名前のこと

私はだいたい、他人のものがよく見える性質なのだが、自分の名前だけは小さい頃からとても気に入っている。珍しくてなおかつ読みやすく呼びやすい名前だからだ。いくら珍しくても読めない漢字だったり、「んあ」と発音したり「太郎」と書いて「としゆき」と読ませたりする反則はいただけない。また、たとえ読みやすくても「効果」などという、名前に見えない名前をつけて奇をてらおうというのも反則である。そうまでして珍しい名前にするくらいなら、潔く凡庸に「浩」とでもした方がマシだ。「条太」は誰でも読めてすぐに男子の名前だとわかり、しかも珍しいから気に入っているのだ。もちろん、画数など知ったことではない。

学校の先生にもよく「いい名前だ」とか「ずいぶん立派な名前だからどんな生徒かと思ってたらお前か!」などと校長先生から言われたりしたものだ。

めずらしい名前なので、誰もが私のことを「条太さん」と名前で呼ぶので名字だと思われ「下の名前は何ですか」と聞かれたことが何度もある。あだ名をつけられたことはほとんどない。村上力さんが「じょーちゃん」と呼ぶくらいだ。ここドーサンのアメリカ人で訛りの強い人は「ジオラ」と呼ぶが、これはあだ名とは言えまい(この人たち、tomorrowはルモロウ、todayはルディという感じでtをrのように発音する)。

名前の由来は小さい頃から聞かされてきた。親戚が知人の息子の名前をとってつけたというのだ。その知人は法学者で、息子に名前をつけるときに「世の中は条例で成り立っている。条例に則って太く生きるように」と「条太」とつけたのだそうだ。いかにも法学者らしい話だ(我々卓球人が息子に荘とか郭とか伊智朗とかつけるのと同じだ)。

この話を久しぶりに思い出して「もしや」と思って「条太」をネット検索してみた。すると、山本条太という、ある大学の法学部教授のサイトがあるではないか。この人に間違いない、と思ってその親戚に確認すると、まさにその人であった。私は山本条太さんからとって名づけられたのだ。何か、生き別れになった本当のお父さんを突き止めたような気持ちだ(ちがうって)。

そのサイトでは、当たり前だが「条太さん」という単語がたくさん書き込まれていた。これを見ていると、とても他人事とは思えないのだが、これは他人なのだ(生き別れの父でもない)。