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ヘソから焼きそば

高校生の息子たちはいつも私の冗談が面白くないと言う。何か言うと「それ、本当にやばいって」と真顔で注意をされる。と言われても私も自信があるので全然気にせず「こいつらにはわからんだろうな」と余裕をもって対応をしている。

それではその息子たちが面白いと思う冗談は何かというと、「正月に親戚の家に行ったら大量の料理が出てきて、親戚のおじさんが食いすぎてヘソから焼きそば出したまま死んだ」というものだ。これを学校の友達に話して、みんなで5分ぐらい笑い続けたという。

まあ、情景を想像するとちょっと面白い。

新刊『先生、できました!』

卓球王国から初の一般書籍『先生、できました!』が発売された。この本の出版には私も間接的に関わっているので、出版までの経緯を紹介したい。

10年ほど前、私が近所の中学生の指導を始めたとき、指導方法についてビデオを大量に買って研究をした。何万円か費やしたと思う(すべてヤフオクの中古だったところがセコいが)。その中で、ダントツに参考になったアイディア溢れるビデオが大橋宏朗という人のもので、北海道で公立中学校を全国大会の決勝まで導いたという実績の持ち主だった。

時は流れ、一昨年のあるとき、今野編集長から「初心者用の連載をしようと思っているが良い指導者を知らないか」と聞かれたとき、迷わず大橋先生を薦め、ビデオ11巻分をDVDに詰め込んで送り付けたのであった。今野さんはもともと大橋先生を知っていはいたそうだが、音信が途絶えた状態、つまり忘れていた状態だったので、私が思い起こさせることになったわけだ。

その後、大橋先生の指導は卓球王国での特集や単項本やDVDとなって好評を博したが、今野さんにはもうひとつの野望があった。それは、狭い卓球界だけを対象にするのではなく、広く一般の読者を対象に本を出したいというものだった。出版社であるからにはそれはひとつの夢であるし、なによりも大橋先生の指導論、教育論にはその価値があることを確信したためだった。

かくして昨年の夏から秋にかけて、今野さんの頭の中は大橋先生の本のことで一杯になり、電話をするたびにほぼ一方的にその進捗の報告を受ける状態となったのであった。今野さんは、大橋先生の考え方がどれだけユニークでありかつ感動的かを説明してくれ、いつしか私も読んでもいないのにその本の魅力に取りつかれ始めた。それほどの本ならぜひとも多くの人に読んでもらいたいから、絶対に良いタイトルをつけなくてはならない。タイトルのインパクトがなければ読者の手に取ってもらえず、読んではもらえないからだ。

タイトルはすでに決まっているというので、私は恐る恐る今野さんに聞いてみた。それは『伸びる力、伸ばす力』というものだった。私は「それはダメです。考え直した方がいいです」と、いつになく辛辣に言ってしまったが、今野さんも内心しっくりきていなかったらしく、実に素直に「やっぱりそうだよね」と考え直すことになった。「条太さんも考えてみてね」「私、一行も読んでないんですけど」「あそうか。でも読まなくてもわかるでしょ。もうさんざん話したんだから」それもそうだ。

「考えてみます」とは言ったものの、実は私の方にも野望がある。自分の本を出すことだ。大橋先生の本のタイトルを考えつつも、自分の本のタイトルを考えてしまい、今野さんにメールをしては「それはいいから」となだめられる日々であった。

そうこうしているうちに大橋先生の本のタイトルを決める期限の日が来た。私の考えるよいタイトルのイメージは「意味は分かるが状況が良く分からない」タイトルだった。これが「なんだ?」と思って手に取りたくなるものだと考えるからだ。意味が分からなさすぎてもわかりすぎてもダメだ。中途半端にわかるのがよい。少なくとも私ならそういうタイトルの本を手に取りたくなる。だからたとえば、本の中に出てくる誰かの台詞をそのままタイトルにするのがいいのではないかと今野さんに言っていたのだが、どうも今回の本にはそういう台詞がないという。

