中国卓球人国記は黒龍江省・吉林省・遼寧省という「中国東北部」を離れ、今回は首都である北京市を紹介する。出身選手について紹介していく前に、まずは北京市と卓球というスポーツの関わりについて取り上げたい。……小難しい長文になってしまいますが、しばしお付き合いを願います。
この北京市の中心部にある世界遺産「天壇公園」の東側に、体育館路という一本の道路がある。800mほどの短い道路だが、その両側には国家体育総局、中国オリンピック委員会など、中国のスポーツ機構の中枢が集まっている。国家卓球チームが練習する国家体育総局・訓練局(ナショナルトレーニングセンター)の卓球場や、選手たちが暮らす国家チーム専用の選手寮『天壇公寓』もここにあり、中国代表選手の練習拠点として機能している。中国卓球協会の広報誌『ピンパン世界』も、国家体育総局の下部組織である中国体育報業総社のビルにオフィスを構えている。
様々なスポーツのトレーニングセンター、スポーツ用品店やスポーツに関する書籍を扱う書店が立ち並ぶ体育館路。筆者もずいぶん昔、邱鐘恵さんが創業した『邱鐘恵体育用品商店』を訪れるため、この体育館路に足を運んだことがある。邱鐘恵さんは1961年に北京市で行われた第26回世界卓球選手権北京大会で、中国女子初のシングルスチャンピオンとなった中国卓球界のレジェンド。そして北京市と卓球の関わりを振り返る時、欠かせないのがこの世界選手権北京大会だ。
北京大会が行われる7年前、建国から間もない1954年にIOC(国際オリンピック委員会)に加盟した中国。オリンピックを中国の威信を示す「国威発揚」の舞台にするため、国内大会では陸上や重量挙げの世界記録が次々に更新され、各競技で強化が進められた。しかし、中国(中華人民共和国)と同時に台湾(中華民国)もIOCに加盟したことで、いわゆる「ふたつの中国問題」が発生。台湾の除名を求める中国に対し、IOCのアベリー・ブランテージ会長は「オリンピックは政治を語る場ではない」と要求を拒否し、中国は加盟からわずか4年後の1958年にIOCを脱退。陸上・水泳・サッカーなど8つの国際競技連盟、そしてアジア卓球連盟からも脱退し、国際スポーツ界から孤立していく。
中国が加盟を続けた国際競技連盟は、卓球・バレーボール・アイスホッケー・スケートの4つのみ。ITTF(国際卓球連盟)ではイギリスの共産党員でもあったアイボア・モンタギュ初代会長が中国と密接に連絡を取り、台湾(中華民国)からの度重なる加盟申請を否決していたため、「ふたつの中国問題」が発生しなかった(現在はチャイニーズタイペイとしてIOCやITTFに加盟)。
陽の光が差すほうへ芽が伸びていくように、中国は卓球というスポーツで成績を伸ばしていく。先に国際大会で成績を残していた香港から、52年世界男子団体3位の傅其芳・姜永寧、さらに容国団を中国に招聘。容国団は59年世界選手権ドルトムント大会の男子シングルスを制し、中国に初の世界タイトルをもたらした。中国はソ連(ソビエト連邦)との「中ソ対立」によって、スポーツ大国であるソ連との「ソ連ルート」が下火になっていたが、卓球では「香港ルート」が大いに活用された。
そして59年ドルトムント大会でのITTF総会で、1961年第26回世界卓球選手権の北京市での開催が決定。建国以来、初の世界的なスポーツイベントの開催に向け、中国全土で集合訓練と選抜リーグが行われ、1960年12月に108人の選手を初代国家チームメンバー(108将)として北京市に集めた。当時、中国は毛沢東による急進的な社会主義政策「大躍進政策」の失敗により、数千万人の餓死者を出す未曾有の国難に見舞われていたが、国家チームの選手たちには十分な食糧が与えられた。邱鐘恵が合宿所から外出した際、飢えた市民たちが食糧の代わりに木の葉を摘んでいるのを見つけ、「木の葉が食べられるの?」と尋ねて笑われたという逸話を自伝に記している。
突貫工事で建てられた北京工人体育館(収容人員15,000人)は、観客を2回入れ替えながら連日超満員。毎日4万5千人の観客が入ったことになる。中国チームは観客の大声援をバックに、男子団体と女子シングルスで初優勝するなど、7種目中3種目を制した。先日亡くなられた星野展弥さんの連続ロビングを、徐寅生が連続強打でついに打ち抜いた「十二大板」など、数多くの名勝負や逸話が生まれ、国威発揚の最高の舞台となった。中国の現代スポーツ史において、61年世界選手権北京大会は重要なトピックスのひとつだ。
世界選手権北京大会から10年後、第31回世界選手権名古屋大会で展開された中国とアメリカの「ピンポン外交」では、翌72年にアメリカ選手団が北京市を訪問。中国の建国後、初のアメリカ人による公式訪問となった。それに前後する形で、中国は国連への復帰(71年)、IOCへの再加盟(79年)など国際社会への扉を次々に開いていった。
世界選手権北京大会とピンポン外交は、卓球が中国の「国球(国技)」と呼ばれるようになった二大要因と言っても過言ではない。競技スポーツに「為外交服務(外交に奉仕する)」と「為祖国争光(祖国のために栄光を勝ち取る)」というふたつの任務が課せられている中国。首都であり、政治の中心である北京市は、卓球というスポーツを通じて国際政治の檜舞台となる「宿命」を背負っていたのだ。