月別アーカイブ: 5月 2011

イエス様の降臨

飲み会ではもう一つ可笑しいことがあった。

飲み会の目的は、職場異動や退職をする人たちの送別会だったのだが、送別される本人が飲むとすぐに寝る人で、飲み会が始まって間もなく完全に意識を失ってしまった。

最後の記念品贈呈のときもまったく起きる様子がなく、ついには本人の意識がないままに床に寝せて記念品贈呈と記念写真を撮ったのだった。記念写真をとるためにみんなに囲まれた様子が、まるでゴルゴダの丘から運び降ろされたイエス・キリスト様のようで可笑しくてしかたがなかった。

この彼は、飲み会では毎回これで、本人は飲み始めたところまでしか記憶がないのが常だという。さらに、家でも毎晩酒を飲んでこのような状態になっているのだという。なんとも凄まじい人だ。これも、日本全国いたるところで繰り広げられる心温まる光景だ。

職場の飲み会で卓球談義

昨夜は職場で飲み会があったのだが、とても奇妙な体験をした。

卓球のことはほとんど知らないという同僚が「日本の卓球はなぜ中国に勝てないのか」と私にからんできたのだ。彼が言うには、卓球は四角いのと丸いののたった2種類のラケットしかない。ラバーも赤と黒しかない単純なゲームなのになぜ返せないのだとのことだ。

ロッテルダムで福原が中国のカットマンに負けた試合について「カットなんてのは俺が中学校の頃から卓球部のやつらが言っていたことだ。それを未だに返せないとは卓球の戦術は進歩していないじゃないか」などと言う。

なにしろベロンベロンに酔っ払っていて、なおかつ根本的に卓球を理解していないので、彼の力説ぶりがとても可笑しかった。

感心なのは、彼の高校生の娘さんは卓球をやっていないのに卓球ファンであり、日本だけが「後加工禁止ルール」を守って損をしているなどと踏み込んだ話をするのだそうだ。偉い女子高生もいたものである。

彼は別に卓球に文句をつけようとしているわけではない。ロッテルダムで岸川・福原組が銅メダルを獲ったときは家族で祝杯を上げたというほどの熱い男なのだが、根本的に卓球を知らないだけなのだ(それで熱くなれるというのも不思議だが)。

さてこの宴会でくだを巻く大人の姿、まだお酒を飲んだことのない青少年のみなさんから見て、楽しそうで羨ましいのか醜悪なのかどちらだろうか。なお、彼はこの後、2次会を前にして猛烈に具合が悪くなり、姿を消してしまった。

日本全国いたるところで繰り広げられる心温まる光景だ。

オバマ大統領とキャメロン首相が卓球

今日、仕事をしていたら今野編集長から電話がかかってきた。
「条太さん、ヤフーのトップニュース見た?」
なにやら緊急のようだ。
「見てませんけど、何ですか?」
「いや、自分で見てください。ビッグニュースですよ!」
胸騒ぎがする。蔡振華が脱税で捕まって自殺したとか、はたまた米国大リーグの最終戦を仙台での卓球勝負に決定したとか、何か途方もないことが起きたのだろうか。

「今、パソコンを見れないんで、教えてください」
「ダメ。自分で見てください。びっくりしますよ。」
「待てませんよそんなの!ぜーったい今教えてください!」
「しょうがないなー。あのね、ヤフーのトップニュースでね、オバマ大統領とキャメロン首相が卓球してるんですよ」
「ああ、そうですか。それで・・ええっと・・何ですか?」
「いや、それだけなんだけど。卓球は国境を越えたってことで。ガシアン、シーラ以来の左左のペアだし。」
「あー・・。そうですか。あー。」
「何そのガッカリした感じ。なんかムッとするんだけど」

というようなやり取りがあったのだった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110525-00000802-reu-int

