正月のテレビで「消えた天才」という番組をやっていた。
成功したアスリートたちには、かつて、どうしても勝てなかったライバルがいたが、なぜかその選手たちは突然表舞台から姿を消してしまった。
その原因が何なのかと、今その人たちはどうしているのかをドラマチックに追ったバラエティー番組だ。
陸上の桐生、水泳の岩崎恭子らとともに、卓球からは、福原愛が高3のときにインターハイ決勝で福原を破った宇土弘恵と、水谷がジュニアのころ勝てなかったとされる坂本竜介が取り上げられた。
こうして卓球が一般のバラエティー番組に取り上げられるようになるとはまさに夢のようである。
エンターテイメントとしてとても面白かったが、こと卓球に関してはかなり演出が入っていたので、こっそり(でもないが)訂正しておく。
福原に勝った宇土を「無名選手」と表現していたが、宇土は高校2年ですでに全日本選手権で32に入っている、卓球界では無名どころか超有名選手である。
宇土が、福原に勝った後「世界選手権やオリンピックの代表にならず福原にも勝てなかった」ことをもって「表舞台から消えた」と表現されていたが、宇土は大学時代に関西学生で単複優勝、全日本学生でもダブルスで優勝している。一般のマスコミが知らなかっただけで、全然消えてなどいない。
一般のマスコミが知らないことをもって「消えた」と言うなら、宇土はもともと知られていないのだから「消えた」のではなく「いなかった」のだ。
坂本についても同様だ。福原と組んだダブルスで全日本で2回優勝した後「表舞台から消えた」と、あたかも失踪でもしたかのように紹介されたが、実際には消えたどころか、引退試合となった2012年度の全日本選手権でも、男子ダブルスで準優勝している。ド強である。たしかに坂本はイップスに悩まされ、期待されたほどの戦績は残せなかったかもしれないが、卓球界では全然「消えて」などいない。
一般のマスコミに対しては、福原との混合ダブルスで優勝したときでさえ、ニュースでのカメラは福原ばかりアップで追って、相手はおろかパートナーの坂本さえほとんど画面に映らなかった。文字通り「手も足も出なかった」のだ。つまり、そのときですら坂本は「消されていた」のだ。今さら「なぜ消えたのか」もない。
宇土も坂本もインタビューに「なぜ消えたか」を淡々と答えていたが、こんな失礼な構成にされることを承知の上で答えているのだろうから、卓球界にとってありがたいことだ。
なお、宇土の卓球の凄さを表現するのに「相手のラケットを弾き飛ばす破壊力」と表現されていたが、弾き飛ばされているのはラケットではなくボールで、ラケットの縁に当たっただけである。ぼんやり聞いているとなんだかすごく見えるから不思議だ。素晴らしい演出の妙、さすがプロだ。
さらに、宇土の凄さを表現するのに「爆発音が鳴り響いた」と言っていたが、単に踏み込んで足を鳴らすという、卓球界では大昔からよくある光景だった。
卓球の試合会場はいたるところ「爆発音」だらけである。
小生も見ていましたが、消えたというのは失礼で、二人とも今も卓球界で活躍してるし、よく取材を受けたなと。陸上の桐生に勝った中央大の選手も全然消えてない…。
野球も見る自分としては納得いかなかったのは伊藤智仁がまるで1年目の2ヶ月半で終わったしまったかのような編集でした。ケガに悩まされた現役生活でしたが、カムバック賞を受賞するなど決して1年目だけの選手ではありません。卓球がテレビで取り上げらるようになったのは最近なのでまだ仕方ない部分があると思いますが、TBSはベイスターズの前親会社であり、野球には深い関わりがあるはずですが、悲劇性を強調するためにあのような編集をするのは残念なことです。
伊藤条太さん卓球王国の皆さん、あけましておめでとうございます。古い話ですみません、64年の東京オリンピックの後(正確には覚えていません)だったと思います。TVで卓球のプロを宣言した選手が登場したのです、アマチュアを対戦相手に、プロ宣言をした彼に勝てば海外旅行の賞品が付いて来るという番組、何回か放送があってそのプロが負け、番組もいつの間にか無くなったんです。その時、プロを宣言した人はだれっだったのか未だにわかりません。彼も消えた天才なのでしょうか?。
高橋様
コメントありがとうございます。
ご説明されたようなテレビ番組を私は存じませんが(64年生まれなものでして)、日本でかつてプロ卓球をしたことがあるといえば、藤井則和、星野展也、河原智ですね。
http://www.nittaku.com/sp/2005/05_11a/index.html
このうちのどなたかが出たということでしょうかね。
早速ご返事いただいてありがとうございます。お知らせのニッタクの記事を読ませていただいて、長年頭の隅で「えーっと、あのーそのー」と、ささやいていたのが少し巻き戻された感じです。大阪ミナミの繁華街、ナンバに野球場(大阪球場)があり、スケートリンクと卓球場が併設され、大きな社交場のようでどちらも大盛況でした。日本生命所属の卓球選手が多いのですが、大阪城のそばに日生球場という野球場もあったんです。
団塊世代のKOです.伊藤さんご紹介の試合見に行きました.
リンクが張ってあるニッタクのページには昭和43年1月18日(土)と書かれていますが,昭和44年1月17日(土)が正しいです.当時の朝日新聞の記事によりますと,この日の選手は外人4人日本人3人で,シュルベックと藤井則和の名前が書かれています.ニッタクのページにはその他に星野展弥,ロシヤス,マイルズの名前が書いてあります.私の記憶だとバーグマンも来たのではないかと思います.私は伝説の藤井やバーグマンを見たのだろうか(50年近く前だし,卓球マニアになる前だったので,記憶がちょっと).
