年別アーカイブ: 2009

アトランタといえば

アメリカでは11月の第4木曜日はサンクスギビングといって、日本の正月のような祝日になっている。昔、ヨーロッパから来た白人たちが、インディアンにいろいろとお世話になったお礼に収穫物をあげたのが起源だという。だからこれは、アメリカとカナダ特有の祭日だ(ちなみに、この話は白人が自分たちがインディアンを虐殺したことの罪悪感を打ち消すために作った話で、そんな友好関係があったという証拠はないというのが事実のようである)。

それで会社も休みなので、昨日からアトランタに一泊で来ている。

アトランタといえば、アメリカに来る前に知っていたのは1996年のオリンピックだけだ。男子シングルスで、金澤珠が王涛に勝ったのに、直後のラバー検査で有機溶剤が検出されて失格になった試合だ。結局、決勝は劉国梁と王涛の試合になって劉国梁が優勝した。卓球ファンとしては、その由緒ある体育館に行くべきなのだろうが、さすがにただの体育館に行く気にもなれず、まだ行ってはいない。

料理王国

アトランタには、日本の本屋が2件だけある。2件といっても、どちらもブックス・ジャパンという姉妹店だ。輸送費がかかっているので、文庫本でも$8ぐらいして、だいたい日本で買うより2倍くらい高いが、それでもときどき買っている。

店舗は日本の小さい本屋程度で、置いてある本にも限りがある。そこで、あるわけはないと思いながらもつい『卓球王国』を探す癖がついているのだが、いつも紛らわしいのが『料理王国』だ。それどころか『料理王国』からは最近、『スイーツ王国』というのまで出たらしい。

紛らわしいという点ではもっと上をいく雑誌が日本にはある。『管球王国』だ。なんと卓球王国と1字違いだ。王国編集部の人たちも本屋でドキッとしているに違いない。ちなみに管球とは真空管のことで、これは真空管アンプのオーディオ機器を愛する人たちの超マニアックな雑誌なのだ。今どき真空管アンプを使って音楽を聴いている人が世の中に何人いるのだろう。

さて、卓球王国とどっちがマニアックだろうか。

ちなみに、料理王国も管球王国も卓球王国より2,3年創刊が早い。他にファミコンマンガ王国というのもあるようだが、よくわからん。

小さい本屋なのに、どちらにも池田大作のコーナーがあるので、もしやと思って聞いてみると、やはりオーナーが創価学会だという。いつもながら創価学会のパワーには感心させられる。

うつ病の話

夜中の恐怖心のところでうつ病について書いたら、うつ病の経験がある知人からメールが来た。

うつ病はむしろ死にたくなるので、死への恐怖はないそうだ。それどころか、永遠に誰も死なない世界の方がとてつもなく怖ろしく感じるという。そういえばそうかもしれない。

卓球社長

私は島本和彦のマンガが大好きだ。

とにかく大げさで古い絵だが、出てくる台詞の屁理屈がなんともおかしい。うっかりすると本気の台詞にも読めるのだが、分かる人にはギャグだとわかるように微妙にひっかかる台詞になっているのだ。

その島本和彦が、ビックコミック増刊号に6話だけ描いたのが傑作『卓球社長』だ。青年誌に「オギムライチロー」という単語が出てくるのだから、そんなもん、問答無用で買うに決まっている!

話は、卓球が大好きな社長がいて、何かというと卓球で勝負を決めようというバカバカしい話だ。島本は卓球はろくに知らないと見えるが、そのわりによく描けていると思う。あまり有名でもないと思うので、一応、貴重なコレクションだ。

夜中の恐怖心

いつの頃からか、眠りがけとか夜中に目が覚めたとき、強烈な恐怖心に襲われるようになった。それは、自分はいつか必ず死ぬという事実についての恐怖だ。初めてこれを思ったのは二十歳ぐらいのときだったろうか。以来、夜中に目を覚ますと、ときどきこういう心理状態になる。

そのときに考えることは、「人間は必ず死ぬ、自分がなくなる、こんな怖ろしいことにどうして今まで気づかず平気で暮らしていられたんだろうか、みんなもどうして平気なのだろうか、俺たちは全員いなくなるのに」というものだ。

