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 3月1日のスロベニア・リュブリャナで行われたITTF(国際卓球連盟)のEC会議(役員会)でのITTFシャララ会長へのインタビュー。シャララ会長が過去、現在、そして未来ついて語った。以下はITTFのホームページから。(長いために何回かに分けて掲載する)

――カナダのナショナルチームに所属していた選手がITTF会長になるには何が必要でしたか? やる気になった理由は? 会長になることは常に頭にあったのですか、それとも流れに身をまかせたのですか?  


シャララ会長●カナダ人であることは全く関係ありません。1989年にITTFのメンバーに大陸副会長という立場で加わりました。4年間でITTFがどう機能しているのか、どんな問題点に立ち向かっているのか等、学びました。
 ただし改善できることがいくつかありました。例えば、当時世界ランキングを手計算でやっていましたが、どんどん試合数が増えている中で今後どうやっていくのだろうかと不思議でした。なので、ランキング計算のコンピューター化を提案。また、女子選手に希望を与えるため、男女での大会賞金額を同一にするようにも提案しました。

 つまり(ITTFは)昔ながらの組織でした。私がそこに加わることが最善の方法だと思いました。自分がそこに入れば中から変えていけるのです。大陸副会長という立場の4年間で少なくともランキング計算のコンピューター化について組織を納得させることに成功。ベストな方法ではなかったとしても正しい方向に進んだことは確かです。私はまたIOC(国際オリンピック委員会)を通して五輪の男女出場人数を同じにするよう申請しました。

 中からいろんなことができることがわかったので、1995年のITTF会長選に立候補することを決めました。1989年から1993年の間に私がやって来たことをわかっている人たちの多くが立候補を後押ししてくれました。当時、会長である荻村伊智朗氏が病気のため代わりの人員を探していたのです。その当時、アジアとヨーロッパは対立しており、別な大陸からの会長が望ましかった。しかし、ローロ・ハマランド氏(スウェーデン)が会長に就任します。私はITTFの中に尊重するべきしきたりのようなものがあることに気付きました。荻村氏が亡くなった後には、長年に渡り会長代行を努めてきたハマランド氏が会長に就任するということです。
 彼はすでに60歳で私は40歳でした。そのことに気付いた私は会長への立候補を取りやめ、副会長に立候補しました。1995年にITTFの副会長に選出。悲しいことにハマランド氏はその1年後に他界。中国の徐寅生氏が会長に就きました。

 私は1999年に会長に就任。これは計画的なことではなく、一連の状況の変化でした。執行委員会に長くいたことで、会長は数多くのことを変更できる立場にあることがわかりました。また、影響力があり、説得することができ、援助もできるのです。中国、ドイツ、フランスなどの大きな協会は影響力を持っていますが、他の立場、特にカナダ卓球協会からなどは大きな影響は及ぼせません。
 もし変えたいなら自分がやるしかなかったのです。その時私にはいろいろな考えがあり、年齢も若かった。しかし、始めた頃、周りの反応は好意的ではありませんでした。「誰かカナダの人が会長になった」というだけでした。しかし、追々、彼らはそれが利点だと気付いていくのです。
 私が提案したことのすべてに対して、「それはカナダのためだ」とは誰も言えませんでした。なぜならカナダは世界のトップを争うレベルではなかったから。私が実行していること全て卓球界のためでした。残念なことにこれは後に変わっていきます。ITTFからの提案は全て対中国と解釈されて行くのです。しかし、これは自然なことです。彼らは卓球界の中心にいるのですから彼らに最も影響が及びます。<続く>
  • 右から2人目がITTFシャララ会長、その左は前ITTF副会長の木村興治氏