そこで、期限の日「探せばどこかにあるでしょう、たとえばこんな感じのが」という意味で「『先生、できました!』なんてどうでしょう」とメールをしたのだった。別に良い案が浮かんだとは思っていないのであくまで一例のつもりだったが、結局、編集部内の投票によって、40以上も考えたという今野さんの案を蹴散らしてダントツでこの案が当選を果たしたらしく、夕方「当選おめでとうございます。この喜びを誰に報告したいですか」という少々イタい感じのメールが来た。「嬉しいです。次は私の本もお願いします」と返事をしたのは言うまでもない。

以上のような経緯で、私がこの本の名付け親になったのだった。もちろん内容も面白い。面白いが、大橋先生の情熱といおうか能力がすごすぎて、とてもじゃないけど真似はできそうにない。ただ、生徒を誉めまくる大橋先生も、若い頃はスパルタで生徒にボールをぶつけたりしていたそうだから、根っからの人格者というわけでもなさそうなところが安心させられる。

ちなみに、大橋先生は北海道で教員をしているのだが、大学は東北学院大学で私と同じ仙台である。そればかりか、なんと学年も同じで、同じ時期に同じ大会に出ていたはずなのだが、お互いに知らないのだ。私はレギュラーではなかったから知られていないのは当然としても、大橋先生は結構実績があったらしいのだが、私が3年から入部したことと、そもそも部活に熱心ではなく、大会すらサボってロクに参加しなかったのがその原因であろう。そのあたりを含め、全日本の会場でお会いして積る話をさせていただきたいと思っている。

息子たちの苦悩

大学受験を控えた双子の息子たちが、夕食後に漢文の難しさを興奮しながら語り合っていた。

「”どうして○○しないでいられようか、いや、ない”なんて、現代文読んでも何言ってるか全然わからないよな!」「”Aで○○なのだからBならなおさらだ”とかヤバすぎ!」と盛り上がっていた。

苦笑。つくづく言葉は論理なのだなあ。大学はどこでもいいから他人に迷惑をかけないよう分をわきまえて生活できるようにだけなってほしい。

近代バーベキューの父

昨日、漫才番組を見ていたらちょっとひっかかるネタがあった。チュートリアルというコンビなのだが、ボケの方がバーベキューをするときに串に刺す具の順番についてやたらとこだわり「近代バーベキューの父トーマス・マッコイによれば」とか「その刺し方はニューヨークスタイルだ」とか言ったりして笑いを誘っていた。

この「近代バーベキューの父トーマス・マッコイ」というフレーズがあまりにももっともらしいのでとてもおかしかった。よくそんなこと思いついたものだと思ったが、実在しそうな名前なので、有名人からとったのだろうと思ってネットで調べてみて驚いた。本当にいるのだ「近代バーベキューの父、トーマス・マッコイ」が。そのサイトから引用しよう。

「近代バーベキューの父」とよばれるアメリカの学者。BBQの串の具の順番の研究で大変に有名。栄養のバランスがよくヘルシーで飽きのこない並びを多く提唱した。このような並び順は現在では「ニューヨークスタイル」と言われている。

<ニューヨークスタイルの例>

ピーマン・シイタケ・エリンギ・タマネギ・ホタテ・・・現代の流行を表す際に多用される組み合わせ。野菜が多くヘルシー

ピーマン・タマネギ・タマネギ・タマネギ・タマネギ・タマネギ・オニオン・・・玉葱ばかりだが玉葱好きにはたまらない串

ピーマン・ウインナー・鶏肉・トウモロコシ・ホタテ・・・マッコイが提唱したNYスタイルの定番。魚肉の比率が多いが比較的ヘルシーで飽きの来ない並びになっている

ピーマン・エリンギ・トウモロコシ・トウモロコシ・鶏肉・なすび・・・おなすでシメることで、近代バーベキューの発展の可能性を感じさせる一串。

<ダメな例>

肉・ピーマン・タマネギ・肉・ピーマン・タマネギ・・・単調にて愚鈍。こんな串はいまどき収容所でもつくられていない

ピーマン・ウインナー・トウモロコシ・レンコン・エリンギ・エビ・・・NYスタイルを意識したものだが、ウインナーとエビという組み合わせがダメ。トウモロコシとレンコンで追い討ちをかけている。

