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『ジャズを聴くバカ、聴かぬバカ』中山康樹

私が好きな作家は何人かいるが、その中のひとりが音楽評論家の中山康樹だ。
中山康樹の『ビートルズを笑え』を読んだときはあまりのおかしさに店頭で声を出して笑った。その後に出た『超ビートルズ入門』も同様だった。だいたい、ビートルズ関連の本で笑うというのが普通のことではないのだが、中山康樹は音楽を題材としたギャグを書ける世にも稀な才能と技術の持ち主なのだ。

昨日今日と帰任にともなう引越し荷物を整理していて、つい中山康樹の『ジャズを聴くバカ、聴かぬバカ』に目が止まり、あらためて読んでしまった。

中山康樹はジャズ雑誌「スイングジャーナル」の編集長をやっていたこともあるほどジャズに愛着を持つ人なのだが、ジャズ業界の現状を嘆いており、この本ではそれにギャグを交えて書いている。「ジャズ」を「卓球」に置き換えられる部分もあるので、身につまされるところもある面白い文章である。

以下、本書より転載

(レコード会社の製品の出し方に対する批判として)
たとえば「完全版」といわれて大枚はたいて買ったボックス・セットが「不完全版」だったということがわかったとき、どんなに健康な人でも倒れます。
たとえば「別テイク」が入っているからと喜んで買ったCDのその「別テイク」がじつは「別」でもなんでもなく、すでに出ていた通常のテイクであることがわかったとき、どんなに温厚な人でもテーブル、ひっくり返します。(中略)
たとえば「新発見の貴重音源をボーナス・トラックで追加」というコピーにつられて買った「新発見音源」が何年もまえに「発見されていた」のみならずマイナー・レーベルから数年前にCD化されていたことがわかったら、どんなに気丈な人でもつい家族の声が聞きたくなります。

(どこにもいない「ジャズ初心者」について)
「ひょっとしてジャズってとっくに終わってるんじゃないだろうか。そういえばCDショップのジャズ・コーナーはいつ行ってもガラガラだし、ジャズ雑誌は毎年おんなじことばっかりやってるし。ミュージシャンも他界したが、昔からいっしょにジャズを聴いていた仲間もここ5年で半分に減ったし。淋しいなあ。まあジャズでも聴いて酒飲んで寝るか」
このようなヴェテラン・ジャズ・ファンの耳に「ジャズ初心者」という言葉は「友達が増えた」と同じ意味合いをもって響きます。
ジャズ初心者。
なんと初々しい響き、なんとキラキラと輝かしい言葉でしょう。
「なんだ、ジャズ聴いてるのオレだけじゃなかったんだ。これからジャズを聴こうっていう若い人(とはかぎりませんが、このような孤独な人は”初心者”と聞いて反射的に”若い人”あるいは”女性”と断定したがる傾向にあります)もいるんじゃないか。ああよかった」
錯覚です。
「あなた」が孤独であることに変わりはありません。いや、この先ますます孤独になっていく確率の方が高い。
「ジャズ初心者」など、どこにもいないのです。
「いるようにみせている・みせられている」だけです。
そしてジャズ業界は「いるように思いたい」だけです。

(「ジャズを聴く女性が増えた」のウソについて)
前述「ジャズ初心者」の変格活用形としてジャズ業界が好んで用いる作戦が「ジャズを聴く女性が増えた」です。
これまたありもしない「幻想を売る」の一環であることはいうまでもありません。
そしてこの「幻想」もまた、先の「ジャズ初心者」同様、長年のファンに対してそれなりの効力を発揮します。
まず「女性が増えた」の「ジョ」と聞いただけでジャズ・ファンは色めき立ちます。
「そうか、そういうことならもう少しジャズを聴いていようかな、なにかいいことあるかもしんないし」と、ついつい気が大きくなって不要なCDや雑誌まで買ってくれます。
(中略)いうまでもなくジャズ・ファンの120パーセントは男性ですから、「ジャズを聴く女性が増えた」と聞いて喜ばない人は(一部を除いて)まずいません。
なかには「ジャズ」と「女性」という、この世でいちばん好きなものがふたつも揃ったわけですから、みさかいなく逆上する人が現れたとしても不思議ではありません。

