 ハオ帥

★閻安、王皓がパリ大会のシングルス出場権獲得!

 お伝えするのが遅れてしまいましたが、「直通巴黎」男子第3ステージの最終結果。途中経過でお伝えした許シン、張継科、馬龍に続き、王皓と閻安がパリ大会のシングルス出場権を獲得した。

 まずEグループでは、序盤のCグループで惜しくも代表権獲得を逃した閻安が、馬琳と陳杞を連破。「(第3ステージは)9人中5人が代表になれるのだから、自分にもチャンスは十分あると思っていた。パリ大会ではベスト4を目指したい」と強気なコメントを残した。同世代のライバル、方博や周雨に大きく差をつけるチャンスを得た。
 一方、33歳の馬琳は協会推薦でのパリ大会出場がなるかどうか。すでに5人が代表に決定し、残る出場枠はふたつ。第3ステージに進んだハオ帥・樊振東・馬琳・陳杞の4人を差し置いて、周雨や方博らが抜擢されるとは考えにくいが……。中国卓球協会が、今までの馬琳の貢献を考慮するか、それともあくまで若手の育成を重視するか。五輪の前年の大会ではないので、ここは馬琳が出場するのではないだろうか。

 そしてFグループでは王皓が最後の代表切符を手にしたが、世界ジュニア王者の樊振東が出場権獲得まであと一歩だった。台上から両ハンドドライブで積極的に攻めて、王皓を3−1で撃破。ハオ帥戦もゲームカウント2−1でリードしたが、ここからプレーに安定性と積極性を欠き、第4ゲーム1−5、第5ゲーム1−7と大量リードを許して敗れた。
 1勝1敗で並んだとはいえ、得失ゲーム数で順位を決めるなら樊振東が1位だったのだが、この第3ステージは誰かが2連勝するまで終わらず、続いて1ゲームマッチのリーグ戦が行われた。ここでも樊振東は王皓を9−3と大きくリードしたのだが、ここから勝負を焦って9−9に追いつかれ、その後も3回のマッチポイントを奪いながら逆転を許した。結局、2試合に競り勝った王皓が辛くも出場権を手にしている。

 まだ(公称では)16歳になったばかりの樊振東。パリ大会の代表に選ばれれば、17歳で世界選手権に出場した劉国梁(93年イエテボリ大会)や馬琳(97年マンチェスター大会)の記録を抜き、中国男子チームの新記録となる。自力で出場権を獲得することはできなかったが、何らかの形でパリ大会の代表に選ばれる可能性が高そうだ。

photo左:ようやく頭角を現してきた閻安。ちなみに今は金髪
photo右:「板さん」樊振東はパリに行けるか。今、パリは日本食がブームらしいです
 3月1日に開幕した、世界選手権(個人戦)パリ大会の中国代表選考会「直通巴黎(直通パリ)」の男子第3ステージ。
 第2ステージに先立って行われたネット投票の上位3名、馬琳・王皓・ハオ帥に、第2ステージの上位4名、許シン、馬龍、陳杞、張継科、そして協会推薦の2名、閻安、樊振東。この計9名でシングルスの5つの出場枠を争った。すでに3名が出場枠を獲得しているので、途中経過をお伝えしましょう。

★★★ 男子「直通巴黎」・第3ステージ 3.1〜5/江蘇省鎮江市 ★★★

●男子A〜C組
A:1.許シン(2勝0敗)/2.樊振東(1勝1敗)/3.ハオ帥(0勝2敗)

許シン 5、8、8 樊振東
許シン 10、8、8 ハオ帥
樊振東 9、−6、7、−8、9 ハオ帥

B:1.張継科(2勝0敗)/2.王皓(1勝1敗)/3.陳杞(0勝2敗)
張継科 −14、8、6、−9、4 王皓
張継科 7、9、6 陳杞
王皓 7、4、−9、9 陳杞

C:1.馬龍(2勝0敗)/2.閻安(1勝1敗)/3.馬琳(0勝2敗)
馬龍 −9、−4、8、8、10 閻安
馬龍 −14、7、5、8 馬琳
閻安 −9、8、7、5 馬琳

★許シン、張継科、馬龍がパリ大会のシングルス出場枠獲得!