どうだろうか。なんか、冗談ではないかと疑わせるフレーズもあるが、どうも本気のようである。その漫才では、具の並びを含めてかなりの部分、ここに書かれている通りのことを言って会場の笑いを誘っていたのだが、バーベキューを真面目に研究している人たちからすると「貴様ら何が可笑しい!」と腹が立ったのではないだろうか。もしかすると卓球についてのノウハウも、そのままリアルに言うと漫才のネタになったりしないかと不安になった。

それにしても、漫才でもオチに使っていたが、玉葱が5個続いた後にオニオンとは・・・いったいどういうことなのだろうか。ギャグとしか思えないのだが、トーマス・マッコイの記事は2006年のサイトにも書いてあるし、やはり本気なのだろう。いやはやいろいろな人がいるものだ。私も負けてはいられないと正月から決意を新たにした。屁理屈をつけて「卓球の試合の美しいスコア」でも提唱するか!それだけを軸にすべての試合を論評したりして。「8-6というスコアがダメ。こんなスコアが許されたのは70年代まで。今どき小学生でもこんなセンスのないスコアにはしない」とか。

と、ここまで書いてから不安になってまたネットで調べると、チュートリアルのこのネタは2006年以前からやっている古いもののようで、どうもこのトーマス・マッコイは実在せず、彼らの創作のようである。少なくとも実在する証拠は見つからなかった。さすがにそうだよなあ。玉葱、オニオンじゃなあ。

古い卓球の本

古い卓球の本の蔵書を眺めて過ごしている。卓球本のコレクションはもう20年ほどやっているが、インターネットの登場によって、それ以前では考えられないほど貴重な本が手に入るようになった。

中には貴重とはいえないまでも、こういう味わい深いものもある。

しかしなんといっても、もっとも貴重なのは、卓球が日本に伝来した明治35年(1902年)に発行された、伊東卓夫の『ピンポン』だ。

題名が「卓球」ではなく「ピンポン」なのは、この時点ではまだ「卓球」という言葉がなかったからだ。卓球という言葉が考案されるのはこの16年後のことだ。したがって著者名が卓夫なのはまったくの偶然である。

なお、上の写真は大正9年に発売された第5版であり、私は明治35年の初版は持っていない。そこで国立国会図書館に申し込んでコピーを手に入れた。インターネットで申し込むと、誰にでも有料でコピーをして郵送までしてくれるのだ。なんと素晴らしいシステムだろうか。著者が亡くなって50年経っていないと、著者の許可がない場合には、全ページの半分まで、50年以上経っていると全頁のコピーをさせてもらえる。

そうやって手に入れた明治35年版のコピーが下の写真だ。

いろいろと興味深い記述があるので、これは卓球王国の記事にしようと思っている。

それから、日本で最初の全日本チャンピオン、鈴木貞雄の書いた「卓球術(How to play ping pong)大正10年」も貴重だ。

鈴木が優勝した全日本選手権は、実は今の全日本選手権とは違う。日本卓球界の黎明期には、卓球協会が乱立して互いに対立していたのだ。大正10年(1921年)に大阪に「大日本卓球協会」ができたのを始めとして、昭和2年(1927年)には、「大日本卓球協会」「大日本卓球連盟」「全国卓球連盟」「帝国卓球協会」の4つが乱立し、1930年には3つの団体が別々に全日本選手権を行っている。これではいかんということで、昭和6年(1931年)に文部省の斡旋によって既存団体がすべて解散させられ、ひとつに統一されたのが今の日本卓球協会の前身である「日本卓球会」なのである。

鈴木貞雄は、統一される前の日本で最初の団体である「大日本卓球協会」が主催する第一回全日本選手権(大正12年)の優勝者なのだ。だから、今の日本卓球協会の歴史のどこにも鈴木の名前は出てこない。しかし、鈴木は、オールロング打法の創始者である。明治35年に日本に伝来した卓球が、最初期には遊戯として普及し、その後20年を経て、ロング、ショート、カットが並立する近代スポーツの形を成した時代の最初の選手として、鈴木貞雄の名前は記録に残されるべきなのだ。

さて、こんな話おもしろいかな?