しかしこの恐怖は、ひとたび目を開けて起き上がったりするとたちどころに消えてしまうし、もちろん日中にこのような考えになることはない。日中に死について考えても「寝るのと同じことだ。それなら毎日やってるじゃないか。そのときに後悔しないように楽しいことをやればいい。人類も動物も延々と死に続けてきたじゃないか。自分だけ特別に考える必要はない。」と思う。前向きだ。しかし夜中にはこう考えてもそうは思えない。だから「大丈夫、こう思うのは今だけだ。明日になれば恐怖はなくなる」と自分に言い聞かせるしかない。そしてそのうち寝てしまう。眠れなくなることはなく、必ずすぐに寝てしまうのだ。

だからこれは夜中の半分ねぼけた脳が作り出す特別な心理なのだと思う。

ただ重要なのは、夜中にこの恐怖に襲われるときでも、なんら事実誤認はないということだ。いもしない化け物が襲ってくるとか、確率が低い大地震を心配するとかではない。100%確実な死についての恐怖なのだ。ただ人によってそれが遅いか早いかだけの違いだ。なるほどこう考えると、むしろ平気で暮らしている人の方がおかしいといっても良いくらいだ。理屈で考えればこうなってしまうのだ。

だから何かの拍子に、こちらの考えの方が日常になったらそれこそ怖ろしいことになる。そうなったらもはやまとに生活はできないだろう。それほどの恐怖なのだ。もしかしてそういうのが続くのがうつ病なのだろうか。大変なものである。

また夢の話(石川佳純版)

今度はなんと石川佳純のベンチコーチに入った夢を見た。普段卓球のことをそれほど考えているわけでもないのに(普通の人よりは考えてるけど)、どうして夢となるとこういう夢なのだろうか。

ともかく、石川佳純だ。相手はよく覚えていないが、たしか羽佳さんあたりだったような気がする。どうしてよく覚えていないかというと、私はろくにアドバイスをせず、なぜか石川に出身県を聞いたのだ。しかもあろうことか「石川だから石川県かな?」と聞くという体たらくだ。しかしこれはギャグでもなんでもない。論理の破綻した夢の中で私が保ったギリギリの論理性がこれだったのだ。

石川は違うと言い、実は広島出身だという(私の義姉が広島にいるからに違いない)。そこで私が思ったことは、広島はかなり暑いはずだから、石川が色白なのはおかしい、本当は赤ら顔で、それを化粧で隠しているのではないかということだった。

「ええい、それがどしたーっ!」と言いたくなるような夢であった。

荻村伊智朗の伝記

卓球の本を集めて久しい。

これまでいろいろな卓球の本を買ったりもらったりしたが、その中でも特別貴重な本が、荻村伊智朗の伝記『荻村伊智朗 スポーツ界伝説の人物とその世界的使命』だ。

シェリル・ロバーツという人が1993年に発行したもので、私は日本語版と英語版を持っている。こんな貴重な本をいったいどこから入手したのか定かではないが、ひとつは大学の卓球同好会の先輩で米谷さんという人が、DVDのお返しに送ってくれたものだ。

この本、内容はまあ普通なのだが、もの凄いのが挿絵だ。表紙は写真を写しただけあってまともなのだが、他の絵が凄すぎである。下手ウマとかそういう問題ではない。なにもかもが奇妙に歪んでいて、一度見たら忘れられない強烈な絵だ。右下の絵も、荻村がカバンに手を入れているところだが、あまりに顔が怖いため、なんだかエスキモーがアザラシの腹かっさばいて手を入れているかのようだ。さらに、いくら文章を読んでも、この挿絵に該当する場面が見当たらない。いや、そもそも何をしているところなのかさっぱり分からない。

まったく素晴らしい本だ。

どちらの頭が固いか

よく、科学者は頭が固いと言われることがある。とくに、超能力や幽霊などのオカルト談義になると、そういうものを証拠がないと認めない科学者に対して固いと表現されることがある。しかしこれは事実だろうか。

興味深い実験がある。ある大学で、学生を集め、占星術を信じるグループと信じないグループにわけ、それぞれに対して、その信念に反する実験結果を捏造して見せたのだ。つまり、占星術を信じるグループには、星座と運勢が関係がないデータを作って見せ、信じないグループには逆のデータを見せたわけだ。

実験の目的は、これらの人たちが、自分の信念と異なる事実を突きつけられら時に、信念を変えるのか変えないのかを見ることだ(それにしても意地悪な実験だ。さすが科学者)。

結果は見事に分かれた。占星術を信じないグループの人たちの多くは信念を変え「占星術には何かあるかもしれない」と考えを改めたのだ。それに対して、占星術を信じるグループの人たちは「これはたまたまだ、データがおかしいんだろう」と言う具合にデータを認めず、信念を変えることはなかったのだ。

