顔を近づける人の話

以前、職場にYさんという上司がいたのだが、この人、誰が見ても異常な特徴があった。人と話すときに異常に顔を近づけるのだ。耳が遠いわけではない。ただのクセなのだ。しかも唾がビュンビュン飛ぶ。その人と歩きながら話すと、逃げる相手をYさんが追うので、二人で曲がって歩くことになる。それが廊下なら壁に追いつめられるだけで済むのだが、街の舗道を歩いているときなど、舗道の端ぎりぎりまで追い詰められて、あわや車道に落ちそうになるほどだ。さすがにこれらのことを本人がどう考えているのかは話したことがないのでわからない。

私はYさんと隣の席だったのだが、初めて彼と話したとき、顔を異様に近づけるので、てっきり内緒話をするのかと思ったが、そうではなかった。あるとき、Yさんがいないときに課員でそのことについて話し合ったことがある。彼は、距離が近ければ近いほどいいのか、それとも他人よりも短いだけで、彼なりに最適距離があるのか、という問題だ。なにしろ、誰も彼が満足するまで近づいたことがないのでわからないのだ。そこで、彼と面対称の動き、つまり間に鏡があるごとく、彼が近づいたらその分だけ近づいてみようということになった。それで実際に試してみた。彼が近づいたとき、待ってましたとばかり顔を突き出してやると、彼は極めて不快そうに顔を引いた。つまり、彼にも最適距離があったのだ。何か動物の習性をひとつ解明したような満足感を覚えたものだった。

似たような性向の奴が学生時代の後輩にも一人いた。不思議なのは、中ぐらいの人がいないことだ。異常に顔を近づける人はいるのに、ほどほどに近づける人というのがいない。もしこれが遺伝子によるものだとするなら、それが生き残ったメカニズムはどのようなものだろうか。顔をぎっちりと近づけて話し合うことによって仲間の体調が分かるメリットがあったとか、あるいは単に近眼だったのだろうか。4,5人の原始人たちがYさんのように全員で顔を近づけて話している姿を想像していると、なんだか気持ちが悪くて楽しい。