モリッシーのライブ

先週、なんと仙台でモリッシーのライブを見た。ライブを見たのは95年ぐらいにキングクリムゾンが仙台に来て以来だから17年ぶりのことだ。しかもそれがモリッシーだ。モリッシーとは、80年代に活躍したイギリスのバンド、ザ・スミスのボーカリストだ。過去二回、来日公演を土壇場でキャンセルした実績があり、菜食主義者で肉食を否定しているというなんとも強烈な人だ。

スミスのファンでさえ仙台にそれほどいるとは思えないのに、ましてやモリッシーだ。東北地方から集まったとしても100人ぐらいなのではないかと思ったら、なんとZep仙台がほぼ満員状態で、500人ぐらいはいたように思う。数えたわけではないが。

モリッシーといえば思い出すのは、会社に入って間もないころ、昼休みに売店で注文をして買ったモリッシーのCDを眺めていたら、通りかかった同僚がMorrisseyという表記を見て「おっ、森末か?」と言ったことだ。何で俺が体操選手のCDなど買わにゃならんのだ。第一、出してないだろCD!

モリッシーはやっぱりひねくれたヤツで、「People are the same eveywhere」という曲の前に「どこでも人は同じだって知ってるか?」と客席に聞き、客の一人が「もちろん!」と答えると「ほう。なんで?世界中みてきたのか?ん?・・・すまん、俺は嫌なヤツだな」なんて言っていた。まあ、そういうのもモリッシーらしいので良かったのだが。

驚いたのは、ファンがみんな若く、40代以上に見える人がほとんどいなかったことだ。スミス時代の曲は3曲ほどで、ほとんどがソロになってからの選曲だったのだが、ちゃんと盛り上がっていた。もちろん私は大ファンだから羨望の眼差しで微動だにせずにステージの上のモリッシーを見つめていた。私はどんな曲を聞いても体が動いたりはしない。ただ鳥肌を立てるだけだ。モリッシーを見つめながら思い出していたのは、学生時代に本で読んだ代理錯覚という概念だ。

「代理錯覚-だれか少数の人がなにかやってれば、それをあがめて、自分も(自分は実はなにもやっていないのに)やってると錯覚すること」

もちろん私は当時、ビートルズだのスミスだのに入れあげていてあがめていたので「これは俺じゃないか」と思い、ショックだった。その本は続けた。「復活するべきなのはスターではない。こんど起ちあがり、こんど叫ぶべきなのは、わたくしたち一人々々なのだ」

そんな風に、スター幻想というものについて思いをめぐらせていたおかげで、せっかくモリッシーが近くに来たのに、手を出すのをためらって触れないでしまった。残念だ。

ちなみに、代理錯覚について書いてあったのは、ロック雑誌ロッキング・オンの初期ライターのひとり、岩谷宏による『ビートルズ詩集』のあとがきだ。よりによってビートルズにあこがれる人が読む本にこんなことを書くとは、さすが初期ロッキング・オンのライターだ。