田口君が一月に帰任するときに、私と宮根さんにオリジナルカップを作ってくれた。
この世でひとつの大変な貴重な品なので載せておく(なんか言いたくなっても言うんじゃないよ)。
私も世間の人たちと同様、子供の成長記録をビデオに撮影している。その中で、特に気を使っていることがある。
それは、運動会や学芸会などの特別な場面よりも、日常的な場面に力を入れて記録しておくことだ。特別な衣装を着たり、先生に仕込まれて芸をしているような非日常的な様子よりもむしろ、平凡な日常に、どんなことをしてどんなことをどんな風に話していたかこそ、後で振り返ったときに感慨深いに違いないと考えるからだ。
これは簡単なようで、実はなかなか難しい。なにしろ平凡な日常だから、撮影するときにはそのモチベーションがまったくないのだ。あくまで何年も後に見たときの楽しみのためであって、撮影しているときは全然面白くない(趣旨からして面白い場面である必要もない)。だから、撮影したくないのに一種の義務感で無理やりにときどき撮影するわけだ。意思に反してやるので結構苦しい。
しかしその甲斐あって、ときどきそれらの0歳からの記録テープを見ると、なんとも楽しい。兄弟で何事かゲームのことを真剣に話し合っていたり、取っ組み合いの喧嘩をしたり、何気ない日常の一場面が本当に愛しく感じられる。そしてそのような目で見れば、今日このときも、そのような大切な一日のひとつに変わりないこともあらためて実感させられる。
子供の成長記録に限らず、ぜひとも日常場面こそ記録しておくことをお勧めする。何の行事もない2009年のある日、家でどう過ごしていたかというのは、きっと後で貴重な記録になるはずだ。
ドーサンには日本食の食材はあまり売っていないが、車で4時間かけてアトランタに行くと日本人向けの食材店があり、そこでほとんどのものを買うことができる。ちょっと高いが仕方がない。
そこでみつけた納豆だ。「すべての関西人に捧ぐ日本の伝統食」と書いているが、なんだか関西人は日本人ではないかのようだ。
その名も「うまいねん納豆」。粘りが聞いていそうないい感じのネーミングだ。
粘着性ラバーもこういう名前にしたらどうだろうか。
新参者のキラースピンあたりがやってくれないだろうか。「ひっつく粘(ねん)」とかいって(念もいいかも)。
こういう気をてらったネーミングは昔からTSPが得意だ。桂小五郎(後の木戸孝允)の駄洒落で「桂」と「小五郎」という名前の桂材を使ったラケットを出したことがあるくらいだ。
木戸孝允は幕府を倒して日本を明治維新に導いたひとりだが、なんか荻村伊智朗大先生に似てる。http://ja.wikipedia.org/wiki/桂小五郎
うーむ、納豆からここまできてしまった。これぞ独り言の醍醐味。
アメリカ人は人の話を聞くときに、「ハーハン↑」という独特の相槌を打つ。日本人としては「ほう、それがどうした?」というニュアンスにとれて、なんだかバカにされているような気がするのだが、今では慣れて私もやっている。
それよりも抵抗があるのが、何かを聞き返すときの「ハー?」という言い方だ。日本人の感覚だと「呆れて物も言えない」というニュアンスだが、これが標準的な返事なのだ。「ハア↑?」と言う場合もあるが、一定の高いキーで「ハー?」とやられると、突き放したような冷たさが加わって、なんとも嫌な感じがする。さすがにもう言われることには慣れたが、マネする気にはなれないでいる。
妻がバッフェレストラン(日本で言うバイキング)に行き、ステーキを焼いてくれる列に並んだときの話。
店員 「ハウ・ウドゥ・ユー・ライク(焼き具合は)?」
アメリカ人「ミディアム・レア」
店員 「ハーハン↑」
次のアメリカ人「ミディアム・レア」
店員 「ハーハン↑」
妻 「ミディアム・レア」
店員 「ハー?」 (妻 ガクッ)
次のアメリカ人「ミディアム・レア」
店員 「ハーハン↑」
よっぽど悪いんだな、妻の発音。
「良心的」という言葉をめぐって人形俳句写真の義姉としばらく議論をしていた。
議論の発端は、義姉がこの言葉を使ったことだったが、考えてみると私は以前からこの言葉に縁があった。
以前、他人に理解できない理由で怒り出す、ちょっと異常な同僚Aがいた。その同僚と別の同僚Bがある装置の予約について口論となった。その装置は混んでいるので、使う日の使う時間帯だけ予約を入れるのが普通なのだが、同僚Aはさすがにおかしいだけあって「いつ使うか分からないから」という理由で、一週間まるまる朝から晩まで予約を入れてしまった。
これには当然、他の使用者たちが騒然となり、同僚Bが代表して同僚Aを説得にかかったのだった。私は俄然楽しくなって、二人の口論に聞き耳を立てた。
口論の中で同僚Bが「使う時間に対して予備としてどれくらい多めに予約するかは、使用者個々の・・」と言いかかったときだった。同僚Aが突然ブチ切れて「『良心』なんて言ってみろ!ブン殴るぞB!」と絶叫したのだ。「良心」という言葉に脈絡なく反応して激昂するAがなんとも可笑しく、それ以来、この言葉はお気に入りとなった。
よく、商品の値段を安く設定することを良心的ということがあるが、違和感がある。
商品を安く売ることと人間の良心が関係あるだろうか。単に安くして競合他社より売ろうという戦略かもしれないし、欲がないだけのことかもしれない。欲がなくたって良心があるとは限らない。あるいは、買う人から感謝されていい気持ちになりたいという浅はかなエゴのためかもしれない。自分の利益を減らしてでも買う人の幸せを願うためだったたとしても、ライバル他社にとっては迷惑な行為であり、その社員や家族の幸せにはつながらない。良心はあるかもしれないが、その影響は必ずしも意図どおりにはならない。
商品を安く売るのは、結果的に消費者にとって都合がよいというだけのことで、それを良心的と表現するのはなんかおかしいと思う。良心があるとは限らないからこそ良心「的」とつけているのだと言われればそれまでだ。いわば、良心「風」と同じ意味ならよしとしよう。
客を欺かない商売をすることは良心的と表現してよいと思うのだがどうだろうか。あるいはそれが普通で、欺いたら悪人と言う方がしっくりするか。