「変わってる」話

日本にいたときに聞いた話だが、アメリカ人は自分が他人と違うと思いたがるというのがある。日本人なら、美形の映画俳優や女優に似ていると言われれば誉められたと思って喜ぶが、アメリカ人は「自分が似てるんじゃない。その俳優が自分に似てるんだ」と言うという具合だ。

こちらでアメリカ人と話してみると、たしかにそういう傾向はある。先日、マリアンのボーリングの投げる格好を真似たところ「ありがとう」と言われた。私は戸惑って「どうしてありがとうなんだ」と聞くと、「真似されるということは私が特別な何かを持ってるということだからだ」という。「格好悪いところを真似してもか」というと「良いか悪いかに関係なく、とにかく自分が他の人と違うことが大事なんだ」という。

そういえば他のアメリカ人にアメリカ人の習慣について聞いたときに「自分は普通のアメリカ人じゃないから多分参考にならないと思うよ」と何人もから聞いた。普通のアメリカ人がどこにもいないのだ。なんと不思議な話だろうか(笑)。誰もが自分は変わり者だと思いたがっているのだ。これは小さい頃から学校などでそのように教えられているからだろう。子供たちの学校での様子を聞くと確かにそういうことを吹き込まれているらしい。

日本人が小さい頃から「みんなにどう思われるかわからない」などと言って他人の目を気にするように教育されるのとは正反対だ。

私もそのように育ったはずだが、なぜかアメリカ人と同様、小さい頃から他人と違う変わり者であると思われることが嬉しかった。いつも母親が「変わり者だなお前は」と嬉しそうに言っていたからのような気もするし、偉人の天才たちが変わり者が多く、そういう人たちに憧れてそう思うようになったような気もする。

それで、常になるべく変わり者だと思われるようなことを言ったりやったりするので、みんなからは目論見どおりに「変わってる」と言われている。しかし私は不当に高い評価をされるのは居心地が悪いので、正直に「これはわざとやっているので、本当は全然変わり者ではないんだ」と説明している。ところが他の人たちは自分が変わり者だと思われるのが嫌なもんだから私が変わり者だと思われるのが嫌で抗弁をしているようにとられるのだ。「俺は自分が本当に変わり者だったらどんなにいいかしれないが、残念ながら普通なんだ」と言っても「ウソつけ、お前は変わり者だ」と言われるのだ。なんとかならないもんだろうかこのねじれた会話を。

それで、あるとき「変わり者だと思われたいと思ってる時点で十分変わり者だ」と言われたので、それもそうだと納得して嬉しくなったものだった。しかしここアメリカではどいつもこいつも変わり者だと思われたがっているので、その点ではたちまち私はその他大勢に埋没してしまい、がっかりである。

ところで「変わってる」といえば、会社に入ってしばらくすると、ある人たちが、自分の嫌いな人のことを「変わってる」と悪口として言うことを発見して非常に面白く感じた。「嫌いだ」とはっきり言うのが嫌なもんだから、表向きは良し悪しを避けて「変わってる」と表現して暗に非難するのだ。面白い言い方があるものだと思う。もちろんこれは、本来の意味の「変わり者」を描写するときとは違う。だいたいそういうときは声のトーンを落として冷笑する感じで言うのでわかるのだ。

さすがの私も他人から嫌われたいとは全然思っていないが、私の場合は面と向かって「変わってる」と言われるのでたぶん悪口の意味ではないんだろうと思う。

「変わってる」といえば、私の実家のあたりでは、食べ物が腐りかけた状態のことを「変わる」と言う。冷蔵庫に長い間入れておいた牛乳の臭いを嗅いで「ダメだ、変わってる」という具合だ。さて、これは標準語の用法だろうか。