何ヶ月か前、吉田司という人の『宮澤賢治殺人事件』という本を読んだ。たまたまアトランタの本屋で目について買ったのだった。殺人事件といっても推理小説ではなくて、現実の宮澤賢治を殺して聖者に祭り上げた人たちへの批判本であった。それでも著者は宮澤賢治のファンなのだろうと思って読んでいたが、最後の最後まで著者は賢治を「現実性のない役にも立たない思想を唱えていただけの役立たず」ということを本気で主張していて、全然評価しておらず新鮮であった。私は自分と反対意見の本をあえて読んで自分の論理が対抗できるかをチェックするのが好きなので、全然問題なく楽しく読めた。
宮澤賢治といえば、何年か前に生誕何年とかでやけに盛り上がったことがあった。そのときテレビで、賢治の写真から骨格を推定して、コンピューターで合成して肉声を再現するという試みがあった。その合成した声で「雨にも負けず」を朗読して、賢治を知る存命の教え子たちに聞いてもらうという企画だった。
なかなか気が利いている企画だったが、可笑しいのがその合成の声で、合成の雛形に使った声がプロのアナウンサーによる標準語であるために、発音が極めて明朗でアクセントが完全に標準語なのだ。岩手の100歳近い人たちにそんな話し声を聞かせて「賢治に似てますか」と聞くのは無謀というものだ。案の定、彼らの感想は似てるかどうか以前に「もっと普通に語ったったもな」というものだった。私にはこの「普通」の意味が、すぐにわかってなんとも可笑しかったが、テレビ局の人たちはこの老婆たちの感想の意味が分かったのだろうか。