どちらが頭が固いのか明白だろう。オカルトを信じている人たちは、どんな否定的な証拠をつきつけられても、それとは関係なく信じたいから信じるのである。ただし、オカルト否定派の中にも理由もなく闇雲に否定する人たち(大槻教授みたいに)がいるが、これも否定したいから否定しているだけであり、信念の方向が違うだけで信者と同じ穴のムジナである。

そもそも、科学者の仕事は定説を覆す新事実の発見が主なわけだから、頭が固くては科学者としても全然ダメなのだ。だから、科学者が頭が固くて理論に合わないことを認めないというのは間違いだ。科学者の神様は信念や理論ではなくて「事実」なのだ。

クラッシュについて

クラッシュがどのようにチンピラなのかあるいはチンピラではないのか、ちょっと説明したい。あの映像だけで誤解されるのもまずいので。

ともかく、箇条書きにしてみる。

・クラッシュの歌はラブソングはほとんどなく、1人称で書かれた社会や政治についての歌ばかりである。先に紹介した映像も「白い暴動(white riot)」という曲で、「白人の暴動を、自分自身の暴動を起こせ、コントロールする側になりたいのか、される側になりたいのか、自分で決めろ」というような歌だ。
・メンバーは喧嘩早く、ちょっとしたことで殴り合いの喧嘩をする
・普段から過激なファッションをしているのみならず、ガンをつけたりもするので、明らかに近づきたくない人たちである
・ドラムがサウンドの要と考えるリーダーのジョーは、ドラマーをオーディションでロンドン中を探したが、200人までオーディションをしたことは覚えているという。その末に見つけたのがトッパーだった。
・ジョーは、ギターのミックを「時間を守らない」という理由で、ドラムのトッパーを「ヘロインに手を出した」という理由でクビにし、それによってバンドとしての力が落ち、解散につながった。「メンバーがドラッグをやっているのに『ドラッグを止めろ』という歌を歌えるわけがない」と語った。
このように、チンピラといっても、本人たちとしてはものすごく真面目なのだ。しかも一般的な不良少年と違って「外見は怖いけど仲間内ではいい奴」ではなくて、なんだか本当に殺伐としていて、自分の信念のためには仲間を犠牲にすることも厭わないような奴らなのだ。つまり、日本で言えば不良やツッパリ(死語)ではなくてどちらかといえば学生運動の過激派というところだろうか(これとても私は全面的には認められないが)。

これに対して菅生のロックンロールオリンピックでDJが語った「女の子の一人も守れねえのかよ」「どうせお前ら就職するんだろ」というセリフは、甘えと通俗モラルが正体の見掛け倒しの反逆精神であり、私の知っているロックと正反対のものだった。だからやたらと腹が立ったのだった。

パンク

私はロックが好きだが、そのくせ、マスコミなどで「ロック魂」「生き方がロックだった」などという表現を見ると、何か気恥ずかしい気持ちがする。今、こう書いていてもとても居心地が悪い。

それは、世間一般に思われているロックのイメージが「不良」「暴力」「粗暴」というものであり、私はもともとそういうものは嫌いだからだ。ニュースなどでロックという言葉が出てくると、ロックを肯定する内容であっても「本当はバカにされてるんじゃなかろうか」と思ってしまうのだ。

困ったことに私がもっとも好きなのはパンクロックという種類のロックで、もっとも過激で暴力的なロックなのだ。1977年のこの映像を見てほしい。
http://www.youtube.com/watch?v=TwUpZDf3aDA
技術も何もない、勢いだけなのだが、私はこのバンド、クラッシュに完全にノックアウトされているのだ。
ジョー・ストラマーのギターはただ痙攣しているだけだし、ポール・シムノンのベースはかっこばかりつけていてろくに弾いてないように見えるし、ミック・ジョーンズのギターは「もう一回同じフレーズ弾けねえだろ」と言いたくなるようなめちゃめちゃさだ。そこがかっこいい。

さて、私が否定している不良少年と、私が肯定しているクラッシュは何が違うのだろうか。彼らはただ音楽の才能があっただけのチンピラなのだろうか。そうは思いたくないが、実はそうなのかもしれない。

さらにこうも考える。クラッシュはロック史に残る偉大なバンドだから私は認めているが、もし今、同じ質の若いバンドが日本で登場したら、私はその価値を素直に認めることができるだろうか。できないような気がする。

この矛盾がどうにも困るのだ。

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