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卓球王国ストーリ-

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 今野が24歳か25歳頃、今で言うプータローというか、アルバイトをしながらその日暮らしをしていた。ある日、荻村伊智朗さんから電話をもらった。「今野、藤井さんが会いたいと言っているから、会社に来なさい」
 以前から貧乏学生だった今野は藤井基男さんが編集長として当時関わっていた「卓球ジャーナル」(発行人・荻村伊智朗)のアルバイトをしていた。
 荻村商事(社長・荻村さん)に行くと、藤井さんに近況を聞かれ、「卓球ジャーナルで働いてみるか」と言われた。
 藤井さんは岩手県庁を経て、「卓球レポート」(タマス社刊)の編集長として名著を残した人だ。頭が良くて、シャイで優しい人だった。数年間、藤井さんのもとで仕事をさせていただいて、卓球雑誌の編集のノウハウを学んだ。

 卓球王国を始めてからもいろいろと応援していただいて、藤井さんの本を小社から三冊上梓した。卓球歴史家として文章の書ける人を私は藤井さん以外に知らない。
 2009年4月。横浜での世界選手権を目前に控えたある日、同じ青卓会で卓球をしていたITS三鷹の織部幸治さんから電話をもらった。「藤井さんが入院している。なるべく早く会ったほうがいいよ」。以前から、ガンが転移をしているのは本人から聞いていた。「ついに来る時が来たのか」と落ちこんだ。

 千葉の成田市にある病院にお見舞いに行った。枕元には「世界選手権横浜大会の公式プログラム」が置いてあった。卓球王国が製作したものだ。「悪いね、今野君。せっかく立派なプログラムを送ってもらったのに、読めないんだよ」と絞り出すように声を出す藤井さん。すっかり体は細くなっていた。
 「藤井さん、この病室にテレビがあるから、世界選手権見てくださいね」と言ったが、じっと前を見つめた藤井さんから返事はなかった。

 「民間の出版社で卓球の専門誌を成功させたのは卓球王国だけなんだから、すごいことだよ今野君。君とはよい仕事をさせてもらったよ。ありがとう」。最後まで、人を思いやり、励ます人だった。
 目の前の藤井さんがぼやけてしまいながら、こう言うのが精一杯だった。「ぼくのほうこそ、感謝しています。藤井さんと出会ってなければ、こうやって卓球王国もやっていないんですから」。

 「早く良くなってください」とその時、言えなかった。最後に、「今野君、もっともっと頑張ってね。君は歴史に残る仕事をしているんだから」。握った手は細くなっていた。涙で藤井さんの顔がよく見えなかった。
 それが恩師・藤井基男さんの遺言だった。
 大好きだった藤井さんが亡くなったのは2009年4月24日。その4日後に横浜大会は開幕した。
  • 若かりし頃の藤井さん(左)と荻村さん