月別アーカイブ: 4月 2014

N線事件

科学の歴史の汚点のひとつにN線事件がある。

ある科学者が新しい放射線としてN線を発見したのだ。これをある条件で火花に当てると輝きが増すのだという。当時はその輝きを測定する方法がなかったので、人間が目で見て判断をしていた。それが発表されると「自分も確認した」という科学者が続出し、300もの論文が書かれたが、ある科学者がどうしても再現できず、N線の発見者のところに出向いて実験をしてもらった。そこで実験者に内緒でN線の通り道に障害物を置いたり外したりしたところ、実験者が感じる火花の輝きは、まったくの思い込みによるものであることがわかったのだという。その公表によってN線は存在しないことがわかり、人間の思い込みの危険さが記憶されることになった。しかし当の発見者だけは生涯N線の存在を信じ続けたという。

現代でも、新薬を評価するときには患者の半数に偽の薬を与え、患者にも診断をする医者にもどの患者が偽の薬が与えられたかがわからないようにする二重盲検法によって薬の効果を判断する。思い込みによる影響を排除するためだ。

科学者や医者でさえそうなのだから、オカルトがかった芸術家たちが思い込みの影響を受けないわけがない。受けるに決まっているのだ。その思い込みは300年以上という時間と高額な金をも費やすほどだ。ブランドテストによって差がないと証明された後でもなおストラデイバリウスの価値が揺らいでいないことがそれを証明している。論理的思考をする科学者ならこういう証明をされたら考えを変えるが、芸術家は論理よりは思い込みの方が勝って、信念が変わらないのだろう。また、それほどの思い込みがなくては一流になどなれないのだ。スポーツ選手も同じである。

なので、我々外野は、社会や自分自身に無害な思い込みは放っておいて、害が及ぶときだけ「それは思い込みだから違う」と指摘するしかないのだろう。

ストラディヴァリウス〜魔性の楽器 300年の物語

昨晩、NHKスペシャルでストラディヴァリウスの番組を見た。昨年11月に放送された58分の『ストラディヴァリウスの謎』に、未公開映像を追加して作った89分の豪華版だ。

これがとても面白く久しぶりに知的興奮を覚えた。何が面白いって、前回よりも科学的な計測やヴァイオリン製作者やヴァイオリニストが沢山でてきていろいろと調べたりストラディヴァリウスへの愛情を語ったのだが、前回このブログでも取り上げた「ヴァイオリン製作者と専門家がストラディヴァリウスと他のヴァイオリンのブラインドテストをしてもさっぱり当たらない」という、もっとも重要な、ストラディヴァリウスの謎の根幹にかかわる部分がすっぱりと削除されていたことだ。こんなに面白いことがあろうか。

新たに加えられていた映像にも素晴らしい話があった。「希代の天才ヴァイオリニスト」と言われるマキシム・ヴェンゲーロフという人の話だ。彼はストラディヴァリウスを使っているのだが、あるコンサートのときに愛器の音が思ったような音が出なくて苦労したという。ところが休憩時間に母親がその愛器に何かを囁きかけると、驚くべきことに後半は最高の音を出したのだという。囁きかけて楽器の状態が変わるはずはないので、彼の弾き方が変わったのか、あるいは出ている音は同じなのに彼の感じ方が変わったということである。同じ日に同じ楽器を弾いて楽器に対する評価が変わるのだから、演奏の再現性がないにせよ音の感じ方の再現性がないにせよ、いずれにしても、彼には「楽器の微妙な違い」を認識する能力がないことを明確に示している。したがって、そういう人がストラディヴァリウスの音を絶賛してもほとんど意味がないということになる。

前回の放送と合わせて考えると、ストラディヴァリウスの謎はとっくに解けている。ストラディヴァリウスと他のバイオリンに違いなどない。実態のない違いの正体を追い求めているために、いくら科学的研究をしても答えが見つからないのだ。これが謎の正体である。バミューダ三角海域やナスカの地上絵、ミステリーサークルと同じく、謎などないのに、あると思いたい人たちとあると都合がよい人たちがあることにしているだけなのだ。

