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中国リポート

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 「ピンポン外交」の立役者のひとりとして、1973年の第10期共産党大会で中央委員に選ばれ、政治への道を歩み始めた荘則棟。日本でいえば、オリンピックの金メダリストが国会議員になるようなものだが、翌74年12月には早くも国家体育運動委員会の主任、つまりスポーツ省大臣になっている。
 江青(毛沢東夫人)ら「四人組」に接近していった荘則棟に対し、前妻である鮑蕙蕎(バオ・ホイチャオ)さんは思い留まるよう忠告したが、荘則棟は「毛主席の夫人とともにいることが、政治的な安全を保証する」と話した。文革初期の苦い体験が、荘則棟の大局を観る目を鈍らせてしまったのか。「鮑蕙蕎と私は、互いを何とかして安全なところへ導こうとして、離れ離れになってしまった。まるで綱引きをするようにね」(荘則棟)。

 「彼は中央委員になって、国家体育運動委員会の主任にまで出世したけれど、私はそんなことには一切興味がなかった。政治的なことには首を突っ込んでほしくなかった。
 一番怖かったのは、彼が変わっていってしまうことでした。私が大事にしていたもの、大好きだったものが、彼から失われていったのです」(出典:『新聞晩報』)
 鮑さんが第二子の女の子を出産する時も、荘則棟は「外国からの来賓との会談があるから」と言って、すぐに帰ってしまったという。

 そして結果的に、荘則棟は江青らの失脚とともに76年10月に国家体育運動委員会主任の座を追われる。4年間の「隔離審査」、つまり投獄生活に近い日々を経て、1980年から山西省チームのコーチを務め、84年からは北京市少年宮でコーチとして指導するようになる。
 鮑さんとの離婚が成立したのは85年2月2日。結婚からちょうど20年目のことだった。「私たちが別れることになったのは、どちらかひとりだけの失敗ではありません」。鮑さんはインタビューの中でそう語っている。

 その後、荘則棟は71年名古屋大会で来日した際の通訳だった佐々木敦子さんと再婚。佐々木さんは荘則棟の闘病生活を支え、最期を看取ったが、長男の荘ピャオさんの30歳の誕生日に荘則棟と鮑さんと佐々木さん、3人が初めて顔を合わせたのを機に、毎年集まって荘ピャオさんの誕生日を祝っていたという。
 今は海外に住みながら、たびたび荘則棟の見舞いにも訪れていた荘ピャオさんの談話を最後に紹介しよう。「私はとても父を尊敬しています。父はいつだって堂々としていて、男らしかった。決して人に責任をおしつけたりはしない人でした」。

photo:70年代の荘則棟(写真・前列左)。前列中央は荻村伊智朗氏(故人)、前列右は木村興治氏(現・日本卓球協会副会長)