ともかく、英国を訪問したオバマ大統領がキャメロン首相と卓球をしたようである。

「スーッ」

今朝、会社に入るときに、守衛さんたちが「おはようございまーす」と挨拶をしているのに対して、社員たちがどのように返事をしているか耳を澄ましてみた。

一番多いのは「おはようございます」を省略して、その最後の音だけを「スーッ」と発音する人だ。

以前、アメリカから長期出張に来ていた人に「スーッてどういう意味なんだ?」と聞かれたことがある。そこで私は、真面目ぶって「あれは19世紀の産業革命の象徴である蒸気機関の、蒸気が漏れる音を再現しているんだ。自分が朝からエネルギーに満ちていることを表現しているんだよ」とデタラメを教えてやったものだった。

今朝、そのことを思い出して、よくもそんなバカバカしいことを言ったもんだとニヤニヤしながら歩いた。どこにいるよそんな奴。だいたい漏れちゃダメだろ蒸気。

もちろん私は普通に「おはようございます」と言う。

水谷の偉業

水谷の世界ランクが6位になった。たいしたものだ。メダルを取れなかったことを嘆く人もいるだろうが、世界選手権の男子シングルスでベスト8に入ったというのはもの凄いことなのだ。帰化選手である吉田を除くと、日本生まれの日本人が世界選手権の男子シングルスでベスト8に入ったのは、1985年エーテボリ大会の宮崎義仁までさかのぼらなくてはならない。実に26年ぶりの偉業なのだ。そしてもちろんこの成果は、世界選手権だけではなく、年間を通した大会での活躍で世界ランキングを上げ、有利なシードをもらったことなどを積み重ねた成果なのだ。

その上での世界ランク6位だ。日本男子が世界ランク6位以上だったのは、1983年の斎藤清の5位までさかのぼる。この斎藤と先の宮崎を除くと、1984年から2008年までの25年間、世界ランク20位以内に入った日本生まれの日本選手は一人もいないのだ(各年末時)。

水谷の偉大さを讃えるとともに、これだけの競技人口と熱心な指導者がいるにもかかわらず、この成績だということは、日本の卓球にはよっぽど大きな欠陥があるものと思われる。

とりあえず水谷のことが携帯のニュースで取り上げられたので嬉しかった。

仮設住宅

町内の家の前の通りに公園があるのだが、そこに仮設住宅が出来始めた。

連休中も休み無しでずっと工事をしていた。震災前はこんなところに仮設住宅が作られるとは想像もできなかった。

藤原くんのチャオズ

昨日、例のアルマジロを描いた藤原くんが「あんなに自分の絵をブログに載せるなら著作権料をもらわないと」などと言ってきたので、著作権料を払わないかわりに彼の最高傑作を再び載せることにした。

宴会のゲームで「ドラゴンボールに出てくるチャオズというキャラクターを描け」というのが問題だったのだが「チャオズなら知ってます」と言って藤原くんが描いたのが下の絵だ。

巣晴らしすぎる。なお、右は本物のチャオズだ。

熱いお便り2

卓球レポートの蔵書を見ていたら、なんと田村氏、ボルの他にも似顔絵を描いて投稿しているではないか(この他にメイスもあった)。ボルを神と崇めていながらこのような浮気をするようではその信仰心を疑われても仕方があるまい。しかも長野県に就職してからの方がイラストの腕も上がっているようだし。

ちなみに、田村氏によると、田村が描いた私の似顔絵にはとてつもないスゴみがあり、パワーが感じられるとのことだ。私も同感である。

熱いお便り

私がロッテルダム大会の速報チームhttps://world-tt.com/ps_info/ps_report.php?bn=132
に熱い写真を送りつけているのと同様に、私にも読者から熱いメールが届いた。

