年別アーカイブ: 2009

俺たちの頃は

「俺たちの頃は」という話は実は卓球の世界でも散々聞かされてきた。

あるとき、先輩が「俺たちの頃は合宿ともなれば、何でもかんでも徹底的にやったもんだ」と言う。「最初の柔軟体操からもう、あばら骨が折れるくらいにみっちりやった」と言う。あまりの可笑しさに噴き出してしまった。肋骨が折れる柔軟体操とはどんな柔軟体操だろうか。たぶん、背骨の言い間違いだと思うんだが、どっちにしても骨折したら卓球どころの話ではない。なにがなんでも自慢したいというこの先輩の情熱の空回り具合がなんとも可笑しかった。

さらに、練習ではラケットはほとんど使わず体力トレーニングばかりだったという。なるほど、これでは弱いはずである。どこまでも話は空回りだ。

さらに、その頃は練習中に水を飲むと疲れるから飲むなと言われていたそうで、それでもなおハードな練習を続けていると、体中から水分が抜けて、最後には汗が出なくなってユニフォームがカラカラに乾くのだという。死なずに済んだのが不思議である。

こういう、どこまで本当かわからないし、意味のある努力だったのかどうかもわからない怪しい話を聞くのは、面白いので楽しい。

最近の若者

「最近の若者は」という話を聞くことがあるが、私はそういうことを言ったことも思ったこともない。

私が学生の頃、新人類などという言葉が流行り、私も言われたことがある。些細な流行や習慣の違いを取り上げて、なんとまあバカバカしいことを言うんだろうと思ったものだった。自分も年をとったらそんなことを言いたくなるんだろうかと思ったが、別にそんなことはなかった。世代の違いよりもひとりひとりの違いの方がずっと大きいとしか思えない。あとはちょっとした生活習慣が違うだけだ。「最近の若者は」と言う人たちはおおかた、自分の昔を美化した妄想と若者を比較しているんだろうと思う。

私が世代論を嫌いなのには実は理由がある。学生運動だ。大学や会社で、学生運動をした世代の人たちから「今の学生は意識が低い。俺たちのころは・・」と散々愚劣な話を聞かされたためだ。その人がどういう人なのかは、普段を見て分かっているわけだから、今さら昔の崇高な話をされたところで、メチャクチャなフォームのオヤジに「昔は強かった」と言われるのと同じようなもので、その程度は知れている。今でも地下活動で政府転覆を狙っているとか、政治家になって社会を変えようとしているというならともかく、ただの流行でデモをしていただけの人の自慢話などバカバカしくて聞いていられない。

そして大抵の場合、私はこういう話を感心して聞かなくてはならない立場なので困るのだ。

昔、若者と言われた世代も年をとれば、今度は昔の大人と同じように若者に「俺たちの頃は」という寝言のような話をする。60年代の学生もそういわれたし、昭和初期、大正時代、明治維新、江戸時代の武士ですら、その前の世代からはくそみそに言われてきたのだ。これは人類の有史以来そうなのであって、この点においてこそ、どの世代もまったく違いなどありはしないのだ。

『戦前の少年犯罪』読了

『戦前の少年犯罪』を読了した。
著者は、戦前には現在とは比べ物にならないほどめちゃくちゃな凶悪犯罪が多かったかこと揶揄を交えて表現しており、犯罪が題材なのにもかかわらず、つい声を出して笑ってしまった。

中国に軍属として旅立つ学生を送るために、駅でかちあった他校学生たちがささいなことで乱闘になった事件について「これから戦争に行こうというときに殺し合うんですから、愛国心以上の愛校心です。命がいくつあっても足りません。」とか、戦前に主殺しが多かったのは住み込みで働くケースが多いためだとし「終始顔を合わせているだけでも息が詰まるのに、親には孝行、兄弟仲良く、主には忠義をつくせなんて、繰り返し云われていたとすれば、逃げ場のない状況に追い込まれて、これは逆に殺せと命令されているのと同じようなものです」などと書く。さらに、旧制高校生たちの悪行に触れ「決められた場所で年に一回秩序正しく騒ぐ成人式の若者などこれに比べたらおとなしいもんです。旧制高校生世代や、街中で機動隊に石や火炎瓶投げてた世代が、彼らを非難するのはどうもよくわからんことです。若いころに甘やかされて、おつむのネジが少々ゆるんでいたりするんでしょう。」とも書く。

