スマホ版に
戻る

速報・現地リポート

トップニュース速報・現地リポート

世界選手権広州大会(条太の広州ぶるるん日記)

じたばた

2008/02/20

 まだ火曜か。今週は長い。こっちは床屋に行って、スーツも新調して、もうカバンには航空券やらパスポートやら入れてあるのだ。仕事だと前日の夜にしか準備はしないが、なにしろ世界選手権だ。しかも中国。

 しかし準備は早ければよいというわけではない。これに関しては苦い思い出がある。2001年の6月にドーサンに何度目かの出張に来たときのことだ。カバンには3日も前からパスポートを入れてあり、成田まで来たのだが、なんと古い無効になったパスポートを持ってきていたのだ(パスポートを出す前に「あっ。大きい奴、入れてる」と気づいたところが我ながら面白い。どうして出す前に気づくことを3日も気づかなかったのか)。それで、電話で上司に怒られてその日は仙台に戻り、翌日また成田まで行ったのだった。さすがに仙台成田間の交通費は自分で出した。

 職場ではかなりバカにされたのだが、バカにされたのは、単にパスポートを取り違えたからだけではない。それには理由があったのだ。実は、出張の前の週に、若い頃の写真を皆に見せて驚かせようと、古いパスポートを持ってきて見せていた経緯があるのだ。だから、私の課のメンバーは失態の原因がすぐにわかり「あーあ、あんなことしてるから間違えてやんの」と思ったというわけだ。これは恥ずかしい。

 このとばっちりを食ったのが、一緒に出張することになっていたYさんだ。Yさんは始めてのアメリカ出張だったのだが、私が一緒にいるのですっかり安心しきって全身の毛穴が開いていた(想像な)。ところが成田でいきなり私が行けなくなり、突然そこからひとりで行くことになったのだ。それですっかり気が動転したまま飛行機に乗り込み、お土産どころか1ドルも持たずにドーサン空港に降り立ち、現地で待っていた上司にこっぴどく怒られるという目にあった。私も慌てて短時間でYさんに乗り継ぎのやり方やら入国の仕方やらいきなりすべてを教えたのだが、なにしろ本人も動揺しているが実は私も激しく動揺しているのでどうにもならない。まあ、今となっては良い思い出だ(Yさんは恨んでいるようだが私は気にしない)。

 義姉にこの経緯を話すと「成田でパスポートを間違えたことに気づいたところを想像しただけで心臓が苦しくなる。よく平気にしてるね。」といわれたが、平気ではない。仕方がないだけだ。

 というわけで今回は万全を期したい。
 卓球を始めた中学生の頃から、世界選手権に対する異様な憧れをもっている。地理や歴史の年代と地名はさっぱり覚えられないのに、世界選手権の開催年と開催地、男子シングルスのチャンピオンは覚えようとしなくても覚えてしまう。ヒマで、しかも読む本がないような、どうしようもないときなど、それらを復唱したり紙に並べて書くだけで楽しいのだ。時刻表を見るだけで楽しい鉄道マニアと同じである。ここでそれを披露しておく。

1952年 ボンベイ     佐藤博治
1953年 ブカレスト    シド
1954年 ロンドン     荻村伊智朗
1955年 ユトレヒト    田中利明
1956年 東京       荻村伊智朗
1957年 ストックホルム  田中利明
1959年 ドルトムント   容国団
1961年 北京       荘則棟
1963年 プラハ      荘則棟
1965年 リュブリアナ   荘則棟
1967年 ストックホルム  長谷川信彦
1969年 ミュンヘン    伊藤繁雄
1971年 名古屋      ステラン・ベンクソン
1973年 サラエボ     希恩庭
1975年 カルカッタ    イストバン・ヨニエル
1977年 バーミンガム   河野満
1979年 ピョンヤン    小野誠治
1981年 ノビサド     郭躍華
1983年 東京       郭躍華
1985年 エーテボリ    江加良
1987年 ニューデリー   江加良
1989年 ドルトムント   ヤン・オベ・ワルドナー
1991年 幕張       ヨルゲン・パーソン
1993年 エーテボリ    ジャン・フィリップ・ガシアン
1995年 天津       孔令輝
1997年 マンチェスター  ヤン・オベ・ワルドナー
1999年 アイントホーヘン 劉国梁
2001年 大阪       王励勤
2003年 パリ       シュラガー
2005年 上海       王励勤
2007年 ザグレブ     王励勤 
(2003年から団体戦と個人戦を分離開催で、今年は団体戦)

