日別アーカイブ: 2013年12月29日

荻村伊智朗の眼力

かつての1980年代、日本には『卓球日本』という日本卓球協会の機関誌があった。そこで荻村伊智朗が毎月、昔話に筆を振るっていたのだ。

1980年12月号では、「世界で最も強かった男」と言われたチェコスロバキアのバーニヤという選手の眼力について書いている。荻村は小学校のときから人を正視する訓練をいやというほど受けていたので、バーニヤの眼力を見て只者ではないことがわかったという話だ。私など生前の荻村に会ったら、一体なんと言われたのだろうか。いろんな意味で恐ろしい(すべてを見透かされても嫌だし、まったく的外れなことを言われて気まずくなるのもまた恐ろしい)。

こうやって面白がりながらも、最後にある、次のような文章には感動で身を震わせてしまう。私にとって荻村伊智朗とはそういう人なのだ。

「勝つ時は誰でも精神が高揚していて、その姿はみごとであり、雰囲気は輝いており、絵になるものだ。負ける時にその精神がいつまでも記憶され、その姿が絵になる選手は本当のチャンピオンと言えよう。世界のチャンピオンでなくともよい。県の、市の、村の、クラスの、たった二人の間のチャンピオンでもよい。ローカルチャンピオンであっても同じである。やがて、だれでもそのチャンピオンの座を降りる時がくる。そのような時、私たちがどのように振るまうかが大切なことなのだ、と私はバーニヤから学んだのであった。」

荻村伊智朗の記事

年末の休みでゆっくりしているので、普段見ないような蔵書を眺めている。そこで目についたのは、以前、大宅壮一文庫に注文をしてコピーを手に入れた荻村伊智朗関係の記事だ。

1991年6月7日の週刊朝日には次のような記事が載った。荻村が亡くなる3年前で、統一コリアチームの女子が中国の8連覇を阻んで大成功に終わった世界選手権幕張大会の翌月の記事だ。

「国際政治のバックステージでロングドライブを放つ五十八歳の信念 荻村伊智朗」だそうだ。

記事ではIOC委員の岡野俊一郎という人の荻村についてのコメントが載っていた。

「とにかく、酒が強くてタフなことに驚きます。北京のアジア大会のときでも、パーティーを終えて、二次会、三次会の後、ホテルの僕の部屋で三時すぎまで飲み続けて、ウィスキーをぐいぐいと一本以上飲んだんじゃないかな。それでいて、今日北京にいたと思ったら、次の週には平壌にいて、翌週はヨーロッパにいる。俊敏ですね。先日もサマランチ会長とある席をともにしたんですが、彼は芸者の踊りや小唄の意味をその場で通訳したり、なぜ日本が海外派兵できないかを、明治憲法から説き起こして説明していた。『彼は百科事典だ』といったらサマランチさんもうなずいていましたよ」

明治憲法からか・・・それは敵わんなあ。最後には荻村自身の言葉として次のような文章が載っていた。

「われわれの卓球ニッポンのころの実力をいまと比べるのはナンセンスです。ラケットなどがハイテクになって、機材が全然違うから。ただ、私は二年前に沖縄国体の優勝者に、一ゲームだけですが勝ちましたよ。もちろん、そのときは関節はガタガタになって、もうトーナメントでは駄目ですね。しかし、六十歳近い人間が勝てるってことはどういうことかってことですね。いまだって自信がありますよ。世界チャンピオンになった人間はだれだってね。」

だそうだ。いったい、何を言いたかったのだろうか。この荻村に負けた国体優勝者が誰なのか、どうやって負けたのかぜひとも知りたいものだ。