質問に答えない人

腹が立つ話を書いたが、先日、同僚から「条太さんが怒るのを見たことがないけど、腹が立つことはないんですか」と言われた。

考えてみると、私は他人から侮辱されたり尊重されない対応をされたりすることで腹が立つことはほとんどない。評価の基準はいつも自分の内部にあるので、他人からどう思われても気にならないのだ。

そういうことでは腹は立たないのだが、先の映画の断り書きのように、理屈に合わないことを言っているのを見聞きすると、私に関わることかどうかに関係なく、どうにも腹が立ってくる。だから、仮に誉められたとしても、あまりにもトンチンカンな誉められ方をすると、そのトンチンカンさに腹が立ってくるほどだ。

仕事などでときどきある腹が立つことに、「聞いたことに答えない人」がある。

たとえば「○○することは必要ですか?」と聞いたとすると、それの答えとして「○○しなかったら意味ないですよね?」とか「えっ?○○できるんですか?」などと、質問に対する答えをすっとばして質問し返したり、早とちりして自分の言いたいことを言ったりする反応をされると、どうにもキリキリと腹が立つのだ。「必要か」と聞いてるいるのだから、答えは「必要である」か「必要ではない」か、あるいは「分からない」であるはずだ。答えたくないなら「答えたくない」でもいいし、最悪「質問の意味が分からない」でも何の問題もない。ちゃんとコミュニケーションが成り立っている限りにおいては全然問題ないのだ。しかし先の2つの例のようなトンチンカンな対応だけは我慢ができない。

だから私は、できるだけこのようなトンチンカンな答だけはしないように努めているのだが、現実社会ではそれも必ずしも正しいわけではないらしいことを体験したことがある。ある仕事のときに、失敗をして他の部署の人たちに迷惑をかけ、会議でそれを釈明したことがある。謝罪をするとともに失敗の原因と対策について説明をして、今後はこのようなことがないことを説明したのだ。すると、ある参加者が私に「もしそれでもまた同じような失敗をしたら、今回のような事態になるのですか」と聞いた。私が「それはそうです」と答えると「えっ?じゃ、また同じ失敗をすることがあるっていうことですか?」と言った。私が「それはありません」と答えると「じゃ、最初っからそう答えなさいよ!」と怒った。

これは「もしまた同じような失敗が起きたら、今回のような事態になるのですか」という質問に対して、その質問には答えずに「そういう失敗は起きません」と答えろということだ。もし私がこういうトンチンカンな答えをされたらそれこそ「いいからまず聞いたことに答えろ」と腹が立つだろう。

家に帰って妻にこのことを話すと「それは条太が間違ってる。そういうときは論理なんかどうでもいいから、もう失敗しませんと答えるのが正しい」と言われた。そんなものだろうか。こういう非論理的な会話が正しいとされる世界は私にとって途方もない苦痛である。なんとかそういうデタラメな会話をしなくてよい世界で暮らしたいものだ。