月別アーカイブ: 9月 2010

卓球熱心なスタン

アメリカではとにかく卓球人口が少ないので、その中で卓球をし続けている人というのは、並の卓球好きではない。並の卓球好きでは、練習相手がいないのでとても続かないのだ。

スタンは休憩中も卓球理論について大河さんと熱い議論を交わしていた。

今住んでいるフロララは、卓球をする人がスタン以外には一人もいないので、もっと卓球人口の多いデカーターというところに引っ越すと言っていた。仕事を引退しているとはいえ、卓球をするために引っ越すというのは日本ではちょっと考えられない話だ。

大河さんとスタンの家で卓球合宿

先週末、スタン・郁美さん夫妻の家に卓球をしに行ってきた。

3月頃に、これで最後になるだろうと思いながら家族で行ったのだが、結局、その後3回も行くことになったが、さすがに来週帰国なので、これが本当の最後である。

今回は、アトランタ在住の大河さんという方も合流をして一緒に泊めていただき、なかなかハードな卓球合宿となった。大河さんも日本から単身赴任している人で、もう1年半ぐらいアトランタに住んでいるのだが、お会いするのは今回が初めてだ。
ペンサコーラというところでの試合会場でスタン・郁美さんと知り合い、そこから私に紹介されたのだが、なんと話してみると大学が私と同学年で、しかも東北大と毎年定期戦をやっていた東大卓球部のOBであることがわかり、驚いた。しかし私は大学では3年から卓球部に入ったのに対して、大河さんは3年から引退気味であり、ちょうど入れ違いであった。唯一、3年のときの九州大学での試合に二人とも参加していたことがわかったが、どちらも有名選手ではなかったため、お互いに見覚えがないという悲しい話である(二人とも顔もかなり変貌していると思われる)。
レベルの低い国公立大学の、さらに無名選手なのだから「どこに出しても恥ずかしくない無名選手」であることがお分かりいただけることと思う。

大河さん、お会いしているときは気づかなかったが、写真を見ると中国男子監督の劉国梁に似ていると思うのは私だけだろうか。

気持ち悪くなった

「コクのたれ」は、結局、ご飯にかけることはしなかった。

「異常に美味い」とブログに書いた後、口の中で舌に残った油分が徐々に生臭い味に変わってきて、しまいにはとても気持ち悪い状態になってしまったのだ。一度冷蔵庫にしまった「コクのたれ」だったが、まるで憎むかのようにゴミ袋に投げ捨てた。

コクのたれ

今日の夕飯はカップラーメン『一平ちゃん』を食べた。

ここいらではラーメン店などないので、ときどき日本食材屋で買うカップラーメンがとても貴重なのだ(ただし2ドル以上の高価である)。

今日はそれにたっぷりの海苔を入れ、さらに生のニンニクを刻んで入れて食べたのだが、意外にもあまり美味しくない。体調が悪いために味がよくわからないためなのか、あるいはカップラーメンに対する期待が強すぎたのだろうかと思いながら、最後の汁を飲み干した。

カップを捨てに台所に行くとカップラーメンを開けたあたりに「コクのたれ」があった。入れ忘れたのだ。過去にも2回ぐらいやったことがあるが、なんとも悔しい。今さらこれだけ飲むわけにも行かないし、他にカップラーメンもないし、そもそも不本意ながら満腹である。あんまり悔しいのでちょっとだけ開けてなめてみると脂っこくて異常に美味いので、明日の朝食でご飯にかけることにした。

ああ悔しい。

「俺たちは変わってるよな!」

日本人は自分を変わってると思いたがらないと書いたが、一方で、その反対のこともよく経験する。

クラスやクラブ、あるいは会社の同期など、なんでもいいがそういうある集団で、自分たちがいかに変わった特別な面々であるかを内輪で得意になって話すのをよく聞くのだ。最初に私がそれを感じたのは、小学校のときのクラスだ。先生が「このクラスはユニークだ」などとと言うと私はもともとそういうのが嬉しい性質だから喜ぶのは当然にしても、他の人たちもそれが嬉しいらしく、自らそういうことを言うようになったのだ。これは中学のクラスも同じ、高校、大学、社会人になっても同じだった。「うちには変わり者が多い」と。自分は普通だけど他のメンバーが変わってるんだ」「一番変わってるのがお前だろ」とお互いに言い合う儀式のようなやりとりまでそっくりである。私は普段から変わり者であることにこだわっているので、こういう茶番劇のような視野が狭いエセ変わり者発言を聞くと、なんとも恥ずかしいようないたたまれない気持ちになる。なぜなら、こういうことを内輪で言い合う姿こそが、いやになるくらいに平凡そのものだからだ。

こうしてみると、日本人も結構変わり者願望があるのではないだろうか。ただそれが、先に書いた「他人の目を気にする」のとどう両立しているのかがよくわからない。何かの本で読んだが、ある日本人が外国人に日本人の独特な点を聞いたところ「そうやって自分たちの特別なところを外国人に聞きたがるところが特徴だ」と言われたそうだ。そういえばそんな気もする。変わり者に見られたくないのに、少しだけ変わり者に見られたいのだ。ううむ。よくわからん。

どこかに「俺たちは本当に普通だよな。これぐらい普通のやつしかいない集団ってのも珍しいよな」「ああそうだ普通だ」などと、ひねくれたことを言う頼もしい奴らが出てこないものだろうか。

