1997年に日本のナショナルチームチームの監督に就任した初の外人監督、ソーレン・アレーン氏。
高校・大学・日本リーグという各カテゴリーにおける縄張り争いと、一貫指導ができないもどかしさと、卓球右翼からの激しい抵抗。
1999年5月の新宿サンルートホテルの喫茶店で、インタビューをするつもりが「オフレコ」と言われ、スイッチを切られた。
「今野さん、実はぼくはナショナルチームを辞めることになった。日本を離れるよ」。それまで、度々食事をしたり、居酒屋に行っていた間柄。日本の卓球界では、英語でコミュニケーションを取れる人が少なく、アレーンの息抜きのように会っていたのだが、「まさか」と思いつつ、「やっぱり」という思いもあった。
スタート時は、高島規郎さん、前原正浩さんと一緒にトロイカ体制で日本を改革しようとしたが、前原さんは離れ、高島さんも辞任に追い込まれていた。アレーンの周りで残ったのは、スウェーデン語を話す協会の国際局の横田幸子さん(元全日本チャンピオン)くらいだった。当時の強化本部長は風見鶏のように方針を変え、アレーン監督に協力しない状況が続いていた。
アレーンがやりたいことがあっても何もできない状態に追い込まれていた。一方、選手はようやく彼の人柄ややり方に慣れ、信頼を築き始めていたのは何とも皮肉だった。
「辞めるけれどもS専務理事に、マスコミや選手にも公表しないでくれと言われた」と苦しそうに語るアレーン。「なんで、辞める準備は君も選手も必要だろう? おかしいだろ」と今野。
「ぼくもそう思ったから、専務理事には、日本卓球協会も次の準備をする必要があるから、公表すべき、と言ったんだがダメだと言われた。8月のアイントホーヘンでの世界選手権で選手やスタッフに言うつもりだ」
また、これか。
協会、とりわけ専務理事は体面を気にして、強化のことを考えていない。こうやって次々に強化の現場の人間が変わり、そのたびに人事もすべて変わり、良い方法も継承されないのだ。だから日本の強化にはつながりがない。
「わかったよ、ソーレン。約束するよ。君も苦しいな、誰にも言えないのは。ひとつだけお願いがある。次の世界選手権の直後の卓球王国にはその記事を載せるよ。それはいいね?」
「わかった」
それから数日後に彼と東京・吉祥寺の居酒屋で飲んだ。飲みながら
「苦しいよ。みんなはまだオレがまだやるつもりで先のことを話してくる。おれは選手にも協会の事務局の人にも、スタッフにも嘘をつきながら8月まで過ごすんだ」
その日、泥酔したアレーン。そんなに酔う彼を見たのは初めてだった。タクシーに乗せ、あのでかい体を背負って、武蔵境にあった彼のマンションに連れて行った。
最後のアイントホーヘン(オランダ)での世界選手権はそれから2カ月半後にあった。
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