月別アーカイブ: 9月 2014

次元の違う話

人々が話す言葉でいつも気になるのが「次元」だ。「世界選手権ともなると次元が違う卓球だ」などという使われ方をする。まるで「次元」がレベルとか世界と同じような意味だと思っている使われ方なのだ。

もちろん次元にそんな意味はない。スポーツやゲームで言えば、一直線上を走る100メートル走は1次元のスポーツと言えるし、平面上で勝敗を競う囲碁や将棋は2次元のゲームと言える。空間を使う球技のほとんどは3次元のスポーツだ。これに時間も加えればそれぞれ1次元増しになる。次元とは要素の数を表す数学用語なのだ。だから「世界選手権ともなると次元が違う」という使い方は比喩にもなっていない単なる誤用である。もちろん「卓球が強いということと年収がどれくらいかということは別次元の話だ」というのも誤用だ。単に「別の話だ」と言えばよい。

もっとも、ある新興宗教のパンフレットに書いてあった次元の話は素晴らしかった。この世は20次元だかからできているそうで、「次元の意味を分かりやすく説明すると18次元が高校生だとすれば19次元は大学生だということです」などと気が狂ったようなことが書いてあった。ここまでデタラメだと巧まざるユーモアとなって爆笑を誘うのでこれはこれで素晴らしい。

これほど可笑しい場合は良いが、可笑しくもない単なる誤用は勘弁してもらいたい。

シャツを揃えた

私は自分の服装というものには何の興味もないのだが、体面上、毎日同じシャツだと汚いと思われそうなので、一応、毎日替えている。そのため毎朝、着るシャツを選ぶ作業がなんとも不愉快なのだ。どれでもよいといっても、なるべく前に着てから日が経ったものがよい。そんなことをあれこれ考えるのが嫌なのだ。それで、一時期は曜日ごとにシャツを並べていたこともあったが、それもなんだか面倒になって結局、毎朝面倒な思いをしている。

ところがよく考えると、服装に興味がないはずの私も、実は着るときに贔屓して着がちなデザインがあるのだ。それは、青の縦じまのシャツだ。下にガラ物のTシャツを着ても透けにくいし、なんとなく好きなのだ。

それで今回、思い切って同じガラのシャツだけ数着買ってしまえと思った次第だ。着心地や耐久性など、買ってからしかわからないことがあるから、今回は複数の店で別の製品を買い、しばらく使ってみて気に入ったものを後で大量に買って、生涯、二度とシャツのことを考えなくてよいようにしようという計画だ。毎日同じシャツなら同僚も替えているかどうかわからないから実際に替えていなくてもバレないという利点もある。

それで買ったのがこれらのシャツたちだが、

泊まったホテルのガウンも同じ柄だったのがまったく奇遇であった。

自覚のない東北弁

方言というものは、自分が方言を話している自覚があって話すのなら別に恥ずかしくないが、標準語を話しているつもりで実は訛っていたというのは恥ずかしい。

私は幼少より東北弁と標準語の違いについてはかなり自覚的であり、話せないまでも何が標準語なのかは完璧にわかっているつもりだった。ところが、大学を卒業してから関東の人から指摘されて初めてそれが標準語ではないことを知った衝撃的な東北弁がある。

それは標準語で「○○しなきゃなんない」を意味する東北弁「○○しなきゃない」だ。標準語における「なん」が抜け落ちているのだ。同様に「行かなきゃない」「言わなきゃない」などと言う。

これはもともとは堅い言い方をすれば「しなければ成らない」だ。このうちの肝心な「成ら」を省略して「しなければない」としてしまったのが先の東北弁なのだ。だから標準語圏の人が「しなきゃない」と聞くと「いったい何が無いの?」という一瞬の戸惑いを覚えるという。ただ、ほとんどの場合は文脈から意味が分かるので聞き返したり指摘したりはしないので、これを使っている人は自分がニセ標準語を使っていることに気づくことはない。また、ニセ標準語を使っていると自覚している人もいない。なぜそう言い切れるのか。それは「しなきゃない」という言い方がそもそも本気の東北弁ではなく、標準語を使ったつもりの「自覚なき東北弁」であるからだ。

本気の東北弁では「しなければ」は「しねば」あるいは「しねげ」となるのであり「しなきゃ」自体が標準語というか東京弁というか、ともかく関東の言葉を使っているつもりの言葉なのだ。ゆえに「しなきゃ」と言う人は当然標準語を使っているつもりなのである。

その証拠に、仕事の会議など、オフィシャルな場でも「しなきゃない」以外はすべて標準語を使う人の口からこれが連発されるのだ。それほどこれは、標準語を使いたい東北人にとって最大の盲点となっている。

ちなみになぜこの言い方が定着したのかと言えば、本気の東北弁が「しねばねえ」「しねげねえ」と「成ら」を省略した形で定着した後で、これを標準語に変換したためだと思われる。和製英語を本当の英語だと思い、正しい発音で使うようなものである。

標準語を使いたいと願っている東北人の参考になれば幸いである。