※男子E・F組の組み合わせ(3.4〜5に開催)

E:馬琳・陳杞・閻安/F:王皓・ハオ帥・樊振東
(各グループ1位の選手が4・5番目のシングルス出場枠獲得)

 黄色いラベルの黒酢「鎮江香酢」で有名な鎮江市で行われた第3ステージ。その結果は黒酢ほど刺激的なものにはならず、許シン・張継科・馬龍という若手トリオが順当に代表入りを決めている。ただし、スロースターターの馬龍はまたしても初戦で苦しんだ。クウェートオープンで準優勝と勢いに乗る閻安を相手に、出足の2ゲームを落とし、やっと追いついた最終ゲームも2−5とリードされてチェンジエンド。8−10とマッチポイントを握られたが、ここから4点連取でようやく勝利をつかんだ。
 馬龍と閻安はともに北京市男子チームの所属で、手の内を知り尽くした相手。以前は馬龍のほうがかなり分が良かったが、両者の実力はかなり接近してきている。「閻安とはいつもギリギリの勝負になる。試合前から、厳しい展開になることは十分に予想していたよ」(馬龍)。

 なお、この男子第3ステージは、劉国梁が「血戦到底」と称した独特の試合方式で行われている。…「血みどろデスマッチ」とでも申しましょうか。グループリーグで2連勝しなければ出場枠を獲得できないという方式だ。3人のリーグで1勝1敗の3すくみになった場合は、再び11点制1ゲームマッチを3試合行う。また3すくみになったら5点制1ゲームマッチ、また3すくみになったら10−10からの1ゲームマッチ……というように、誰かが2連勝するまで終わらない。
 A〜Cの3グループとも2連勝で3人が勝ち抜いたため、この方式の特徴が発揮されることはなかったが、E・Fグループでは3すくみの状況が現れるだろうか。最終結果や詳報は、また後ほどお伝えします。

photo:劉国梁監督が「直通王」と称賛した許シン。志願して出場した第1ステージ、そして第2ステージで1位を獲得し、第3ステージでも危なげない戦いぶりを見せた
(写真は12年ワールドツアー・グランドファイナル)
 正式に孔令輝の監督就任が発表された中国女子チーム。これまで郭躍や劉詩ウェンの担当コーチだった孔令輝が監督になったことで、女子チーム内では5人のコーチが担当する選手の顔ぶれが新たに発表されている。

第一組:李隼コーチ(49歳・北京)
李暁霞・朱雨玲・盛丹丹・王シュアン・江越
第二組:陳彬コーチ(47歳・湖北)
丁寧・饒静文・趙岩
第三組:劉志強コーチ(31歳・河北)
劉詩ウェン・陳夢・文佳・顧若辰
第四組:喬暁衛コーチ(52歳・江蘇)
郭躍・曹臻・楊揚
第五組:任国強コーチ(58歳・広西)
郭炎・武楊・常晨晨

 孔令輝曰く、各グループとも重点強化選手、中堅選手、若手選手を組み合わせた顔ぶれだという。
 コーチ陣も最年長の58歳、80年代後半には国家男子チームのコーチとして陳志斌や張雷を指導した任国強に、働き盛りの李隼と陳彬、唯一の女子コーチである喬暁衛、そして最年少・31歳の劉志強とバランス重視。選手だけでなく、コーチ陣もじっくりと世代交代を進めていく。