著者の目的がこうしたユーモアだったのかどうかはわからないが、私にはこういう部分がとても面白かった。

最後に著者はあとがきで「戦前の少年犯罪をきちんと検証できていなかったこれまでに提出された日本に関する考察はすべて根拠のないデタラメだったと考えてもいいのではないかと愚考しています」と書く。

まったく痛快である。

言葉の力

以前、「意味」など考えるのは人間だけだと書いた。「意味」を伝えるものは「言葉」だ。言葉の力はとてつもなく大きい。

私の好きな『編集王』というマンガがある。かつてこれが週刊ビックコミックスピリッツに連載されていたとき、ある号をコンビニで立ち読みしていて、慄然としたことがある。

何コマか使って、誰の台詞とも判別がつかないような次のような詩が綴られていたのだ。

<けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ>

ちょっとひっかかる良い言葉があるが、このあたりまでは格調高いふりしているな、と思うだけで別に何とも思わなかった。

<すべての才や力や材とふものは
ひとにとどまるものではない
ひとさへひとにとどまらぬ
おまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰かけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ>

人さえ同じではいられない、というこのあたりからこのマンガ家、土田世紀のただならぬ言葉の感覚に畏敬の念とわずかな嫉妬を覚えた。こんな台詞を考えるマンガ家がいるのかと。

<みんなが町で暮らしたり一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏のそれらを噛んで歌ふのだ>

立ち読みしながら全身に戦慄が走る。なんだなんだなんだこの異様な言葉の力は。これが一マンガ家に書ける言葉なのか。大衆消費材として何百コマ、何千コマと書いているマンガ家が、そのうちのただ一回の連載のために考えたこれが言葉だというのか。確かに言葉もマンガ家の創作の一部だが、こんな、野球選手の中に100m走の世界記録保持者がいるようなことがあっていいはずがない。

<ちからのかぎり そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいい

(宮沢賢治『春と修羅 第二集』より)>
だーっ!やっぱり!これは宮沢賢治の詩だったのだ。『春と修羅』だったのだ。またまた全身に鳥肌が立つ。
こんなマンガにちょっと言葉を何行か挟みこんだだけで私にも分かるほどの凄まじい力を持つ宮沢賢治とはなんとすごい人なのだろうか。

こう思うと同時に、私がその言葉の力を感じることができたことと、野球選手の中に100m走の世界記録保持者がいなかったことに安堵を覚えた。

すぐにこの詩の全文を手に入れたことは言うまでもない。

『ストロング・ラーメン』の末路

ドーサン市内にある日本食レストランKYOTOに久しぶりに行ってきた。ドーサンでは珍しくラーメンを出すところだ。インスタントラーメンではあるが、私はもともとインスタントラーメンは大好きなので、全然問題ない。

ただ問題は、この店では汁に入れる湯の量が多いために、極端に薄味で出されることだ。インスタントラーメンであることは確認済みなので、店員にお湯の量を少なくして濃い味にしてくれと頼んで「ストロング・ラーメン」といえば通じるまでになっていたのだった。ストロングとは濃いという意味だ。

ところが、久しぶりに行ったら以前の店員が見当たらない。当然ながら「ストロング・ラーメン」と言っても通じない。それで、以前やったように、お湯を少なくして味を濃くしてくれと説明したのだが、なかなかわかってもらえない。「辛くして欲しいのか」と聞かれたので、不安ながらも「そうだ」と答えた。たしかにこのインスタントラーメンは韓国製で辛いため、スープを濃くすれば当然辛味も増すから、辛くしてくれというのは間違っているとも言えないのだ。

そしてやってきたのがご覧のとおりだ。

とほほ・・七味唐辛子とペースト状の辛味が付いている。汁を飲んでみると見事に薄い。なんとも悔しい夕食だった。

イエス様

先日、道路で奇妙な人を見かけた。
なにやら十字架のような木を運んで信号待ちをしていた車の間をぬって歩いて道路を渡っていたのだ。

一瞬、工事か大工さんのような人で、木を運んでいるのかと思ったが、木の下に車がついていて、もともと運ぶ目的になっていることと、十字になった木材を運ぶ必要があまり考えられないことから、おそらくこれは、イエス様への忠誠を表明しながら町を旅している人なのではないかと思われる。

しかしそれにしては荷物が少ないのが不自然である。マイクに写真を見せて聞くと、やはりイエス様への信仰を表明している人だとのことだ。日本でいえば、托鉢をして歩く僧侶のようなものだろうか。

