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卓球王国ストーリ-

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 1997年1月に創刊した卓球王国。
 そこで様子を探りながら、第2号は3カ月後の4月に発売された。表紙は可愛い「愛ちゃん」こと8歳の福原選手。目玉は全日本チャンピオンの岩崎清信選手(当時日産自動車・現タマス)のインタビュー。
 岩崎選手は圧倒的なパワードライブで1996年12月の全日本選手権男子シングルスを制覇。
 「拉致事件」のあった宮崎での日本代表合宿で、インタビュー用の撮影を行う。場所は選手の宿泊しているホテルだった。撮影用に一部屋借りた。しかも、上半身裸の筋肉隆々の岩崎選手を高橋和幸カメラマン(本誌前発行人)が気合いを入れて撮影した。

 ところが、撮影を進めているうちに、撮影だけでなく照明器具も加熱していった。ディフューザーというストロボを使っていたのだが、ストロボ熱で器具を覆っていた布が発火してしまったのだ。
 撮影中の岩崎選手も「高橋さん、燃えている、燃えている」と叫んでいるのだが、ストロボを背にしている高橋カメラマンは燃えているのがわからない。本人は撮影で燃えているのだから……。
 そのうちに煙が出て、ホテルの火災報知器が反応し、ホテルに警報が鳴り響いた。

 同行していた今野(編集長)は電源を切り、高橋は燃えているディフューザーを持って洗面所を駆け込む。
「なんかあったのか?」と選手や他の宿泊客が廊下に出てきたのだが、「大丈夫です、なんでもありません」と裸の岩崎選手が走りながら謝る。
 岩崎選手はなんて良い人なんだ!

 結果、「燃えた撮影」のおかげで卓球雑誌としては、それまでにない迫力のあるインタビューページが完成した。もちろん、掲載された写真は燃える前に撮影されたものである。
  • 岩崎選手のヌード(上半身のみ)の写真。「事件」はこの後に起きた

 97年世界選手権マンチェスター大会の前の、日本代表合宿が宮崎で行われ、取材に赴いた。
 当時、男子監督は佐藤真二氏(現在日本リーグ専務理事)。実は今野編集長と佐藤氏は同じ「青卓会」という荻村伊智朗氏が主宰するクラブで汗を流した仲間(佐藤氏のほうが相当に強かったのは言うまでもない)で、彼は空港まで迎えに来てくれた。
 そして、運動公園内の小さな体育館で行われていた男女一緒の合宿の様子をひとしきり取材して、休憩時間になっていた。スタッフや選手たちは、卓球王国創刊号で今野が小山ちれ選手の試合ぶりを批判していたのを知っていた。
 まさにその時に、小山選手が50メートル先のほうから、我々がいるほうを見て、手招きしているではないか。「誰かを呼んでいるよ」とみんなで言いながら、スタッフではないらしい。誰かが「あれ、今野さんじゃないの?」と言った。
 まさかと思いながらも、自分で指さし「おれ?」と聞いたら、コクンとうなずく女王様。

 佐藤監督を含めスタッフは全員下を向いてクスクス笑っている。みんなの想像はひとつだった。「絶対、あの記事のことを怒られるんだね」
 今野は意を決して、女王様のほうに歩いていく。条件反射的に右手にはカメラが一台。武器になるだろうか……。
 女王様の目の前に行くと「ちょっと話があります」と、ぎごちない日本語で言われ、「あの部屋に行きましょう」と体育備品室を指さされた。鉄の扉を持つ個室だ。「変なことはされないだろうな」と一瞬思いながらスタッフのほうを振り向いたら、みんなは思いきっり笑っていた。冷たい連中だ。

 部屋に置かれていた体育用のマットの上に座らされた今野。次の女王様のひと言を待っていた。しばしの沈黙……。
「あの、卓球台を安く買いたいです」
「?」
「だから安く買えるでしょ?」
「?????」
「私、バタフライの卓球台ほしいです」
「あああっ……」
 言葉にならない。今野は卓球レポート、タマスの人と勘違いされたのだ。
「いや、私は卓球王国という雑誌の人間なので……もし必要ならタマスの人を紹介しますよ」
「わかりました。よろしくお願いします」

