1959年世界選手権ドルトムント大会で、団体チャンピオン、男子ダブルスチャンピオン(荻村伊智朗氏がパートナー)になった村上輝夫氏が逝去した。
村上氏は戦後、「卓球王国」とも「カット王国」とも言われた青森県出身。青森からは、戦前は球聖と呼ばれた今孝選手、戦後は日本人初の世界チャンピオンになった佐藤博治選手という名選手が生まれている。
そういう卓球環境の中、県下一の進学校である青森高校に進み、同期にはやはりカットマンの渋谷五郎氏がいた。二人はライバルとして腕を磨き、のちに二人とも明治大に進学し、世界代表(村上氏は59年、渋谷氏は61年)になる。
ライバルだった渋谷氏は以前、卓球王国のインタビューでこう語っている。「青森はカットが多いから、攻撃の選手もカット打ちが非常にうまい」「村上とは高校時代もそうだし、大学に入ってからも、年に2回くらいしかやらなかった。村上とやると1試合1時間以上かかる。本当に厳しい試合になるから、彼とやるには相当な覚悟が必要だった」。
全日本選手権ではシングルスのタイトルを獲っていないが、当時ヨーロッパの強豪カットマンに対する秘密兵器として1959年世界選手権に出場し、大活躍をした。