あと一人は誰だろう.ロシヤスはちょっとわかりませんが,シュルベックと河原以外は当時の時点で相当前に引退していた選手です.当時はプロになってしまうと全日本などには出られませんから,選手が集まらなかったのでしょうかね.当時の日本のトップクラスの河野満さんと西飯徳康さんからはこの興業について出場の誘いがあったと直接お聞きしました.
朝日新聞記事によりますと,賞金総額360万円,大会は2月3日まであと8試合とあります.前に伊藤さんのブログにツッコミ入れたことがあり,
https://world-tt.com/blog/johta/2010/07/30
にそのときのことが載っていますので併せてお読み下さると面白いかと思います.
> ナンバに野球場(大阪球場)があり、スケートリンクと卓球場が併設され、大きな社交場のようでどちらも大盛況でした。
1960年代に「ナンバ一番」という所属の選手がいましたが(例えば,山中教子さん),ここのクラブだったのでしょうか.
卓球に関係ありませんが,この試合の次の日昭和44年1月18日は学生が占拠していた東大安田講堂に機動隊が突入した日です.
すみません,書き間違えました.
昭和44年1月18日(土)が正しいです.
多分そうだと思います。私が記憶しているプロ卓球の状況を、脳内再上映?の上、筆起こししてみると、以下のようになります。
・試合形式は、時間制限付き3セットマッチ。
・勝敗は合計得点で争われ、2セット先取しても3セット目を行う。
・3セット目は、1ポイント3点制となり逆転しやすくなる。
・審判は、両手に選手の国旗を持っており、ポイントを取った方の国旗を揚げる。
恐らく、
・時間制限は、テレビのコマーシャルに合わせるため
・国旗はプロレス風に日本人vs外国人の対決機運を盛り上げるため
ではないかと、今となっては想像します(当時は、子供心に、なんだこの速さは!と思ってみてました)。
そして、私が見た日本選手は、
・右利きペンでやたら台から離れてロング(今風のドライブとは一寸違う気がする)を打っていたので、星野展也さんではないかと思います。
心のどこかにちくりと刺さる古い疑問、大いに解消されました。あの時代、本当にプロの選手がいたのですね。情報をくださった皆様、お手数をかけてすみませんでした。当時、私が見たのは試合と言うより、愛ちゃんが世に出る前のバラエティー番組の走りだったのかも。でも、あのとき素人相手に負けた選手「商品のハワイ旅行の代金を出せ」って、言われたかも・・・。
話題が当初からそれ気味ですが,折角なので書いておきます.後日誰かの参考になるかも知れません.
今話題になっている1969年興行以前にもプロ卓球設立の動きはありました.1953年の朝日新聞(2月10日と3月10日)に載っています.日本プロ卓球連盟が組織されて(正確には準備委員会が開かれた),四球団を結成して興行を行う予定というものです.会長は春日一幸(のちの民社党委員長,名古屋が地盤),理事長には新居完吾が選任されたとあります.その後どうなったかは不明です.
そういう動きが納得できる時代背景もあります.藤井則和は1946-49と全日本4連覇したあと,替え玉受験の不祥事で1950年の全日本は出場できず,1951年全日本で優勝しました(このときは愛知県から出場,名電工職員,このころ愛知県卓球協会会長は愛知工大学長,名電工校長の後藤鉀二).1952年2月の世界選手権に出場して男子複で優勝.このあと卓球協会ともめて結局プロになってしまいました.もめた原因は,来日(1952年6月~7月)したバーグマン,リーチとの試合に出場するかどうか,と藤井式ラケット,ラバーを売り出したことのようです.で,バーグマン,リーチと組んで世界のあちこちで卓球興行したようです.こういうことを考えると,プロ卓球を設立しようとした動きも首肯できるような気がします.
1969年のプロ卓球についてその後いろいろ調べまして,以下のことがわかりました.主に読売新聞縮刷版によります.読売新聞社が主催したので,報道が詳しかったと思われます.
○ 参加した選手は,河原智,藤井則和,星野展弥,シュルベック(ユーゴ),マイルズ(アメリカ),ロシャス(ハンガリー),マーカント(インド),周麟徴(台湾),の8人でした.バーグマンは私の記憶違いのようです(あるいは当初予定されていてキャンセルになったか).
○ 全部で9戦行われ,河原が5勝(獲得賞金総額¥1,353,750),シュルベック3勝(¥1,053,750),ロシャス1勝(¥337,500)でした.賞金総額は360万円(当時は1ドル=360円の固定レート).
○ 第1戦が1月18日東京後楽園,各地を転戦して最終第9戦が2月2日東京体育館.最終戦は日本テレビで録画放映がありましたので,英国の獅子さんがご覧になったのはこの放映ですね.試合形式などについては英国の獅子さんが言われているとおりです(1セットは5分).第9戦の決勝戦は河原対シュルベックで,第3セット時間切れ2秒前に河原のサービスで始まった長いラリーを河原が制し,66-65で河原が逆転勝ちしたというドラマティックな幕切れだったとあります(最終セットは1ポイント3点です).
○ このプロ卓球に関するその後の新聞記事は発見できませんでした.
おお、ありがとうございます。
こういう記録はどっか目立つところに書いておかないと埋もれてしますのでありがたいですね。
ここも埋もれがちではありますが(笑)。