年別アーカイブ: 2019

わからないこと

小学校低学年だった頃、国語の時間にみんなの前で読み上げていた教科書の中で「困った様子」という文章があったのですが、これを全力で

 

「困ったざます」

 

と読んだことがある、森下です。

 

 

 

ずいぶん前になるけれど、卓球を教えていた小学生の男の子で、卓球の技術はもちろんトレーニング方法、

メンタルトレーニングのやり方や種類、卓球メーカーや日本卓球協会のこと、

オリンピックのことやらラケットやラバーの種類と特性などなど、やたらとマニアックな質問を結構な頻度でぼくにしてくる子がいました。

 

今まで彼にはずいぶん色々な質問をされましたけど、その中でぼくが最も困り果てた質問がこれです。

『チキータをとる時のラケット角度って何度ですか?』

 

知らんよ。

って素早く答えてました。思わず。

いえ、厳密に測ればもちろんラケット角度は導き出せたと思うのですが、それ相手の回転によらない?と思い敢えてその質問はスルーしました。

結局その子には質問の答えとして『ちゃんとチキータを取れるようになるまでいっぱい練習しようね』とマッスルな解決方法を提案しましたが、

『何かを疑問に思うこと』という事に関しては、最近すごく思うところがあるのであります。

 

それは、もしわからないことがあったとしても、『それはわからないままにしておいてもいいんじゃないかな。』ということは、意外とあるような気がするということです。

 

ほら、くまのプーさんやムーミンだって、大人が見ても結構難しいと思うところって、いっぱいあるじゃないですか。

 

ぼくは未だにプーさんがピグレットに『何をしているの?』と聞かれて、『何もしていないという事をしているんだ』と言っていたこの意味がよくわかりません。

でも、完ぺきに理解できないからこそ『なんかいいわぁ』『なんかおもしろいわぁ』となるのであって、知ることが全てではないような気もするんです。

 

技術的にさ、ドライブの打ち方がわからない、レシーブの仕方がわからない、サーブの出し方がわからない、飛びつき方がわからない、試合の勝ち方がわからないというのは、

結構多くの人が思ってることかもしれないと思うのですが、でもものすごく厳密に言えば

世界のトップ選手だって分からない部分は沢山あるんです。

 

ぼくだって『ねぇ今の打ち方でなんでミスるん?』と火垂るの墓の節子の口調で自分に質問していることなんてしょっちゅうですからね。

 

でもわからないから練習するし教えを請うし、上手い人の動画を見て勉強とかするんです。

『このチキータ激しく萌えますね。』

とか言いながら。

 

卓球はどんなにうまくなっても、できないことがたくさんある。分からないこともいっぱいある。

だから楽しいのですねぇ。きっと。

 

オーバーワークと過剰摂取

以前、ある場所に行く途中で道に迷ってしまったので、道行くお姉さんにiPhoneで地図を見せながら

『すみません、この場所に行きたいんですけども』

と道を訊いたところ

「あ、じゃあ、その地図を見ながら行ったら着きますよ」

って教えてくれました。悲しい。

 

さて、実はぼく、昔から観葉植物が大すきなのですね。

しかしなぜか、ぼくが植物を育てるとすぐにみんな枯れてしまうので、とても残念がっていたりしてました。

でも、妻はぼくとは正反対に植物を育てるのがとても上手で、みるみる新しい芽が出ては大きくなっていくものですから

それを横目で見ながら『なんでだろうなあ』っていつも首を傾げていたんですけど

こないだたまたま彼女が植物に水をあげているところを目撃する機会があったんです。

 

そうしたら、これはさすがに植物さん餓死するんじゃないですかねっていうくらい、本当にちょこっとしか水をあげてなかったんですよ。

 

それに比べてしまうと、僕なんかはまるで大洪水のように水をぶっかけてる状態で

そういえば枯れてしまった子達はみんな根腐れしてしまっていたなぁなんて事を思い出しまして

という事はすぐに枯れてしまうのは単純に水のあげすぎが原因だという事がわかりました。

 

食事でも水でも酸素でも、なんでも大量摂取しすぎると毒になるというのは聞いた事があります。
(もしかしたら練習もそうなのかもしれません)

なので、『大量摂取かあ。。そんな事をしたりさせたりする人はホントにいるんだろうか。全く残念極まりないわ。』

などと言ってはいたものの

 

