なぜそんなにも指輪を憎んでいるのか自分でもよくわからなかったのでよくよく考えてみた。
結局のところ、何かの世界に入ることを目的に自分を変えるのがとても嫌なのだ。うまく説明できないので、「結婚をしたら指輪をするものだ」に共通する受け入れがたいモノをあげてみる。
・男はプロ野球のファンになる(みんなが野球の話をするので意地でも野球は見ない。しかし野球マンガは読む)
・大きくなったらタバコを吸う(タバコを吸って大人になったような気になることが恥ずかしい)
・大学生になったらマージャンをする(みんながやるので意地でもしない)
・これが本格的だと言って寿司を素手でつかんでネタに醤油をつけて食べる(インド人じゃあるまいしそんな不自然なことはしない。箸を使ってご飯に醤油をどっぷりとつけて食べる。言うまでもなくこれがいちばん美味い)
・運転していて道を譲ってもらったらサンキューの意味でしばし非常灯を点滅させる(非常灯はそのためにあるのではない。そのような言語を勝手に使って悦に入らないでもらいたい)
・飲み屋などで初対面の店主に「これちょうだい」などとタメ口をきく(どこでそんな非礼を身につけたのか)
・両親のことを「おやじ」「おふくろ」と言う。
脈絡がないようだが、わかってくれる人がいるだろうか。私はこういう「比較的みんながやること」が気に入らず、ことごとく拒否してきた。
説明が必要なのは、「おやじ」「おふくろ」だ。「あにき」を加えてもよい。これらの単語は、私の世代にとっては青春ドラマの象徴なのだ。彼らは他人の前でだけでなく、当人に向かってもこのように呼んでいた。「おとうさん」「おかあさん」では幼い感じがして若者ドラマにそぐわないからだ(店員にタメ口をきくのも同じ原理)。家庭内のシーンであっても実際には視聴者に見せているわけで、これはよそ行きの言葉使いなのだ。
現実に父親や母親に向かって「おやじ」「おふくろ」と呼ぶ人は多くはないだろう。いたとしても、小さい頃からではないだろうから、途中からこういう呼び方に移行した時の不自然さを想像するといたたまれない。
当人にはそう呼びかけないけど、他人の前では「おやじ」「おふくろ」と言う人は多い。「父」「母」ならかっこつけも背伸びもない無機質な言葉なのでいいのだが、若い頃は友人たちが「おふくろ」なんて言うの聞くと、なんだかテレビドラマのマネをされているような気がしたものだった。さすがに今は歳もとったので慣れた。
もっともこういう感覚は、地域や世代によってぜんぜん違うだろうから、あくまで私個人の内部の問題である。悪しからず。