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卓球王国ストーリ-

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 85年から2年間、ベースボールマガジン社が刊行していた『卓球マガジン』は日本卓球協会の機関誌だった。
 卓球王国を創刊するに当たり、編集長兼会社代表の今野は単身、日本卓球協会にあいさつに行った。

 当時の協会の事務局長に面会し、聞かれもしないのに「最初から協会の機関誌になるつもりはありません。書きたいことを書ける卓球ジャーナリズムを貫きたいと思っています」などと、今思えば余計なことを今野は言い放っていた。
 当時38歳。若くはないが、発言は、まさに若気の至りだ。最近、わかったことだが、今野が師と仰ぐ荻村伊智朗さん(故人)も自らが発行人となり、製作した『卓球ジャーナル』(現在卓球王国WEBでeBook発売中)を38歳の時に創刊している。ただし、収益性が悪く、赤字を毎月出しながら、約10年間ほどで月刊は中止となった。
 さすがに師匠とはいえ、その部分は真似できない。

 さて、当時の協会の事務局長には「卓球専門誌は大変だよ。簡単じゃないよ。せいぜい借金作らないで頑張りなさいよ」と励ましとは言えない、冷たい言葉が返ってきた。 

 今考えても、協会機関誌という立場であれば、様々な情報も入手しやすく、「錦の御旗」で取材もしやすかっただろう。
 しかし、当時はいきがるわけでもなく、協会機関誌になることは全く考えていなかった。長く、卓球メーカー誌にたずさわり、「書きたいことが書けない不自由さ」を実感し、「使いたい写真を使える自由」がほしかったのだ。

 卓球界の様々な事象を考え、紹介し、時にはいくら内部の人たちと仲が良くても、協会のやり方を批判しなければいけない時があることは十分に予想できた。いみじくも荻村さんは今野の結婚式に出席した際にスピーチでこう言っている。
「テニスにはテニスジャーナリストがいる、サッカーにはサッカージャーナリストがいる。だから、君は今までいなかった卓球ジャーナリストの道を歩むべきだ。それが卓球界への貢献だ」
 その時に、今野が時に協会をも批判する雑誌を作るとは思っていなかったと思う。荻村さんは1994年12月に亡くなった。卓球王国が創刊されたのはそれから2年後の1997年1月である。

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  • 荻村氏が発行していた卓球ジャーナル