月別アーカイブ: 3月 2018

張本夫妻インタビュー

先週から今週にかけて、卓球王国の依頼で、張本智和選手のご両親に別々にインタビューを行った。

見事なまでに対象的なお二人だった。

お母さんの凌(リン)さんは、深く智和選手の将来を思い、取材中に2度涙を流した。

一方の宇(ユウ)さんは、卓球が好きでたまらず、智和選手を日本チャンピオンや世界チャンピオンにしたいとか、そんなことは考えたこともなかったという。それどころか、卓球場経営すら考えてもいなかったという。

このような対照的な二人ではあるが、いかんせん、二人とも元中国ナショナルチームにいたという点では共通している。恐ろしいことだ。

いろいろなことがわかった実り多く感動的なインタビューだった。

詳しくは卓球王国6月号に書くが、そこに書かないこととして、ひとつの発見を書く。

凌さんは現役時代はカットマンだったが、バック面が表ソフトだったという。バック面表といえば95年世界選手権天津大会で大活躍した丁松を思い出すが、なんと凌さん、85年に四川省チームに入った段階でバック面表だったという。

理由を聞くと、攻撃をしやすいためもあるが、粒高では対ドライブに対して切ることしかできずナックルが出しにくいので「変化が小さい」ため、中国ではバック面粒高のカットマンは、他国を想定した練習相手としてしか存在しないというのだ。それも80年代の昔からだ。

裏にしないのは、裏では回転に敏感すぎてこれまたドライブを返すのが難しいからだという(フォア面が裏なのは、恐らくサービスと攻撃のためだろうが聞き忘れた)。

こんな話は初めて聞いた。「本当か?」と思って00年代に日本で活躍した帰化選手、王輝のラバーを調べたら、確かに表ソフトだった。

知らないのは私だけだったのだろうか?

だとすれば、なぜ日本のカットマンは今もバック面粒高が多いのだろうか?

興味は尽きない。

何が「わざと」だ

古い知り合いの女性からメールが来た。

「久しぶりに卓球王国ブログを開きました。蔵書に目を通す伊藤先生、ワイシャツ、Vネックの上にワインカラーのドンぶく!これわざとですよね。」

だそうだ。「わざと」とは、ウケるために頓狂な服装をしているという意味だろうが、失礼な話である。

シャツはこれ以外に持っていないし(同じのだけ5着ある)、家ではいつもこのカーディガンとどんぶくだ。選択の余地はないのだ。

せっかく蔵書を自慢したかったのに、服装に目がいくとは、なんたる集中力の低さであろう。

蔵書に興味ないから仕方ないか(笑)。

 

 

ハンドソウ開発者、川又宏司氏との邂逅

以前、卓球王国の連載でも取り上げた大友秀昭くんは、現在、熱心にハンドソウラケットの普及活動をしている。

ハンドソウの選手を集めてチームを作って試合に出たり、あろうことかハンドソウの選手だけが参加できる世界選手権を開催したりしている(もちろん参加者は「お仲間たち」だけだ)。

その大友くんから何週間か前に、ハンドソウの開発に関する古い論文が送られてきた。1973年のもので、著者は川又宏司(新潟大学)となっている。

そこで、以前から懇意にさせていただいている新潟大の牛山さん(日本卓球協会スポーツ医科学委員)に聞いてみたところ、なんと「前任者なのでよく知っていてご健在」とのこと。それは凄い! さっそく連絡先を教えてもらい、東日本大震災の7回忌となった昨日、仙台から5時間車を飛ばし、大友さんは金沢から4時間かけて電車でかけつけ(隣の県なのに筆舌につくしがたい便の悪さだ)、二人で新潟市のご自宅を訪ねてきた。

川又さんは、予想を越える凄いお方だった。

昭和9年生まれの御年83歳。

初めて卓球をしたのは、終戦当日の1945年8月15日、11歳のときだったという。正午の玉音放送で敗戦を知り、午後に学校に行くと、なんと体育館に卓球台が何台も出されみんなで楽しそうに卓球をしていた。それまで卓球台などもちろん見当たらなかったし、川又さんは「卓球」という言葉さえ知らなかった。やってみるとあまりにも楽しく「なんということだ」と驚愕した。

中学では卓球部を作り、ゴム長靴のゴムをラケットに貼って回転をかけた。奇しくも、京都の永井達四郎が裏ラバーを発明したのと同時期だ。1年上の長浜好人という選手とダブルスを組んでいたが、長浜は後に全日本選手権の男子ダブルスで優勝する(1954年)。それを聞いたとき「俺も卓球続けてればよかった」と思ったという。