 また、孔令輝は「直通巴黎(直通パリ)」の女子第1ステージを故障で棄権した郭躍と范瑛の状態についてもコメントしている。郭躍については、「春節の休暇があり、国家チームに戻ってからも治療を続けている。それほど大きな問題はない」とのこと。一方、右ひじの故障が悪化した范瑛については、回復のめどが立たず、実質的には国家チームからの引退に等しい状態だという。11年世界選手権ロッテルダム大会では、福原愛(ANA)と平野早矢香(ミキハウス)を連破してベスト8に入った范瑛だが、今年のパリ大会への出場は難しい状況だ。

photo:国家女子チームの屋台骨を支えるのはやはりこの人、李隼コーチ。抜群の経験と実績で、孔令輝監督の頼れる片腕になりそう
 2月26日、中国卓球協会は国家男女1軍チームの新しいコーチ陣の陣容を発表した。コーチ陣の任期は、リオデジャネイロ五輪が開催される2016年いっぱいまでとなる。
 男子1軍チームは劉国梁監督が留任、女子1軍チームはコーチ選考会議で唯一立候補していた孔令輝が新監督に就任した。ここまでは既定路線だが、実は今回のコーチ陣発表の最大の関心事は別のところにあった。「劉国梁の総監督就任なるか」という一点だ。2004年末に蔡振華が国家チーム総監督を辞任して以来、しばらく設置されなかった総監督のポストが復活するのかどうか、注目が集まっていた。

 そして今日、劉国梁が男子チーム監督と兼任で、総監督の座に就くことが正式に発表された。劉国梁監督は以下のようなコメントを発表している。

 「非常に感動しています。総監督になることができたのは、私にとって無上の名誉であり、長年の努力が認められ、支持を頂いたことに感謝したい。この栄光のチームが私を鍛え上げてくれた。チームに関わる、すべての人たちの努力に感謝している。
 そして私の敬愛する蔡副局長の私に対する信頼、多大なご指導には感謝の念しかない。その恩返しがしたいし、チームの未来への発展のために、より力を尽くしたい」(出典:『新浪体育』)


 もっとも、総監督という役職には特に具体的な任務はなく、名誉職というイメージが強い。1970年に徐寅生が初代の総監督になって以来、李富栄、許紹発、蔡振華らが総監督を務めてきたが、89年から97年までは総監督の座は空位だったし、蔡振華も04年末に辞任する時に後継者をたてることはなかった。03年の男子監督就任以来、確実に実績を積み重ねてきた劉国梁に対するご褒美(ほうび)といったところか。
 国家男女1軍チームのコーチ陣の陣容は下記のとおり。王皓や馬琳の担当コーチとして名を馳せてきた呉敬平は、年齢面・健康面の不安から引退との報道がなされていたが、今回もコーチ陣に名を連ねた。女子コーチの喬暁衛が紅一点、元河北省チーム総監督の劉志強は、元中国代表の牛剣鋒の旦那さんだ。

総監督:劉国梁(※男子1軍チーム監督兼任)
女子1軍チーム監督:孔令輝(新任)
男子1軍チームコーチ:呉敬平・秦志ジェン・肖戦・馬俊峰
女子1軍チームコーチ:李隼・任国強・喬暁衛・陳彬・劉志強


photo:選手としても指導者としても、稀なる成功を収めつつある劉国梁
 昨日2月18日に終了したITTFワールドツアー・クウェートオープン。中国語では「科威特(クウェート)公開賽(オープン)」。中国は開催された男女シングルス&ダブルスの4種目を完全制覇したが、選手一人ひとりを見てみると、泣く者あり、笑う者ありという「悲喜こもごも」の結果だった。