 ホッとした。正直。
 でも、女王様は卓球王国を読んでなかったことが判明。それも残念だ。
 鉄の扉を開けて、恨めしそうにスタッフのほうを見たら、一様に「意外と早く終わったな」という顔で笑っていた。
 「卓球台が欲しいと言われたよ。タマスの人と勘違いされた」と言うと、みんなイスから転げるくらいに笑ったのは言うまでもない。
  • 創刊号での全日本選手権の報道ページ

  • 女子チャンピオンのインタビューは創刊2号で掲載した

 1997年1月の卓球王国創刊号。いろいろな意味で衝撃のデビューだった。雑誌の作り方も従来の専門誌とは一線を画した。
 創刊号では、12月の全日本選手権のカラー詳報が報道ページのメインだった。その中で、今野編集長が男女のシングルスの総評を書いた。
 女子シングルスでは元世界チャンピオンの小山ちれ選手が圧勝。壁のようなブロックと正確な両ハンドで他を寄せ付けない内容だった。
 しかし、彼女の試合ぶりでチャンピオンらしからぬ行為があった。それは、相手のミスした時やサービスミスなどでも「ナイスボール」を連呼していたことだ。

 2013年12月号で本誌は「フェアプレーとは何だ」というテーマを取り上げたが、まさにチャンピオンにふさわしくない試合態度に見えた。それはこの大会の時だけではなかった。誰かが注意すべきだったが、相手は何せ「女王」様だ。

 そして今野は総評でこう書いた。
「その強さは素晴らしいの一語に尽きるのだが、自ら奮い立たせるためとはいえ、相手のミスに対して『ナイスボール』と連呼する試合ぶりに、観客の一部には首をかしげる人もいた。チャンピオンの影響力の大きさを考えると、卓球の強さだけでなく、試合におけるマナーもチャンピオンにふさわしいものであってほしいと願う」

 それまでの専門誌では、選手をほめることはあっても、「注意を与え、喚起させる指摘はしない」という不文律のようなものがあったために、創刊されたあとにいろいろな人に「ああいうことを書いて、選手や母体に文句を言われたなかった?」と聞かれた。

 そして、「あの事件」はそれから2カ月後の3月。世界選手権前の日本代表宮崎合宿の時に起こったのだ。
<続く>
  • 創刊号でチャンピオンの試合ぶりを批判

 卓球王国20号ではとんだハプニングが起きた。
 時効と言うことで、15年前の出来事の真実を書いてみよう。
 1998年当時、全日本チームの監督はスウェーデン人だったが、「日本の強化は日本人がやるべし」とその人事に強硬に反対する勢力があり、その中枢にいた人を卓球王国が「突撃インタビュー」。

 もちろん、その人は指導者としての実績もある立派な人だった。日本卓球への熱い思いを語りつつ、内容は外人監督批判に集中した。「こんな過激なことを書いてもいいんですかね?」と確認すると「本当の気持ちだから」と男気もあった。そして、その言葉をそのまま原稿にして、本人のOKもいただいた上で掲載、のつもりだった。ところが、編集長のミスでその原稿が出回り、なんと11月の日本卓球協会の理事会でそのコピーが配布され、その人の過激な発言が問題視された。