荻村伊智朗の眼力

かつての1980年代、日本には『卓球日本』という日本卓球協会の機関誌があった。そこで荻村伊智朗が毎月、昔話に筆を振るっていたのだ。

1980年12月号では、「世界で最も強かった男」と言われたチェコスロバキアのバーニヤという選手の眼力について書いている。荻村は小学校のときから人を正視する訓練をいやというほど受けていたので、バーニヤの眼力を見て只者ではないことがわかったという話だ。私など生前の荻村に会ったら、一体なんと言われたのだろうか。いろんな意味で恐ろしい(すべてを見透かされても嫌だし、まったく的外れなことを言われて気まずくなるのもまた恐ろしい)。

こうやって面白がりながらも、最後にある、次のような文章には感動で身を震わせてしまう。私にとって荻村伊智朗とはそういう人なのだ。

「勝つ時は誰でも精神が高揚していて、その姿はみごとであり、雰囲気は輝いており、絵になるものだ。負ける時にその精神がいつまでも記憶され、その姿が絵になる選手は本当のチャンピオンと言えよう。世界のチャンピオンでなくともよい。県の、市の、村の、クラスの、たった二人の間のチャンピオンでもよい。ローカルチャンピオンであっても同じである。やがて、だれでもそのチャンピオンの座を降りる時がくる。そのような時、私たちがどのように振るまうかが大切なことなのだ、と私はバーニヤから学んだのであった。」

荻村伊智朗の記事

年末の休みでゆっくりしているので、普段見ないような蔵書を眺めている。そこで目についたのは、以前、大宅壮一文庫に注文をしてコピーを手に入れた荻村伊智朗関係の記事だ。

1991年6月7日の週刊朝日には次のような記事が載った。荻村が亡くなる3年前で、統一コリアチームの女子が中国の8連覇を阻んで大成功に終わった世界選手権幕張大会の翌月の記事だ。

「国際政治のバックステージでロングドライブを放つ五十八歳の信念 荻村伊智朗」だそうだ。

記事ではIOC委員の岡野俊一郎という人の荻村についてのコメントが載っていた。

「とにかく、酒が強くてタフなことに驚きます。北京のアジア大会のときでも、パーティーを終えて、二次会、三次会の後、ホテルの僕の部屋で三時すぎまで飲み続けて、ウィスキーをぐいぐいと一本以上飲んだんじゃないかな。それでいて、今日北京にいたと思ったら、次の週には平壌にいて、翌週はヨーロッパにいる。俊敏ですね。先日もサマランチ会長とある席をともにしたんですが、彼は芸者の踊りや小唄の意味をその場で通訳したり、なぜ日本が海外派兵できないかを、明治憲法から説き起こして説明していた。『彼は百科事典だ』といったらサマランチさんもうなずいていましたよ」

明治憲法からか・・・それは敵わんなあ。最後には荻村自身の言葉として次のような文章が載っていた。

「われわれの卓球ニッポンのころの実力をいまと比べるのはナンセンスです。ラケットなどがハイテクになって、機材が全然違うから。ただ、私は二年前に沖縄国体の優勝者に、一ゲームだけですが勝ちましたよ。もちろん、そのときは関節はガタガタになって、もうトーナメントでは駄目ですね。しかし、六十歳近い人間が勝てるってことはどういうことかってことですね。いまだって自信がありますよ。世界チャンピオンになった人間はだれだってね。」

だそうだ。いったい、何を言いたかったのだろうか。この荻村に負けた国体優勝者が誰なのか、どうやって負けたのかぜひとも知りたいものだ。

昔の自分に言いたいこと

昨夜は、職場関係のメンバーと今年何度目かの忘年会をした。

参加をしたTさんは、最近テレビだかネットだかで見た「同性の俳優の顔になれるとしたら誰になりたいか」というアンケート結果の話をした。その結果、1位になったのは男性は福山雅治で、女性では北川景子だったという。このとき女性の名前がなかなか思い出せず、オーダーをとりに来た女性店員に「○○のコマーシャルに出ている人、なんていう名前でしたっけ?」と聞いて、その店員に話しかける機会を作るという、高度な技術まで披露した。