 まず男子シングルス。前回のオーストリアオープンで高木和卓(日本/東京アート)に敗れた張継科が、男子シングルス1回戦でまたも大苦戦。試合が行われた2月16日は張継科の25歳の誕生日。スカッと1・2回戦を突破したいところだったが、初戦でいきなり香港の黄鎮廷(ウォン・チュンティン)にゲームカウント1−3とリードを許し、結局ゲームオール12−10での辛勝だった。黄鎮廷は巧みなサービスと裏面ドライブを操る右中国式ペンドライブ型だが、予選リーグでウラソフ(ロシア)、本戦進出の決定トーナメントでは森薗政崇(日本/青森山田高)に敗れている選手だ。
 その後も準々決勝でシュテガー(ドイツ)に4−2と競り合うなど、本調子にはほど遠かった五輪&世界王者が、決勝で天敵・馬龍を4−1で圧倒して優勝してしまうのだから、まるで「死んだふり作戦」。爆発力と表裏一体のこの危うさが張継科の魅力だが、また劉国梁監督にチクリとやられそうだ。

 そして今回の中国選手団で、最大の悲哀を味わったのが方博だろう。オーストリアオープンでのワールドツアー初優勝で、世界ランキングを74位から24位までジャンプアップさせながら、男子シングルス2回戦でカットの姜動洙(カン・ドンス)にゲームオールで敗れ、中国男子で最も早く姿を消してしまった。先輩の王皓と組んだダブルスでも、趙彦来/鄭栄植(韓国)に予選トーナメントで惜敗している。
 オーストリアオープンの優勝後、微博(マイクロブログ)で「首脳陣の方々が、ぼくに生まれ変わるチャンスを与えてくれたことに感謝します」とコメントしていた方博。…完全に生まれ変わるまでは、まだ時間がかかるかもしれない。

 一方の女子シングルスは、中国にとっての最大のトピックスは、準決勝で丁寧が馮天薇(シンガポール)にゲームオールで敗れたこと。実は丁寧、2010年世界団体選手権・決勝で馮天薇に敗れて以来、およそ2年9カ月に渡って外国選手には負けていなかった。これは最強軍団・中国女子といえども特筆すべき記録だったのだが、記録をストップしたのはまたも馮天薇だった。
 中国女子は、今回の中東でのワールドツアー2大会(クウェート&カタール)で連続優勝した選手には、世界選手権パリ大会のシングルスの出場権が与えられる規定。「直通巴黎(直通パリ)」の第1ステージで惜しくも出場権を逃した丁寧や朱雨玲にとっては出場権獲得のチャンスだったが、クウェートオープンではすでにパリ大会の出場権を得ている劉詩ウェンが優勝。中東からのパリ大会出場の道は、残念ながら閉ざされてしまった。
  • 2013年はなかなか成績が安定しない張継科

 「ピンポン外交」の立役者のひとりとして、1973年の第10期共産党大会で中央委員に選ばれ、政治への道を歩み始めた荘則棟。日本でいえば、オリンピックの金メダリストが国会議員になるようなものだが、翌74年12月には早くも国家体育運動委員会の主任、つまりスポーツ省大臣になっている。
 江青(毛沢東夫人)ら「四人組」に接近していった荘則棟に対し、前妻である鮑蕙蕎(バオ・ホイチャオ)さんは思い留まるよう忠告したが、荘則棟は「毛主席の夫人とともにいることが、政治的な安全を保証する」と話した。文革初期の苦い体験が、荘則棟の大局を観る目を鈍らせてしまったのか。「鮑蕙蕎と私は、互いを何とかして安全なところへ導こうとして、離れ離れになってしまった。まるで綱引きをするようにね」(荘則棟)。

 「彼は中央委員になって、国家体育運動委員会の主任にまで出世したけれど、私はそんなことには一切興味がなかった。政治的なことには首を突っ込んでほしくなかった。
 一番怖かったのは、彼が変わっていってしまうことでした。私が大事にしていたもの、大好きだったものが、彼から失われていったのです」(出典:『新聞晩報』)
 鮑さんが第二子の女の子を出産する時も、荘則棟は「外国からの来賓との会談があるから」と言って、すぐに帰ってしまったという。