ホントに残念なことしてた人が一番身近にいたことに、自分でもビックリですよね。

 

練習の場合だと、例えば怪我した時とか大変なスランプに陥った時は

変に意地になって膨大な練習を繰り返すとかじゃなくて、一度勇気を持って少しだけ休んでみた方がいいというのが、ぼくが思うところであります。

じゃないと、もっと怖くなることがあるから。

なので、そういうときは無理に練習をせずにほんの少しでいいから休むことを、やっぱりだいじにしてほしいです。

 

どんな練習をいつ、どれくらいするのか。どんなものをどれくらい食べて身体をどんな状態にしておくのか。

トレーニングはいつどんなものをして、それは身体にどんな変化が出るまで続けるのか。その状態を維持する為にはどんなことをどれくらいしていけばいいのか。

試合前はどんな事を考えてどんなアップをどのタイミングでして、心拍数はどれくらい上げておけばいいのか。

そんなように考えることはいっぱいあるけど、過剰になりすぎず手を抜きすぎず、

先人に聞いたり自分自身の身体に聞いたりしながら、一番いい量と質をしていくことが、やっぱり理想なんだと思うのであります。

天才

彼(彼女)は生まれながらにして才能がある。

あの人は天才ですから。

 

よく、超一流とよばれるアスリートだとかアーティスト、すばらしい実績をのこしてきた人達に対してぼくたちは、

こんな表現をしていたりするんじゃないかなあと思います。

 

たぶん多くの場合はその人たちに対する感嘆の念と一緒に

『とてもじゃないけど自分たちには真似できないよアハハ~』

的な想いも入りまじっているんじゃないかなぁと思ってはいるんですが、

この『才能』というやつは、後天的に身につけることはできないんだろうか

ということが昔からずっと疑問だったんですね。

 

で、実はその「『天才』とか『才能』の類は後天的につくることはできるのか」みたいなことが書いてある本に、こないだたまたま出会うことができたので

今日はその内容について、ぼちぼち書いていけたらなと思っています。

 

で、で、この本に書かれている結論をいいますと、ちゃんとやることやれば、

後天的に得られないものは「ない」ということらしいのです。わーお。

 

スポーツでいえばテクニック、筋力、戦術、フィギュアスケートなどでいう表現力とかね、

そういうものはいくらでも後天的に伸ばしていくことが可能なんだということなのであります。

(ただ、歳をとるごとに骨格とかはどうしても固まってしまうので、そういう身体的なところはしょうがないらしいです。)

 

これはもう「OMG(オーマイゴッド)」以外のなにものでもありません。

 

で、で、で、よく天才が生まれる音楽とか芸術の世界では、

才能うんぬんよりもいかに練習をデザインできるかが肝心なようですね。

 

あ、そういえば、張本くんはナショナルチームの合宿では誰よりも多く練習しているんだという話を、

同じ合宿に参加した後輩に聞いたことがあります。

 

昼休みになってみんなが休憩に入っても、

彼だけは1人残ってお父さんとマンツーで多球練習をひたすらこなしているらしいのです。

それが終わってから昼休みに入ると。

 

そういう日々の練習の積み重ねが、彼という天才をつくったんですね。

 

で、で、で、で、その本では『いかに練習するか』『いかに限界的練習を作ることができるか』みたいなことが、

超一流をつくりだすカギなんだと結論付けていたわけでありますが、

きっと大事なことは『いかに限界に挑み続けられるか』ということと、

そうすることで超一流(天才)はつくれる『かもしれない』ということですよね。

 

よくPractice makes perfectともいわれますけど、

その練習もただ漠然とやればいいってもんでもないみたいで。

 

特に「練習の目的を明確に意識してやる」のか「漫然と練習する」のかでは大きく違うそうです。

 

何かに挑戦するのは大変だし失敗もしまくると思うんですけどね、

超一流といわれる人たちに共通する特徴が、「限界に挑むこと」とか「一日何時間は練習するぞ」という日課的なものが、

すでに生活に組み込まれていることなんだと思います。

 

どんなに超人的で変態的な技能をもっているひとでも、

見えないところにたくさんの頑張りがあってのことなんだなあと。

このことは、覚えておこうと思った次第であります。

負けずぎらい

子供に卓球を教えてると思うんです。当たり前だけど、最初は試合なんか出ても負けばっかりですやんか。

試合に出るたび負ける。出ていきなり優勝なんてなかなかない。まれですよね、ホントにまれ。

 

あ、それと、子育てしててしょっちゅう思うんですけどね、子供ってめっちゃ負けず嫌いですやんか。(うちの子だけなのかしら。)

じゃんけんひとつでも、自分が負けたくないからってへいきでルールを変えるんです。

じゃんけんのルールを変えるんですよ。チョキで負けたら『ぼくのチョキはグーより強いから、ぼくの勝ちね。』とか言って。

 

なめてない?

