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中国リポート

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 「世界団体選手権の前から、右ひじの調子はずっと良くなかった。プレーを続けながらいろいろ治療をしたけれど、あまり効果がなかった。世界団体選手権の後でレントゲンを撮って検査したら、(右ひじの腱と靱帯が)二カ所断裂していることがわかった。手術を受けたらロンドン五輪に間に合わないので、手術を受けずに毎日治療を受けていた」(郭炎)。

 ロンドン五輪の推薦出場枠を獲得しながら、右ひじの故障で丁寧と無念のエントリー変更となった郭炎。04年アテネ五輪から3回の五輪出場のチャンスがあり、常に代表の有力候補でありながら、ついに五輪のコートに立つことはなかった。4年に1回しか開催されない五輪。高い実力を誇る選手でも、大会時に競技人生のピークを持ってこられるとは限らない。

 05年世界選手権上海大会の決勝で、04年アテネ五輪金メダリストの張怡寧と互角の戦いを繰り広げた郭炎。当時ふたりの実力は伯仲(はくちゅう)していたが、張怡寧が五輪2大会連続2冠王となったのに対し、郭炎は五輪出場すらかなわなかった。振り返ってみると、郭炎にとって痛恨の極みと言うべきは、2003年世界選手権パリ大会。ドローに恵まれながら、発熱の影響もあって3回戦でバデスク(ルーマニア)にゲームオール11点で敗れ、ベスト32止まり。張怡寧、王楠に続く04年アテネ五輪の3枚目の代表切符(シングルス)は、03年末のプロツアー・グランドファイナルで優勝した牛剣鋒の手に握られた。

 『成都商報』の記事によれば、郭炎が最も苦痛を感じたのは、エントリー変更を聞かされた瞬間ではなく、4月1日の世界団体選手権・女子決勝だったという。

 「チームメイトたちがコートに立っているのを見て、ベンチで焦りを感じた。いろいろなことを考えました。『ロンドン五輪にも、もう出られないのだろう』と考えた時、苦しみで胸が張り裂けそうでした。
 それでも、そんな感情を表に出すわけにはいかなかった。監督やチームメイトをサポートしないといけませんからね。…本当につらかったですね」(郭炎)


 戦術眼や対戦相手の分析能力は、施之皓監督も高く評価する郭炎。今後は国家チームのコーチとして活動することになりそうだ。「五輪金メダリストや大満貫を獲得するような選手を育てられるかはわからないけど、自分の選手時代の反省や教訓を指導に生かしていけると思う」と語っている。

photo:世界団体選手権・決勝のベンチでの郭炎。その胸中は如何…