というのも川又さんは、高校では卓球をやめて野球部を創立したからだ。新潟大学に入ると、指導の方にやりがいを感じるようになり、女子チームを北信越で優勝させるまでにした。

川又さんは当時からすでに、日本にスポーツを楽しむ文化を広めるような活動に興味があったのだ。

そんなこんなで、話は飛び、1970年初頭にハンドソウラケットを開発した。特許はとったものの、大学職員であったため副業に関する申請などが面倒で、結局、権利は行使せず、メーカーからは食事をご馳走になった程度で1円ももらっていない。それどころか、自ら開発したラケットを、そのメーカーから買っていたという。

今も週に3日程度、お仲間とラージボールを楽しんでいるが、なんと未だに理想のラケットを求めて日々ラケットの開発をしている。最近ではペンとシェークの握りを両立する「二脚式ラケット」を開発した。

驚いたのは、二階にある工作室で、その熱量は完全に常軌を逸するものだった。この部屋に他人を入れたのは初めてだという(入りたい人がいたかどうかはともかく)。ラケットの型抜きはおろか、合板の接着までご自分でされている。同行した大友くんなど、自分のマニア度の甘さを恥じていた。私もだ。あの程度の卓球本の蔵書を自慢していたことが恥ずかしい。こんなものを見せられたら全く相手にならない。凄すぎた。

さて、ここまでの情報から判断すると、この方は「まともな人ではないのではないか」と思うだろうが、実はとんでもなくまともなのだ。

なにしろ本業のスポーツ教育関係の功績で、天皇陛下から勲章をもらっているほどのお方なのだ。

まとももまとも、日本の体育教育の草分けともいえる凄いお方なのだ。

大友さんが持参した、ハンドソウラケットが出てくるマンガ『少年ラケット』を見せると、川又さんは「ほうっ?」と驚きの声を上げて感激された。ご自分の子供ともいえるラケットがマンガにまでなっていることが信じられない様子だった。

大友さんは、ハンドソウラケットをデザインしたユニフォームまで作っており、これにも川又さんは喜ばれ、来ていただいて記念撮影となった。

ハンドソウのレジェンドにサインをもらって感激の大友さん。

詳しいことは、今春発売予定の別冊卓球王国『卓球グッズ2018』に書く予定なのでお楽しみに。本当に感銘深く素晴らしい取材だった。

ラジオ放送情報

先日収録したラジオ放送が以下のように放送されますので、 ご興味のある方はお聴きになってみてください。

3月8日(木) 夜10時半~11時 ラジオ3にて

パソコンで聴く場合:「リスラジ」で全国のラジオ局→東北→ラジオ3を選択

スマホで聴く場合:「ListenRadio」アプリでラジオ3を選択

あまり放送がない局らしく、試しに聞いてみても何も鳴っていなかったりしますが、その時間にアクセスすれば鳴るようです。心配な場合は、事前に放送がある他の局を聴いてみておくのも良いかと思います。

なお、番組表では番組名が「ミュージックライフ」となっていて、なんか違うような気もするのですが、ともかくここで放送されるとのことです。

 

80年代の「卓球レポート」の凄さ

今月発売の卓球王国用に、卓球レポートの休刊についての原稿を書いた。

そのために1週間ほど蔵書を読んだのだが、さすがに66年からの蔵書すべてに目を通すのは不可能で、2日ほどであきらめた(やろうと思ったところが我ながらどうかしてる)。

それで、自分がリアルタイムで読んだ80年代の卓球レポートに絞って書いたのだが、振り返ってみると、すべての卓球レポートの歴史のうちで、もっとも精神主義が炸裂していたのがこの80年代だったように思う。

なにしろ創業者田舛彦介が巻頭言『炎』でいきなり若者のだらしなさを叱咤したかと思えば、元世界チャンピオン長谷川信彦が『作戦あれこれ』で「異質反転型との対戦でもっとも重要なことは心構えだ!」などと、強烈な精神論を説き、続くページでは元世界チャンピオン伊藤繁雄が大股開きなどのあられもない素振りの連続写真を次々と公開し、そればかりか60分間「素振り」だけのビデオテープまで発売する凄さなのだ(しかも12,000円!)。

今思えばこういう雑誌が存在したことは奇跡であり、よくもたまたま私がその時代にめぐり合わせたものだと感心したが、もしかするとそれは逆かもしれない。

卓球レポートの異常な熱量があったからこそ私がそれに感染して卓球にのめり込んだのであり、これは必然だったかもしれないのだ。

このブログのプロフィールにあるウェブサイト『現代卓球』は、卓球レポートのパロディとして作ったぐらいなのだから。