それにしても、興味深いのはNHKの人たちがどういう考えで前回と今回の番組を作ったのかだ。彼らは「専門家でもブラインドテストで違いが判らない」という取材をした段階で「音の違いはないんだな」と思ったはずである。この場面を掘り下げると「音の違いがないのだからストラディヴァリウスに謎などない」という結論になってしまって番組が成り立たない。かといって削除してしまうのは良心が咎めるので、「わかる人にはわかる」ようにこの場面をあまり掘り下げずにあっさりと流し、なおかつ「わからない人」には「専門家でも音の違いがわからない」ことすら謎のひとつに印象付けるという、いわば「両面待ち」の考え方で製作をしたのではないだろうか。

そんな秀逸な判断で前回の58分版に入れたこの場面を、今回の89分版から削除したのは、この5か月の間に何事かを考え(笑)、誤った印象を流布しないという良心よりも、作品の面白さを優先する決断をした結果なのだろう。そのかわりに採用されているヴェンゲーロフのオカルト話が、わずかな良心の痕跡ということだろうか。

あるいはそもそもここに書いたような理屈がピンとこない人たちばかりで、なんとなーく気分次第で作った結果なのだろうか。それはそれで愉快な話ではあるが、さすがにNHKに入る人たちでそれはないだろう。すべてわかった上で、良心と作品の面白さの狭間で逡巡した結果だろうと思う。

そういうことを考えさせられた面白いNHKスペシャルであった。

卓球部の飲み会

昨夜は、会社を辞める人を卓球部として送る送別会だった。

当然、卓球の話ばかりだったのだが、例によって3番弟子の小室が卓球狂ぶりを発揮していた。一人暮らしをしている後輩を気遣って「飯はどうしてるの?」と質問をしたのだが、その時の彼の手はしっかりとペンのバックショートの形をしており、話の内容とまったく一致していないのであった。あまりに面白かったので、その場で再現をしてもらった。とても食事の用意について質問をしているようには見えない。

他に面白かった話題は、他のチームの選手で、サービスの時に奇妙な儀式をする人がいるという話だ。私もその人は見たことがないのだが、聞いたところによるとその儀式はざっと次のようなものだ。

まずボールを拾ってくるのだが、一度そのボールは短パンの左ポケットに入れるらしい。そしてコートにつくとまず左手を台の表面にこすって汗をぬぐう。このためにボールはポケットに入れてあるのだ。それでボールをポケットから取り出して構えに入るのだが、ボールを手に乗せたままなぜか手を体に近づけたり遠ざけたりを何往復かするのだという。次に手を顔の高さまで上げていよいよトスするのかと思いきや、また台の高さにまで下げてそこからトスをしてやっと打球するのだという。これを一度や二度ではなく1ゲームに10回、それを5ゲームも続けられた日にはたまらなくイライラして、それだけで精神が乱されて負けてしまうこともしばしばだという。最初は「奇妙だな」と思うだけなのだが、試合が進行するにつれてその動作は念入りに遅くなっていくように感じられ、とても我慢できるものではないそうだ。しかもレシーブの構えの時にはお尻をクイックイッと左右に振るのだそうだから、その不愉快さたるや想像するに余りある。

あまりに面白い話なので、今度試合を見に行こうと思っている。

ちなみにその人はわざと相手をイライラさせようとしてそんな儀式をやっているのではないそうだ。そんなことをしなさそうな、とっても良い人なのだそうな。卓球界は広い。

子供たちの驚き

この春、大学生になった子供たちが朝から「お父さん、すごい!」と歓声を上げた。

「こんなに髪が短いのに寝ぐせがついてる!」

余計なお世話である。他に驚くことはないのだろうか。こっちはあと2週間ちょっとに迫った世界選手権の取材の準備態勢に入っているのだ(気持ちだけだが)。