 当時の協会の専務理事が土曜の午後の理事会の途中で卓球王国に電話をかけてきた。
「あの原稿を今からストップできないか」(専務理事)。
「う〜ん、無理ですね。もう印刷してますから」(編集長)。
「印刷をやり直すとどのくらいかかるんだ」(専務理事)。
「1千万円を越えるような金額ですよ」(編集長)。
「そうか・・・わかった」(専務理事)。
 実際には、当時のページ数と部数では1千万円はかからなかった。それに実はその日はまだ印刷してなかった。最後の校正をしている最中だった。間に合ったのだが、原稿の修正に応じたくなかった。発売前に原稿が流出したのは編集長のミスだったが、インタビューされた本人も原稿を確認しているので掲載したかった。
 発売されたあとも「あのインタビューすごかったね」と会う人ごとに言われたし、「卓球王国は監督の味方でしょ」とインタビューした人にも言われたし、他の人にも言われた。もちろん、その監督が行っていることがダメなら反対するだけのことだったが、日本の卓球の改革をしてくれるという思いもあった。
 ところが、それから1カ月後の12月の全日本選手権では、「卓球王国の今野編集長が日本卓球協会に、『印刷をやり直すなら2千万円出してくれ』と言った」という噂が流れた。ある人は2千万円ではなく、「3千万円、協会に要求したの?」と聞いてくる始末だ。まるで「協会を恐喝」したかのような噂だった。

 人の噂には尾ひれ背ひれが付くとはよく言ったものだ。
 「次期強化本部長か」と言われていた人の協会内人事は、あえなく見送りとなった。この頃、卓球王国は卓球界の中で認知されつつあった。「何か過激なことをやりそうな、今までにない卓球雑誌」として。
 一方で、それまで仲良くしていた人とも気まずい思いになってしまう、という代償を払い、また発売後にその人の団体組織に呼ばれ「なんで事前に情報が流れたんだ」ときつい叱責にも耐えるしかなかった。
 <続く>
  • 協会人事にまで影響を与えた20号

 ソフトテニスやバドミントンの配本データを参考にされた「卓球王国」は「すぐに月刊化」のはずが、返本が多く、実売数が上がらない。
 もともと資本力がなかったために、宣伝もできずに負のスパイラル(連鎖)に陥っていた。

 昔のeBook(電子版)を見てもらうとわかるのだが、27号までの2年半は「○月号」を表記できずに、たとえば「27号・1999年6月発売」となっている。
 これは書店で流通させる時にまだ卓球王国は月刊誌として認められていなかったのだ。そして、「スキーグラフィック」の別冊コードを使っていたが、ここは4号で終わり、「卓球王国さんには悪いけど、うちも別冊を出すから」と発行元のノースランド出版社から言われ、ピンチ。
 また他の出版社の軒先・・・別冊コードを借りるしかない。そこで間に入った大手印刷会社が探してきたのはなんと骨董品を扱う「月刊目の眼」という雑誌の別冊コードだった。

 毎月の出版は確保されたが、卓球王国はアパートを借りてお店を経営しているようなもの。毎月、家賃(営業経費)を払って、自分の好きなように営業はできない。
 取り次ぎ会社(東販、日販という大手など数社)に「月刊コード」の申請をすること数度。そのたびに「もう少し数字が良くないと・・・」と断られた。その間に「卓球温泉」という映画もあり、そのプロモーション(宣伝)をかねて、またその機に乗じて、月刊コードを申請するもあえなく沈没。そんなことをしながら、ようやく月刊コードを取得できたのは28号目、1999年7月発売の号からだった。表紙には「月刊誌、創刊!」とうたっている。

 毎月、地道に実売の数字を積み上げた結果を評価されたのだ。この「月刊コード」というのは、雑誌として認可される証拠であり、相撲の年寄株に似ている。大手出版社が出す雑誌は「はい、どうぞ」とすぐにコードがとれるのだが、小さい出版社は発行してすぐにつぶれては流通が困るという理由でなかなか雑誌コードを出さないのが常だ。
 この号の表紙を飾ったのは愛ちゃんこと、福原選手。縁起の良さを重んじたのだが、一般の方は「今まで20冊以上出して、なんで今頃、月刊誌、創刊なの?」という声もあがった。
 それにしても、1997年1月の創刊から長い長い2年半の道のりだった。
<続く>
  • 月刊誌、創刊!と表紙に入っている28号、1999年9月号