田村直洋という人で「条太さんの弟子の田村さんと親戚ではありません」とわざわざ断り書きをしてきた。彼の文面をそのまま紹介しよう。

「水谷の優勝を公言される条太さんには申し訳ないですが、今回こそはボルがシングルスで優勝します。王皓、馬龍を下した水谷と、張継科を下したボルとの決勝で、4-3でボルが劇的な優勝を遂げる、というシナリオです。ドイツ初のシングルス世界タイトルをもたらしたボルは、国民的英雄になるのです。
非国民などと言われそうですが、私の中でボルは特別な存在なのです。私が高校で卓球を始めたとき、若干18歳であの天才ワルドナーを倒したボル。僕の卓球は、常にボルの成長とともにありました。ボルは私の見本であり、憧れであり、神であります。そのボルの集大成とも言うべき大会がロッテルダムなのです。今回ばかりは、譲れません。」

ということである。譲るも譲らないもないと思うが、いやはやなんとも異様な迫力である(むしろアブないんだが)。彼はボルを神と崇めている証拠に、卓球レポート誌に何度もボルの似顔絵を載せているのだという。さっそく蔵書を調べてみると確かに載っていた。

私も人のことは言えないが、いろんな形の卓球ファンがいるものである(はたして卓球は練習しているのであろうか?)。

絵画指導2

指導と言っても、手取り足とり描き方を教えたのではない。考え方を示しただけだ。

私の考えでは、絵が苦手な人というのは、何かを見ながら描いたときに対象物の形を上手く再現できないことに失望し、自分で嫌になって途中から対象物を写し取ることを諦めて簡単な直線や曲線を引いてお茶を濁すか、途中で止めてしまう傾向があるのだ。

これは彼らが、絵を描く目的が対象物を再現することだけにあると思い込んでいるからだ。似顔絵描きや商用ポスターならともかく、絵の魅力は対象物の再現ではない。そもそも絵を見る人は対象物の実物を知らない場合も多いのだから、似てるとか本物みたいだとかいうのは実はどうでもいいことなのだ。対象物は単なるきっかけに過ぎない。もちろん対象物に何らかの思い入れがあればなお結構だが、その程度のものなのだ。

プロや芸術家を除けば、ある程度味のある絵を描くことは実は簡単である。それは、どんなに対象物に似なくても気にせずに対象物をよく見ながら諦めずに最後まで描き込むことだ。注意しなくてはならないのは、絶対に簡単な線や類型化した図形に逃げないことだ。たとえ何を描いているか分からないほど形が崩れても、その線が類型ではなく独自の線であれば、それは情報量の多さを示し、見るに耐えうる絵となる。人物画ならシワとかシミをしつこく描き込めばもうバッチリである。決してマンガのような類型化したパーツを描いてはいけない。

もちろん、このようにして描いた絵にも魅力的なものとそうではないものがあるだろうが、それは仕方がない。私が言っているのは、それよりずっと手前の「田村のアルマジロ」のような絵しか描けない人に対するアドバイスなのだ。

以上のようなことを講釈すると、田村も杉浦くんも「そういう考え方は初めて聞いた」と語った。私も聞いたことはないのだから当然だ。

このようなアドバイスをしてから田村に「俺の顔をよく見ながら描いてみろ」と言った。田村は10分ほど集中して絵を描き上げ「これまでの人生でこれほど真剣に絵を描いたことはない」と語った。それが下の写真だ。頭のいびつさと唇のゆがみ具合がなんともいえず味わい深く見事である。素晴らしいと言ってよい。絵が下手な人の絵には見えない。こういう絵でいいんだと本人が思えれば、絵はどんどん楽しくなるのになあと思う。

もっとも私自身は、対象物を再現する写実画が得意であり、その余裕が、歪んだ絵を面白がることにつながっているという面は否定できない。しかし、写実画を描けない人の不可避的に歪んだ絵が、たまたまではあるにせよ、魅力を発することもないとは言えないと思うのだ。

田村も杉浦くんも田村の描いた私の顔を「ただの下手な絵にしか見えない」と語ったが、この絵を面白いと思えないところこそが「絵心がない」ということの正体なのではないかと思うがどうだろうか。

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