(ジャズを一軒の家にたとえて)
はじめてベスト盤でジャズを聴いた人は、その玄関を通ってリヴィングルームに足を踏み入れたようなものです。(中略)ベスト盤のたぐいは昔からありましたが、それは「オンナ・コドモ」が聴くものであり、「大のオトナ」が聴くべきものではないとされていました。(中略)
いまにして思えば、それが、いけなかったのかもしれません。
ジャズ業界は、はじめて「ジャズ」という家の玄関に立った善良な人の手をひっつかみ、名前も目的も聞かず、いきなり寝室や奥の間に引っ張り込むような暴挙をくり返してきた。
まずはリヴィングルームに案内して1杯のコーヒーでもてなすこともなく、です。
「ちょっとだけ」と思って訪問した人を縄で縛り上げ、耳元で「あれ聴け」「これ聴け」「こっちも聴け」「うん? どうだ、わかったか」「えーい、まだわからんのか!」と、強制的かつ暴力的なまでの圧力をかけてきた。

以上、転載終わり

私はジャズにはまったく興味がないが、中山康樹のファンなのでこの本を買ったのだ。こういう、妄想、暴走気味の文章が大好きなのだ。

検証『弧線理論』

友人から、中国の弧線理論の映像を入手した。
弧線理論については前から聞いてはいたが、見るのは初めてだ。インパクトの時間は1/1000秒なのだから、ラケットのスイングのわずかな弧になど意味があるわけはないのだが、一応、どんなことを言っているのか確認してみた。

それで分かったことは、弧線理論は前提が破綻しており、理論にも何にもなっていないということだ。

まず正面から見たフォアハンドだが、ラケットとボールの動きを1コマづつ重ね描きしてみると、解説用に描かれた図解線と全然違う。スイングの後半は似ているが、肝心のインパクト付近が全然違うのだから話にならない。そもそも人間が体の関節を使ってラケットをスイングすれば、ある角度から見れば必ず弧を描くに決まっているのだが、それにしても実際のスイングと解説が違うのではもはや理論以前であり、どうにもならない。

次に、横から見たフォアハンドの軌道だが、これも孔令輝のスイングと図解線がまったく違う。解説が上に凸の弧になっているのに対して、実際のインパクト付近の軌道はほぼ直線、全体的な印象はむしろ下に凸である。打球したボールの図解線に至っては、なぜだか自領コート上から出発していて意味不明である。この場面でナレーターは「この映像から分かるように、スイングで描く弧線がボールの弧線に大きく関係しているのが分かる」と言うのだが、仮に孔令輝のスイングとボールがこの図解線の通りだとしても、どこがどう関係しているのかまったくわからない。ただ「関係している」と言い放っているだけである。あえて関係を言えばどちらも上に凸の弧だというだけだ。しかし、そもそも重力下ではどんな打ち方をしてもボールは上に凸の弧を描くに決まっているのだから何の意味もない。

次に、バックハンドの映像が映り「フォアハンドと同様に弧線を描いているのが分かる」とナレーションが入るのだが、図解線は入らない。フォアハンドとは逆に、下に凸の弧であることが一目瞭然のため、さすがに図解線は入れようがなかったのだろう。

弧線理論は、それを紹介する映像からして、選手がその通りにやっていないのだからハナから破綻している理論である。また、仮に選手が理論通りにやっていたとしても物理的に何の意味もないデタラメである。こんなものが理論だというなら、8の字打法だろうがスカラベ打法だろうが何でもいいのではないか。

