礼儀作法

先日、祖母の葬式に自分でお経を読んだ友人のことを書いたが、彼は、日常、箸を置くところがない時など、よくご飯に箸を突き立てて妻の顰蹙を買うという。私もこれはよくやる。箸を置くのに適当な場所がなく、手を空けたいときはなんといってもこれが便利だ。また、食べ物を箸でやりとりする「箸渡し」もよくやる。早くて便利だからだ。

これらはいずれも日本では葬式を連想させる縁起の悪い作法としてやってはならないこととされているので、一応私も公共の場ではやらないようにしている。

作法は文化であり、人間関係を円滑にするためのものだから価値は認めるのだが、こういう変な理屈をつけた作法にはどうにも逆らいたくなる。葬式を思い出すというのは、それを葬式の時しかしないからだ。普段から箸をご飯に突き立て、箸渡しをやっていれば、誰も葬式を思い出しはしない。その証拠に、もっと葬式の特徴と合致する、魚を焼いたりフライドチキンの骨をしゃぶるという行為をしても、誰も葬式を思い出さないではないか。

本来、便利な動作を、わざと葬式の時だけすることにして、日常はそれを禁止にするというのがどうにも納得できない。どこかの「気を利かせすぎたバカ」が作った、人間より上に置いた本末転倒なルールのような気がするのだ。

昔は、人口の半分も二十歳まで生きられなかったのだし、盲腸でも死に出産でも高い確率で死んでいて、いずれもその原因がよくわからなかったのだから、それは縁起にでも頼りたくなろうというものだ。だから葬式のときだけする動作を決めて、日常ではそれをやらないようにして「葬式をするハメにならないよう」祈ったのだろう。祈るしかなかったのだからしょうがない。

しかし現代は、科学が発達して、多くのことの因果関係がわかっている。どう考えたって箸の使い方と人の生き死には関係がない。「縁起」というものを楽しい方向に活用するのは良いと思うのだが、便利なことを禁止するネガティブな方向の「縁起」はいただけない。どうしてもそういう縁起を作りたいなら、葬式の時にはもっと珍しい不便な動作をすればよい。

箸を3本もって骨をつまむとか、ご飯に箸を水平に刺すとかだ。そうすれば誰も迷惑を被ることなく「縁起」を維持できよう。だいたい火葬なんて一般人が初めて50年ぐらいしか経っていないのだから、こんな縁起などつい最近、葬式業者か坊主が思いつきで決めただけのことだろう。いわば、バレンタインデーに職場でオヤジに義理チョコをあげるのが礼儀だと思うのと同じようなものなのだ。そんなものに縛られるのはごめんだ。