決勝の相手、団体優勝も分かるが、くどくなるのでやめておく。こうしてリストを見ているだけでさまざまな歴史が思い浮かんで武者震いしてくる(またインフルエンザじゃないだろうな)。
彗星のように登場した日本、その後の荻村と田中による4度の覇権争い、そして59年の容国団の優勝から始まる中国の台頭。前人未踏の荘則棟の3連覇。70年代のヨーロッパの復興、それに食い込む、河野、小野。81年に日本が全種目で初めて無冠になったとき、どこかのメディアに「日本はKONOがONOになってNOになった」と書かれたことに胸を痛めた。80年代の中国速攻の壁を崩したワルドナーを筆頭とするヨーロッパの再々復興。団体戦で負けて決勝のベンチから外されて、その屈辱からシングルスで優勝した王励勤。パリでのシュラガーと朱の信じがたい決勝戦。この後も卓球は過去のようなドラマが生れるのだろうか。頼むから私の前で生れて欲しい。卓球の神様に祈ろう。
 まるで世界選手権に出たようなタイトルだが、そうではない。これまで日本で見た卓球の世界選手権の思い出だ。はやる気持ちを鎮めるため、この25年を静かに振り返ってみた。

【1983年東京大会】
大学2年のとき、高校のOBたちと見に行った。覚えているのはヨニエルが禿げていたこと、選手のサインをもおうと裏のほうから入っていったら会場に出てしまい、入場料を払わずに入れたこと。どっかの国の知らない女子選手にサインをもらって写真を撮ったこと。

【1991年幕張大会】
結婚した直後ぐらい。会場で戸田、田村と落ち合ったが、田村が雨でずぶぬれになって会場に現れたのが印象的だった。それまでビデオで見ていた外国での世界選手権にくらべて、観客が静かで興奮ができなかった。8ミリカメラを持ち込んで11本のテープを撮影した。会場でデモされていたリフックススポーツ社のスーパープレイ集ビデオに目が釘付けになって以来、彼らの大ファンとなる。

【2001年大阪大会】
大会の前半にスポーツ科学会議があり、そこで卓球の魅力を表現できるテレビ撮影の仕方について発表した。肝心のシャララ会長が途中からいなくなったので残念。元世界チャンピオンたちとのパネルディスカッションにも参加し、当時ニッタクにつとめていた戸田の隣が空いていたので座ったが、私であることに気づかなかった(ニッタクの方ですか、と話かけてもまだ気づかないのだ)。この頃から私の容貌が劇的に変わったと妻は言う。私も「自分のことがわからない人の顔色」に敏感になる。その後一度仙台に戻り、大会後半に、子育ての分担上5歳の長男を連れて再び見に行った。タマスの辻さんにアイスクリームをご馳走になる。やはり観客が静かで盛り上がらない印象。

 今回は中国なので、さぞかし物凄い騒音なことだろう。もし中国が負けそうにでもなろうものなら、もう観客は怒号渦巻くことだろう。できればそういうシーンを見たいものだ。
 いよいよ2/24から世界卓球選手権が中国・広州で開催される。私は日本以外の国での世界選手権を見に行ったことはないが、今回、はるばるアメリカから見に行くことにした。日本にいるときは、上海にも天津にも見に行く気にならなかったのに、今回行く気になったのは、やはり卓球に飢えているからだろうか。

 日本からなら片道5時間ぐらいで、時期によっては成田から往復で1万円とか2万円のツアーがあるようだ。いったい何の値段かと思う安さだ。そんなに安いんなら今までバンバン行っていればよかった。日本の皆さん、今からでも行った方がいいよ。

 今回は、ドーサンから広州まで37時間かけて行く。37時間といっても、アトランタで一泊するからで、その分を除くと24時間ぐらいだ。ドーサン空港からはアトランタ行きしかないので、それでアトランタに行って一泊する。翌朝9時にアトランタを発って、デトロイト空港で乗り換え、成田まで。成田で乗り換えて広州だ。広州には24日(日)の夜10時ぐらい着となる。

 初めは、時差ぼけで眠ければ寝たりすればいいやと気楽に考えていたのだが、結局、卓球王国の取材陣として参加することになった。それでこのブログも設置され「大会前のそわそわ感を書いてくれ」とのことだ。あんまりそわそわしている様子を書くと、同僚も読んでいる手前、仕事が手についていないと思われる(その通りなんだが)のも困るので、加減が難しい。だいたい、飛行機に乗るまでは、そうそわそわしないもんだが、こんなブログを書いていると、なんだかどんどんドキドキしてくる。

 今回の観戦は、連載のネタにもなるだろうと思って行くことにしたのだが、大会の後に発売される雑誌で、いつもの連載とは別に2ページの観戦リポートを書けと言われた。トホホ、全然ネタのストックにならない・・。大会中は数時間おきにブログをアップしまくるつもりだが、雑誌の分までネタが尽きそうだ。いざとなればこのブログを一行おきにコピーペーストしてやれば一丁あがりだ!