悪口

先に、面と向かって「変わってる」と言われるので多分悪口ではないんだろうと書いたが、悪口というものについては、面白い考察がある。

他人の悪口というものはよく言うものだが、男と女ではひとつ明確な違いがある。それは、誰かが他人の悪口を言ったのを聞いたときに、それを悪口を言われた本人に伝えるかどうかだ。そういうことをする男は、今までの人生でたった一人しか見たことがない。まず、悪口を言う人は本人に伝えられる前提では話していないので、伝えたりしたら悪口を言った人に対する裏切り行為になるので、その人からの信頼を失う。また、伝えられた人にしてみても、悪口を言った人よりもむしろそれを伝えた人の道義心のなさにあきれ果てることだろう。こう考えると、本人に伝えるメリットなどどこにもないし、あり得ないことのように思える。これが私の感覚だし、多くの男性はそうだろう。

ところが、妻と結婚してしばらくして知ったのは、女性同士の間では、恐ろしいことにこれが当たり前のように行われているというのだ。どういうつもりで伝えるのか聞くと「あの人はあなたのことをこう言っていた。あの人には気をつけたほうがいい。私はあなたの味方だから教えてやっているんだ」というニュアンスらしい(もし男がこんなことを言われたら、気をつけなくてはならないのは目の前のその人だと誰でも思うだろう)。またあるときは、そういう建前のもとに実は本当は自分も悪口を言った人と同じ考えで、その人をいじめる意図の場合もあるという。また、悪口を言った人も、本人に伝わることをある程度想定してイジワルで言っているという。まあ、自分も伝えることがあるんだから当然だわな。しかも一見仲のよさそうな人同士もお互いに影で悪口を言い合うので、いったい、誰と誰が本当の見方で敵なのか入り乱れていてまったくわけがわからないのだそうだ。

これほどまでに男と女は違うものかと愕然としたものだった。

「変わってる」話

日本にいたときに聞いた話だが、アメリカ人は自分が他人と違うと思いたがるというのがある。日本人なら、美形の映画俳優や女優に似ていると言われれば誉められたと思って喜ぶが、アメリカ人は「自分が似てるんじゃない。その俳優が自分に似てるんだ」と言うという具合だ。

こちらでアメリカ人と話してみると、たしかにそういう傾向はある。先日、マリアンのボーリングの投げる格好を真似たところ「ありがとう」と言われた。私は戸惑って「どうしてありがとうなんだ」と聞くと、「真似されるということは私が特別な何かを持ってるということだからだ」という。「格好悪いところを真似してもか」というと「良いか悪いかに関係なく、とにかく自分が他の人と違うことが大事なんだ」という。

そういえば他のアメリカ人にアメリカ人の習慣について聞いたときに「自分は普通のアメリカ人じゃないから多分参考にならないと思うよ」と何人もから聞いた。普通のアメリカ人がどこにもいないのだ。なんと不思議な話だろうか(笑)。誰もが自分は変わり者だと思いたがっているのだ。これは小さい頃から学校などでそのように教えられているからだろう。子供たちの学校での様子を聞くと確かにそういうことを吹き込まれているらしい。

日本人が小さい頃から「みんなにどう思われるかわからない」などと言って他人の目を気にするように教育されるのとは正反対だ。

私もそのように育ったはずだが、なぜかアメリカ人と同様、小さい頃から他人と違う変わり者であると思われることが嬉しかった。いつも母親が「変わり者だなお前は」と嬉しそうに言っていたからのような気もするし、偉人の天才たちが変わり者が多く、そういう人たちに憧れてそう思うようになったような気もする。

それで、常になるべく変わり者だと思われるようなことを言ったりやったりするので、みんなからは目論見どおりに「変わってる」と言われている。しかし私は不当に高い評価をされるのは居心地が悪いので、正直に「これはわざとやっているので、本当は全然変わり者ではないんだ」と説明している。ところが他の人たちは自分が変わり者だと思われるのが嫌なもんだから私が変わり者だと思われるのが嫌で抗弁をしているようにとられるのだ。「俺は自分が本当に変わり者だったらどんなにいいかしれないが、残念ながら普通なんだ」と言っても「ウソつけ、お前は変わり者だ」と言われるのだ。なんとかならないもんだろうかこのねじれた会話を。

それで、あるとき「変わり者だと思われたいと思ってる時点で十分変わり者だ」と言われたので、それもそうだと納得して嬉しくなったものだった。しかしここアメリカではどいつもこいつも変わり者だと思われたがっているので、その点ではたちまち私はその他大勢に埋没してしまい、がっかりである。

ところで「変わってる」といえば、会社に入ってしばらくすると、ある人たちが、自分の嫌いな人のことを「変わってる」と悪口として言うことを発見して非常に面白く感じた。「嫌いだ」とはっきり言うのが嫌なもんだから、表向きは良し悪しを避けて「変わってる」と表現して暗に非難するのだ。面白い言い方があるものだと思う。もちろんこれは、本来の意味の「変わり者」を描写するときとは違う。だいたいそういうときは声のトーンを落として冷笑する感じで言うのでわかるのだ。

さすがの私も他人から嫌われたいとは全然思っていないが、私の場合は面と向かって「変わってる」と言われるのでたぶん悪口の意味ではないんだろうと思う。

「変わってる」といえば、私の実家のあたりでは、食べ物が腐りかけた状態のことを「変わる」と言う。冷蔵庫に長い間入れておいた牛乳の臭いを嗅いで「ダメだ、変わってる」という具合だ。さて、これは標準語の用法だろうか。

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