こんなデタラメを言っていても強いのだから、まさに中国卓球、恐るべしである。

「複雑な回転」

水谷のサーブのところでは「手首をしなやかに使って複雑な回転をかける。こうすることでボールに予測が難しい動きを与える」と解説している。

複雑な回転とは一体なんだろうか。「複雑な回転」という言葉は卓球雑誌でもときどき見られるが、なにやら得体の知れない神秘的な回転というものがあるかのような誤解をまねく表現である。複雑なのはラケットの動きなのであり、それによって、何種類かの単純な回転を相手に分からなくしているだけである。

NHK『情熱大陸 ~中国を倒してこそ~ 水谷隼』

NHKの『情熱大陸』を見た。

面白かった反面、とても残念なところがあった。それは、回転の威力の説明がデタラメなことだ。以前、卓球王国の原稿にも書いたが、テレビ局はいつも卓球の回転の威力を、何が何でも軌道の変化だけで説明しようとする。まさか製作スタッフ全員が卓球における回転の本当の威力を知らないとは思えないから、これは意図的なものだろう。軌道の変化にしてしまった方が画面で表現しやすいからなのだ。

今回の『情熱大陸』でも、水谷がサービスで絶妙な横下と横上で吉田のネットミスとオーバーミスを誘ったシーンをバウンド後の軌道の変化で説明しているのだから呆れる。卓球選手にとって、ボールがあの程度曲がることぐらい何でもないことであり、そんなことで点を取れるなら世話ない。野球やサッカーじゃあるまいし冗談ではない。

さらに、水谷のナックルドライブまで軌道の変化がそのポイントだと説明するのだからその頑固さは異常である。回転量で軌道がそんなに違うくらいならかえって回転がわかって打ちやすいではないか。軌道に大きな違いがないからこそボールの回転量がわからず、反発方向の推測ができずにミスをするのだから話はまったく逆である。ちなみに、放送によれば、ナックルドライブは普通のドライブより高く跳ね上がるそうである(右図の赤線)。それ自体初耳だが、仮にそれが正しいとして、予想より高く跳ね上がったボールをいかなる原理で相手がネットミスを連発するというのだろうか。

こういう、卓球競技をしている者なら中学生だって分かるデタラメが公然と放送されてしまうところが、卓球というスポーツのステイタスの低さを表している。「回転の方向の説明なんかしたら分かりにくいから軌道の説明にしてしまおう。原理も適当にでっち上げて」なんていう製作姿勢なのは、どうせ分かる人なんてごく一部のマニアしかいないと思われているからなのだ。本当に残念で悔しいことだ。

写真は左から、放送された画面の
「吉田がレシーブでネットミスした場面」
「吉田がレシーブでオーバーミスした場面」
「普通のドライブとナックルドライブの軌道の違い」(赤線がナックルドライブだそうな)

ひどいストーリー

下のマンガについてマイクから返事が来た。
「それで、日本人とアメリカ人の対決はどっちが勝ったんだ」と言うので「もちろん日本人が勝った」と答えた。
するとマイク「でも、絵を見ると、アメリカ人が食事をしているわきで日本人が逆さ吊りにされてるじゃないか」と書いてきた。アメリカ人もちゃんと自分たちが描かれた絵が分かるところがおかしい(そりゃ分かるか)。

それで「これは物語の導入部だからだ。ストーリーの定石どおり、最後には日本人が勝った」と書いて、下の絵を添付した。日本人は刀で銃を持つアメリカ人に対応するのだが、その作戦は「撃たれても死んでも気にしない」という作戦とも言えないような作戦なのだから、まったくひどいストーリーである。

ヘイステンの卓球台

私が卓球台を会社から引き上げた後、卓球に熱中していたヘイステンというおじさんが、自宅から卓球台を持ってきた。

ところがこの卓球台がかなりの粗悪品で、かなり歪んでおり、それだけではなくて、一度たたむと設置するのが難しい代物なのだ。それで、台の下にイスを置いて角度を整え、たたむと元に戻せないので、写真の状態で出しっぱなしである。