 1997年1月に創刊された卓球王国は、月刊ではなかった。1月は様子見の1冊だった。
 雑誌を書店に流通させる「取り次ぎ会社」にあいさつに行った。「卓球の雑誌? うーーん、大丈夫ですか」。相手をしてくれた担当の人は明らかになめていた。「卓球の雑誌って、データがないですね。いつ出したんですかね」。パソコンの画面を見ながら……なめている。

 それもそのはず、実は書店売りした卓球雑誌は1985年にベースボールマガジン社から「卓球マガジン」が2年間だけ出して、休刊となっていた。今見ても、「卓球マガジン」はそれまでの卓球専門誌とは一線を画した雑誌だったが、休刊。
 理由は諸説あるが、ベースボールマガジン社と当時の日本卓球協会との不協和と、スポンサーの集まりが悪かったためと言われている。この「卓球マガジン」は日本卓球協会公認(オフィシャル)の専門誌で、協会情報も多かったのだが、ベースボールマガジン社の当時の社長の一声で休刊が決まったと言われている。
 確かにスポンサーも集まらなかった。なぜかと言えば、当時は卓球レポート、ニッタクニュース、TSPトピックスという卓球メーカーの専門誌が刊行されていたために、ある種敵対視された感があったのも事実だ。

 専門誌というのは、というか書店売りの雑誌というのは、広告掲載料が入ってこないと存続が難しいのが現実なのだ。
 「卓球マガジン」が休刊してから10年以上経ち、取り次ぎ会社のパソコンの中にはそのデータさえもなかった。ただあるのは「卓球の書店売りの専門誌は売れない」というイメージだけだ。
 そんな状況で、書店に配られる卓球の雑誌データ(配本データ)がないために、取り次ぎ会社が持ち出したのは、ソフトテニスとバドミントンだった。特にソフトテニスのデータを参考にして全国に数万部が配本されたが、思うように売れない。会社は、瞬く間に返本の山となった。毎日、何十冊の返本が届けられる。
 卓球の登録人口が少ないという北陸のある書店に卓球王国が何十冊も平積みされていた話も聞いた。おそらく、その地域はソフトテニスが盛んな地域だったのだろう。

 現在、サッカーなどメジャーと言われるスポーツをのぞくスポーツ専門誌の中ではトップランクの部数を誇る卓球王国にとっては、今となればそれは笑い話なのだが、当時は返本に囲まれながら、編集部はその配本データの実態さえも知らないでいた。 <続く>
 卓球王国が創刊したのが1997年1月。
 勢いだけで、しかもすぐに月刊化され、出版社としてスタートできるという、今思えば無謀な出発だった。
 それから16年が経った。某有名な印刷会社を使ったのだが、信用されていないために業界では珍しく、出来上がったら即刻の現金払いを要求される始末。しかし、今となっては自分が印刷会社の立場だったら同じことをするだろうなと思う。

 知っている人もいるだろうが、卓球王国創刊の頃は出版元は「ノースランド出版」社で、ここは元々スキーグラフィックという月刊誌を出していた会社。印刷会社の口利きでこの会社の「別冊コード」で卓球王国は創刊した。

 書店売りの雑誌は、流通させるためには取り次ぎ会社というところを通さないと通常、全国の書店には置かれない。しかし、その取り次ぎ会社から流通させるためには、雑誌には「雑誌コード」、それに取引するには「出版コード」が必要。
 そして、卓球王国はどちらも持っていなかったために、ノースランド出版の軒先を借りた形で出版となった。しかも……
「いやー、数字を出せばすぐに雑誌コードを取れるから」と某印刷会社の人に言われ、スタート。しかも、別冊コードというのは月刊誌(毎月)の間に1冊しか出せない。
 数字が出せず、かつノースランド出版も別冊を出す時期が来たために、卓球王国は初期の頃、休む月があった。というか毎月出せなかったのだ。
 書店売りの卓球雑誌を出す! と張り切っていたのに、創刊して半年も経たないうちに(株)卓球王国には暗雲が立ちこめていた。今にも大雨が降りそうな予感を伴って……。
<続く>
  • 1997年1月に創刊された卓球王国