少年犯罪

『戦前の少年犯罪』という本を買った。これは画期的な本である。著者は、少年犯罪の凶悪化がいわれている昨今の風潮が本当なのかを確かめるため、昔の少年犯罪がどのようなものだったかを新聞を丹念に調べ上げて一冊の本にまとめた。

その結果、昔の方が凶悪度も数も今とは比較にならないほどひどいものだったことが明らかになったのだ。誰も彼もが「最近の犯罪は異常だ」と言うが、そのような異常者は昔の方が今よりもずっと多かったし、子供は切れやすかったのだ。この事実を見誤ってその原因を探っても当然、正しい解決策などできるわけがない。

この本に対して下のような書評があった。

<なるほど、ここに並べられた目をおおいたくなる事件を眺めていると、“昔の子どもはよかった”“現代の子どもはモンスター”的な言い方には何の根拠もないことがよくわかる。しかし、「ジャーナリストも学者も官僚なども物事を調べるという基本的能力が欠けていて、妄想を垂れ流し続けています」という著者の憤りはよくわかるのだが、戦前の子どもは「簡単に人を殺し」、現代の子どもは「ほんとにおとなしくなった」とまで言うのもやや断定的すぎるのではないか。データは少年犯罪の増加を示していないのに人々の不安は高まる一方、というところにこそ子どもをめぐる最近の問題の本質があるのでは、とこの労作の著者に尋ねてみたい。>

「データは少年犯罪の増加を示していないのに人々の不安が高まる一方なのはなぜか」って、この人は本当にそんなこともわからないで書評を書いているのだろうか。そんなもん、視聴率がとれるからテレビやマスコミが多く取り上げるからに決まっているではないか。こんな愚問を書く前に書くべきことがあるだろう。それは、間違った事実認識に基づいて現代人の心の闇だのなんだのと少年犯罪の原因を推定してきたのだから、自分たちの書いてきたことが間違っていたことを認めることである。それを書かずして何を負け惜しみを書いているのだろうか。これだけでこの人の物事に対する姿勢が良く分かる。

昔の方が悪かったのだから、現代の少年犯罪の原因には、ゲームも核家族化も受験戦争もネットもファーストフードも何も関係がなく、むしろこれらは少年犯罪を抑制していて、それを推進した方がよい可能性すら考えなくてはならないのだ。

一方、新右翼の鈴木邦男はそのブログで次のように書いている。

<本を読んで驚いた。今よりも、もっともっと少年犯罪は多いし、道徳崩壊も多い。それなのに、「昔はよかった」「今は人々の心が荒んでいる。凶悪犯罪が多くなった」と言っている。無責任に。私だって同罪だ。「妄想の教育論」「でたらめな日本論」と言われても仕方はない。>
前出の書評との差は歴然である。こういうことを「格が違う」というのだ。

I am Wakige

三男が学校でアメリカ人に「日本語で暑いって何ていうの」と聞かれ「わきげ」と教えてやったそうだ。それ以来、その友人は暑いときには「I am wakige」と言うそうだ。

犬でも飛びつくって

血液型性格判断の話だ。血液型と性格に関係がないことはこれまでにも何回か書いた。どれほど関係があるように思えたとしても、これは科学的には認められていない典型的なエセ科学なのだ。当たっていると思えるのは占いと同じで、「誰にでも当てはまることを言う」「当たっている部分だけを意識する」というだけのことだ。

血液型性格判断について医者をやっている知人が言ったことで印象に残っていることがある。「血液型と性格が関係あるかもしれないなんてことは誰でもすぐに思いつくことでしょ。そんなもん犬でも飛びつくって。でも調べても何も関係がないから関係がないって言ってるんだよ。」ということだ。調べてもそんな事実はないという簡単明快なことなのに、未だに血液型性格判断の本には「科学者の間でタブーになっていて認めようとしない」などと寝言を書く。

現代日本人は現代医療の世話になってそれなりに医者を信頼しているくせに、こと血液型と性格についてはなぜだか専門家の言うことよりも、自分の思い込みやら与太話のような雑誌記事やテレビを信じるのだから、その方が不思議である。雑誌記事にしてもテレビにしても、私のようなライターが毎回頭をひねりながら何の根拠もなしにデタラメを書いているのに。

いつだったか、知人の女性に「私、A型なんだけどいつもB型に間違われるんです」と言われたときはあまりにも可笑しくて大笑いしてしまった。医者に血液型を間違われたら死ぬぞ!などと思ったら可笑しくてたまらなかった。その女性は自分の話がウケたと思って喜んでいて、それもまた可笑しさに輪をかけたのだった。

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