やはり卓球台も安いのはダメなようである。

質問に答えない人

腹が立つ話を書いたが、先日、同僚から「条太さんが怒るのを見たことがないけど、腹が立つことはないんですか」と言われた。

考えてみると、私は他人から侮辱されたり尊重されない対応をされたりすることで腹が立つことはほとんどない。評価の基準はいつも自分の内部にあるので、他人からどう思われても気にならないのだ。

そういうことでは腹は立たないのだが、先の映画の断り書きのように、理屈に合わないことを言っているのを見聞きすると、私に関わることかどうかに関係なく、どうにも腹が立ってくる。だから、仮に誉められたとしても、あまりにもトンチンカンな誉められ方をすると、そのトンチンカンさに腹が立ってくるほどだ。

仕事などでときどきある腹が立つことに、「聞いたことに答えない人」がある。

たとえば「○○することは必要ですか?」と聞いたとすると、それの答えとして「○○しなかったら意味ないですよね?」とか「えっ?○○できるんですか?」などと、質問に対する答えをすっとばして質問し返したり、早とちりして自分の言いたいことを言ったりする反応をされると、どうにもキリキリと腹が立つのだ。「必要か」と聞いてるいるのだから、答えは「必要である」か「必要ではない」か、あるいは「分からない」であるはずだ。答えたくないなら「答えたくない」でもいいし、最悪「質問の意味が分からない」でも何の問題もない。ちゃんとコミュニケーションが成り立っている限りにおいては全然問題ないのだ。しかし先の2つの例のようなトンチンカンな対応だけは我慢ができない。

だから私は、できるだけこのようなトンチンカンな答だけはしないように努めているのだが、現実社会ではそれも必ずしも正しいわけではないらしいことを体験したことがある。ある仕事のときに、失敗をして他の部署の人たちに迷惑をかけ、会議でそれを釈明したことがある。謝罪をするとともに失敗の原因と対策について説明をして、今後はこのようなことがないことを説明したのだ。すると、ある参加者が私に「もしそれでもまた同じような失敗をしたら、今回のような事態になるのですか」と聞いた。私が「それはそうです」と答えると「えっ?じゃ、また同じ失敗をすることがあるっていうことですか?」と言った。私が「それはありません」と答えると「じゃ、最初っからそう答えなさいよ!」と怒った。

これは「もしまた同じような失敗が起きたら、今回のような事態になるのですか」という質問に対して、その質問には答えずに「そういう失敗は起きません」と答えろということだ。もし私がこういうトンチンカンな答えをされたらそれこそ「いいからまず聞いたことに答えろ」と腹が立つだろう。

家に帰って妻にこのことを話すと「それは条太が間違ってる。そういうときは論理なんかどうでもいいから、もう失敗しませんと答えるのが正しい」と言われた。そんなものだろうか。こういう非論理的な会話が正しいとされる世界は私にとって途方もない苦痛である。なんとかそういうデタラメな会話をしなくてよい世界で暮らしたいものだ。

建前の忠告

帰りの飛行機のテレビで映画を見たのだが、始まる前に意味不明の忠告があった。
「一部の視聴者にとって適当ではない内容が含まれている」といっても、一体何のことかさっぱり分からない。アダルトなのか残酷なのかはたまた宗教なのかイデオロギーなのか。こんなのは「一応忠告した」という言い訳だけのものだ。

こういうのを見るともう、私は無闇に腹が立ってくる。

帰国

やっと日本に帰ってきた。

時差ボケのため、朝から食欲があるので、昨日は新宿で6時にとんこつラーメンを食べたし、今日は7時に吉野家で牛丼を食べた。こうして食欲旺盛な朝がつづき、5日めの朝に食欲がなくなると時差ぼけ終了の印だ。

朝の新宿でナイスな店を見つけた。さすがだ。他にも、通りを明らかに一人なのに誰かと大声で話しながら歩いている人とすれ違った。こうしてみると日本人もかなり変わり者が多い。こんな人たちに比べたら私など平凡中の平凡である。

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