 

いや、世の中を。

そんな勝つことばっかりじゃないのさって思うのです。

負けることがあるから勝ちがうれしいんでしょうよ。っていう。

 

負ることがあるから勝つために頑張るわけだしさ、だからねたまには負けたっていいんだよって、しょっちゅう言ってるんだけどなかなか分かってくれないんです。

いっつも『でもしゃあ(でもさあ)』からはじまる言い訳がずらずら出てくるんですよ。

 

ここではなしは少し飛躍するんですが、あの百獣の王ライオンさんがですね、実はあまり狩りがうまくないのだということを最近知ったのですよ。

どうやら、狩りの成功率はだいたい20%くらいらしいのです。

 

狩りのとき、相手が大きいヤツだと吹っ飛ばされて、小さいヤツだとちょこまか逃げられたりと、わりとね、失敗ばっかりらしいのですよ。

それでも狩をやめないのは、食べられないと、死ぬから。

狩りで勝たないと、生きていけないからですよね。

 

勝負の世界でも、勝たないと生き残れないんですよね。勝てば生き残れるけど、負けたら死ぬんです。

 

勝負の世界に生きているトップアスリート達は、そんな世界で生きているのね。今さらだけど思い出した、しんどかったけど楽しかった。と思う。

あれ、ぼくはトップアスリートだったんだっけ?っていう疑問は、この際置いておいて。

 

先日引退されたイチローさんも、ヒットの数の倍の数、失敗してるんですもんね。

それでも勝ちに行こうと挑戦してた姿は、やっぱりカッコよかったですね。どんだけ上から目線なんワタシ。

 

永遠に勝ち続けるのはムリだけど、そのために頑張る姿は、やっぱりカッコいいものですね。

アストロズで頑張る子供たちも(アストロズの人だけとは言わず)、そういう姿を見るとなんだか凄いなあって思うし、自分もがんばらないといけないなあと、最近自分勝手に思ってみたりしてます。

 

思ったんです。

ダーウィンの進化論をすごくわかりやすく言うと

 

「進化しないんだったら、消えてください。」

 

ということになりますよね。

中国女子の卓球は今や『プレーの男性化』でさえも時代遅れだと言われているような時代ですから、ほんとに大変な時代ですよねえ。

 

それで、今日はもりした何を書くのかなというとね、『チキータ』という技術についてです。

 

これ、実はぼくが現役のころはほとんど誰もやってなくて、けっこう珍しかったのね。

だけども今となってはトップ選手全てが当たり前のように使っていて、

『ほほう。最近の卓球は進化しとりますなあ。』などと感心するばかりなのであります。

 

世界トップクラスのチキータなんて、もうスピードが光の速さに近いというか

やられた方は軽くパニックになっちゃうくらいの速さになっちゃってるわけで、暴れん坊将軍なわけで、もはや。

 

僕が引退したのは確か2012年の冬なんですけどね

その頃チキータをうまく使う選手というのは、身近な人だとシチズン時計の軽部くんぐらいだった気がするんです。

 

だから個人的に、あいつはスゲースゲー言ってたんだけど、

今となってはトップ選手のほぼ全員が使えてるので、

『いやー今の若者はスゴイね。後世恐るべしだね』

とか偉そうに言っている昨今なのです。

 

それでこないだね、たまたま現役の子と練習する機会があって、

まーいっちょチキータをとってみようかということで、

はりきってチキータを打たせてみたんですよね。

 

華麗に打ち返してやろうと、なんなら軽くカウンターくらいしてやるぜくらいに思ってたんだけどさ

球が身体に突き刺さるんじゃねーかってくらいのスピードで、

しかも磁石でも入ってんじゃねえかってくらいの曲がり具合でボクの身体めがけて突っ込んできまして、結局

 