 そして結果的に、荘則棟は江青らの失脚とともに76年10月に国家体育運動委員会主任の座を追われる。4年間の「隔離審査」、つまり投獄生活に近い日々を経て、1980年から山西省チームのコーチを務め、84年からは北京市少年宮でコーチとして指導するようになる。
 鮑さんとの離婚が成立したのは85年2月2日。結婚からちょうど20年目のことだった。「私たちが別れることになったのは、どちらかひとりだけの失敗ではありません」。鮑さんはインタビューの中でそう語っている。

 その後、荘則棟は71年名古屋大会で来日した際の通訳だった佐々木敦子さんと再婚。佐々木さんは荘則棟の闘病生活を支え、最期を看取ったが、長男の荘ピャオさんの30歳の誕生日に荘則棟と鮑さんと佐々木さん、3人が初めて顔を合わせたのを機に、毎年集まって荘ピャオさんの誕生日を祝っていたという。
 今は海外に住みながら、たびたび荘則棟の見舞いにも訪れていた荘ピャオさんの談話を最後に紹介しよう。「私はとても父を尊敬しています。父はいつだって堂々としていて、男らしかった。決して人に責任をおしつけたりはしない人でした」。

photo:70年代の荘則棟(写真・前列左)。前列中央は荻村伊智朗氏(故人)、前列右は木村興治氏(現・日本卓球協会副会長)
 2月10日に亡くなった中国卓球界の巨星・荘則棟。亡くなったのは中国の旧正月である春節の2月10日だったが、その亡くなる直前、ある人から「年夜飯」が届けられたことを『新聞晩報』などのメディアが伝えている。「年夜飯」とは大晦日に食べる食事のこと。届けたその人とは、荘則棟の前妻である鮑蕙蕎(バオ・ホイチャオ)さんだ。故人に対して、少々ナイーブな話題ではあるのだが、鮑さんのインタビューなどを少し取り上げてみたい。

 鮑さんは1960年代から活躍する、中国を代表する「鋼琴家(ピアニスト)」のひとり。59年にオーストリア・ウイーンで行われた世界青年学生祭典で荘則棟と知り合い、62年に北京市主催の春節聯歓会で再会して、交際がスタートした。中国を代表するアスリートとアーチストのビッグカップル。文化大革命が近づくにつれ、卓球もピアノも続けられなくなったことがふたりの結婚を早め、1965年に結婚している。

 文化大革命では、国家チームの傳其芳(フー・チーファン)監督や姜永寧(ジァン・ヨンニン)コーチ、中国初の世界チャンピオンである容国団(ロン・グオトゥアン)らが「スパイ」として激しい批判や暴力にさらされ、自ら命を絶った。世界選手権3連覇の荘則棟でさえ、文化大革命の初期には批判対象となり、監禁状態での生活が続いて、相当追い詰められていたようだ。
 鮑さんはその時、荘則棟の第一子を身ごもっていた。

 「どうか堪え忍んでください。決してそれ以外のことは考えないで。私と、そしてまだ見ぬ子どものことを考えてください」(出典/『新聞晩報』)。

 荘則棟にそう伝えたことを、鮑さんは2002年に行われたインタビューで語っている。ほどなくして鮑さんは長男の荘ピャオ(風+火×3)さんを出産。荘ピャオさんは後にハンガリーのリスト・フェレンツ音楽大学に学び、母親と同じピアニストへの道を歩んだ。ちなみにもうひとり娘さんも生まれ、彼女はバイオリニストになった。卓球一家にはならず、音楽一家になったのだ。

 周恩来総理の配慮によって再びラケットを握ることができるようになり、71年世界選手権で3大会ぶりに世界選手権に登場した荘則棟。中国選手団のバスに間違って乗り込んできたアメリカ人選手、グレン・コーワンに荘則棟が声をかけたことから、歴史的な「ピンポン外交」の幕が開いた。そしてピンポン外交の立役者のひとりとなったことで、荘則棟の運命は大きく変わっていく。

 …長くて小難しくてすみませんが、後編に続きます。

photo:61年北京大会優勝時の荘則棟