スペース挿入で他にも不愉快なことを思い出した。
映画の字幕などを見ていると、やたらと傍点を打った文字が出てくるのだ。強調したい言葉でもなんでもないのに、傍点が打たれていて、気になって仕方がない。書いた人の考えを想像するに、あまり一般的ではない話し言葉であるために、文字の区切りを間違える人がいると思って気を利かしてやっているのではないかと思う。それ以外に理由は思い浮かばない。
しかし、下の実例を見てほしい。「きっとふくれる」「ミスらなかった」「トビ心地」こんなもの、何も傍点を振らなくても支障なく読めるではないか。どうしても心配なら「きっと、ふくれる」「きっと膨れる」「飛び心地」とでも書けばいいだけだ。こんなどうでもいい言葉にいちいち傍点をつけられて視線を集中させられるのだからたまらない。読みやすいどころか、はっきりと読みにくいのだ。傍点撲滅運動でもやりたいくらいだ。
そういうわけで、私は自分の雑誌の原稿に傍点を振るのだけは絶対にやらないよう、担当の編集者に伝えてある。
もうひとつ嫌なのが、なぜか片仮名を必ず半角で書く人だ。「今回のガイダンスの問題点は参加者のコミュニケーション不足にあります」という具合だ。文中にいきなり半角のところがあるので読んでいてひっかかるし、濁点のところで文字間隔が変わるのでこれもひっかかってしまう。文字数に制限があって、やむなく半角にして情報を入れようという場合はやむをえないが、日常的にこれをやっている人がいるのだ。
これらの書き方に私が文句をつけるのは、書いている人たちは気を利かしているつもりだからだ。面倒だとか、私利私欲のためだとか、気が利かないとかの理由でやることなら、私は大概のことには文句はない。人間はそういうものだし、お互い様だから他人に多くのことは要求はしないのだ。
ところが、半角スペースを入れたり傍点を振ったり半角片仮名を書く人たちはちがう。気を利かしたつもりで、わざわざ労力を使って読みにくく書いているのだ。親切のつもりで何メートルも後ろを歩いている人のためにドアを開けたまま待っいて、そのために後から来る人を急がせて走らせたりしてしまう迷惑な人と同じなのだ。