至上命題についてもう少し考えてみた。この言葉はすでに広く誤用されているから、誤用が定着した後でそれに追従して使う人は仕方がない。問題は、誤用を始めた人たち、つまり中学校の数学でこの言葉を習ったはずの年輩の人たちにある。
彼らが誤用に至る過程を考えてみた。
それはこうだ。中学校の授業で「命題」という言葉を習ったが、意味は良く理解できなかった。しかしその漢字から、なんとなく「使命」と「課題」が混じったようなものではないかと感じられた。
人は誰でも難しい言葉を使って他人から賢いと思われたい欲求があるので、命題を「使命を帯びた課題」と言う意味で使ってやれというわけだ。「命題」という言葉の勇ましくかつアカデミックな感じがそういう人たちを引きつけたのだ。
たとえて言えば、数学で習う「次元」を、何か高級な言葉のように思い込んで「水谷の卓球と他の選手の卓球とでは次元が違う」と誤用するようなものだ。おっとこれはたとえではなく実例だった。
たとえて言えば、相手を信用させるために物理学の用語である「波動」を使って「あなたの背後霊から良い波動が感じられます」と言うようなものだ。おっとこれも実例だった。
たとえて言えば「体積」を「体育の成績」と誤用し「勉強はできなかったけど体積だけは良かった」と言うようなものだ。さっぱりカッコよくないが。あるいはアカデミックという言葉を「赤っぽい」という意味に誤解し「うーん、この絵はアカデミックなところが良いですねえ」と言うようなものだ。
とまあこのように、話に箔をつけたいだけのデタラメな人たちが、意味も分からず学問の用語をメチャクチャに誤用するという恥ずかしいことが公然と行われているのだ。
その結果、私の大学の先輩など、研究室で真面目に「宇宙波動プラズマ」を研究しているというのに、他人からは必ず怪しい研究だと思われるという被害に合っている。
今や「波動」は、もはやオカルトの人たちに完全に乗っ取られてしまったのだ!なんとも気の毒なことである。
ポストモダン思想を批判したアラン・ソーカルの考え方は、そんな感じで、デリダやラカンを糞味噌にけなしてますね。ソーカルに一理も二理もありそうであるが、学術用語を、ある種の詩的言語として流用するのは、異化効果としては面白いとは思います。本来、変型生成文法という言語思想からしても、言語はプロテウス的なものかも知れない。