さて、自分なら誰になりたいかという話になったが、Tさんも私も「自分以外の誰にもなりたくない」というものであった。そこから幼少時代の話になった。

Tさんは子供の頃、何をやっても他人よりうまくできず、自信のないもんもんとした少年だったという。異性を意識するようになる中学生時代にはそれがさらに極端になり、大学時代にはその反動で「ポパイ」などを読み漁って「こうすればモテる」という記事を本気にして自分に合わないことをやっていたのだという。女性とデートをしたときに車のトランクから薔薇の花束を出して引かれたり(もちろん付き合ってもいないのにだ)、思い出すとギャッと言いたくなるようなことをしていたそうだ。

最近、そういうことを思い出すにつけ、子供のころの自分に会って「自分らしくあれ」と言ってやりたいという。

一見、月並みな台詞だがこれは私にも響いた。思えば私も大学生の頃はアイビールックに身を包み、革靴などを履いたり、ときには襟なしシャツなどを着たりしたものだ。ところが、それらの施策が実を結んだと実感したことは一度もなかった。何事も自分に合わないことをやってもダメなのだ。そのようなことに気づいたのはずっと後のことだった。

私も若い頃の自分に言いたい。「似合わないことは止めろ、そんなことをしても無駄だから別のことをがんばれ」って。

タクシー・ドライバー

私の好きな映画の中に『タクシー・ドライバー』というのがある。

それとは関係がないが、最近乗ったタクシーの運転手が変わっていた。こちらが「次を右に曲がってください」などと道案内をすると、曲がるたびに「はい、右に曲がりましたー」と言うのだ。何の確認のつもりか知らないが、こちらが泥酔しているわけでもないのにいちいち状況を説明するのだ。私はこういう、口癖のようなものがとても気になるタイプなのでもう二度と聞きたくない気持ちになった。それで、家の近くに来て立て続けに曲がる場所にきたとき、「はい曲がりましたー」と言わせないように矢継ぎ早に指示を出してそれを防ぐことに成功した。

しかし最後に止めてもらったとき「はい街灯の下です」と言われてしまった。くそー。

不必要な確認といえば、コンビニの店員だ。支払いをしようとカードを出すと「カードからでよろしかったですか」ときたもんだ。カードを出しておいて実は紙幣で払いたいなどという可能性があると思っているのだろうか。

今野編集長の災難

今野さんから気の毒な話を聞いた。大阪で行われていた世界選手権代表選考会の帰り、男子ナショナルチーム監督の倉嶋洋介氏を乗せて車で東京まで帰ってきたらしいのだが、車中、倉嶋氏が「フライデー読みましたよ」と言ったという。

「何のこと?」と今野さん。「とぼけないでくださいよ。アレ、今野さんでしょ?」と倉嶋氏。詳しく聞いてみると、12/20発売の写真週刊誌フライデーに、ユース五輪の選考をめぐる揉め事の記事が載っていて、その中に「卓球専門誌記者」のコメントが出てくるのだという。それがかなり協会に批判的なコメントなのだが、卓球王国のウエブや雑誌で今野さんがこの問題を何度か書いていることから、これは今野さんだと思われているというのだ。

思い返してみると、今回の取材中、協会の人たちがどことなくよそよそしかったという。なんとも気の毒な話だが、正直、面白い。卓球専門誌といえばメーカー誌以外には卓球王国ぐらいしかないのだから「この記事を読んだら自分でも俺だと思うよな」と今野さん。「卓球界の90%以上はこれ今野さんだと思ってますよ」と倉嶋氏。

実際は、今野さんは、週刊誌の取材はすべて断っているという。昔は、何か有名になるような気がして喜んで取材を受けていたのだが、結局、悪い発言ばかり取り上げられてロクなことがないことがわかったので、断ることにしているという(しかも名前も「金野」などと間違われる始末らしい)。

それにしても、取材を受けた「卓球専門誌記者」とは誰なのだろう。といって、それほどひどいコメントをしているわけでもないので、まあ騒ぐほどのことでもない。

ただ、今野さんは「俺じゃないって!」ということなので、代わりに私がこんなところでひっそりと書いてあげる次第だ。

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