 

謎のストリートダンスみたいな動きしかできませんでした。

 

 

現役引退から約7年くらいたって、卓球はここまで変わってるのかとしみじみ思いましたけどね、

同時に過去の技術とか理論とか常識みたいなものって、ことごとく通用しなくなっていくんだなあと、

あらためて学んだのであります。

正しい身体操作

一時期、ぼくがトレーニングとか理学療法とか東洋医学とかについてやたらとマニアックにしていたのはほんのごく一部の人しか知らないことだと思うんですが、

これはぼく自身が「チョー健康になりたいっ!」とか「結果にコミットして2ヶ月で自分史上最高のカラダを手に入れたいっ!」とか、そういう理由でやってたわけじゃないんですよね。

 

この時ぼくが考えていたことというのは、どうにかこうにかこの知識うんぬんを卓球とかコンディションづくりに活かせないものなぁという、まぁそれなりにありきたりなことだったりするわけです。

実はこういう心境になったのにはワケがありましてですね、少し前にアストロズで子供達を教えていた時、台上プレーがやたらとできない子がいたんです。

 

相手のコートに入れるだけならまだなんとかできるんですが、何度やっても鋭い球が出ない。

たぶんその球じゃ何球打っても一撃でぶち抜かれますけどっていうような球しか出ないんです。

 

ぼくはラケットの動かし方もしっかり見本を見せていたし、その子はイメージだってしっかり頭に描けていたはずなんです。

でも、何度やらせても正直言ってうまくなっていく気が全くしなかったんですよ。

 

ただ、練習の後に彼と何気ない会話をしていてわかったことなのですが、彼は手首がふつうの人と比べて尋常じゃないくらい硬かったのです。

手首を持って反対側に反らすストレッチをしても、多くの人であれば大体90度くらいまで曲げられるところ、彼はほんのちょっとしか曲げられなくて、最初「ふざけてやってるのかな。」って思いました。いやいやいやと。それはないと。なんでやねんと。

 

とにかくそんな状態だったものですからね、まずは手首を柔らかくする為のストレッチとか手首を強くする為のトレーニングを教えて少し続けさせたとことろ、 これまたビックリするくらいいいボールが出始めたんですよ。

多分ですけど、あの手首の状態だったらどんなに沢山台上技術の練習をしても、ざるに水をドバドバいれてるのにちっとも水が溜まらないんですけどって言ってるようなもので、何年たっても威力のあるネットプレーは身につかなかったと思うんです。

 

その事がきっかけで、『ああ、技術を身につけるためにはある程度身体も正しい状態にしとかなきゃいけないんだな』って思うようになったんです。

そのできごとが、まーきっかけでした。

 

それでね、やっぱり何か複雑な動きをする為には基本的な動きがちゃんとできていなきゃいけないわけです。

例えば走ることと歩くことのどっちが方が基本的な動きですかって言ったらそれはもちろん「歩く」です。

ただボールを投げる動作とイチローのレーザービームのように ボールを投げる動作だったら、当然「ただボールを投げる動作」の方が基本的な動きです。

普通の呼吸と、腹圧を最大限に高めるような呼吸とでは、前者の方が基本的な動きになります。

ノーベル文学賞を取るような文章を書くことと、ひらがなが読み書きできることで言えば、後者が基本的な動きです。

微分積分を問題なくできることと、九九を暗唱できることで言えば、やっぱり後者が基本的な動きになります。

 

ほとんど全てのことにおいて、基本的な動きが「先に」あって、それがちゃんとできて初めて特殊な動きができるようになるというわけですよね。

 

 

これをかいつまんで言うと基本的な動きができなかったら、特殊な動作はもっとできない。

 

っていうことになるわけですね、当たり前のこと言ってますけど。

 

だからまずは基本的な動きのレベルをある程度のものにしとかなきゃいかんなあと思ったわけなのですはい。

卓球の技術だけじゃなくて、身体も、その身体をつくる食事なんかのことも、勉強していかなきゃなぁと思ったわけであります。

 

ということで、引き続き卓球の技術だけじゃなくて体の動かし方とかメンテナンスとか、トレーニングとかそういうことも、勉強していきたいなあと思っているんですの。

そんなわけで、最近は書店でよさげな本を見つけては手にとって、見つけては手にとってをくり返しています。