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カラオケ

4連休の初日である昨日は、久しぶりに家族でカラオケに行ってきた。久しぶりといっても、前回行ったのはまだ子供が会話もできない年齢の頃だから、今回が初めてのようなものだ。子供たちも中高生になって友だちとカラオケに行っているようだし、私は私で最近は好きなロックが歌えるということで珍しく動機が一致し、行くことになった。

行ってみると、歌いたい曲が沢山あって嬉しくなった。さっそく歌おうとすると子供たちが「ジャンケンで順番を決めよう」と手を出した。「なぜそんなことをする?」と聞くと「公平になるように」だそうだ。「公平って、お前たちは先に歌いたいのかそれとも後に歌いたいのか」と聞くと「後に歌いたい」と言う。「じゃ俺が先に歌うからジャンケンは要らない」と言うと「信じられない」なんて言っている。先に歌うのが恥ずかしいと言うのだ。

わが子ながらなんとも小さいことを言うものだ。無論、私もそういう気持はわかる。しかし他人は自分が思うほど自分のことを見てはいないし、理屈で考えて恥ずかしくないことを恥ずかしいと思うのは幼稚なのだと私は幼少時から思っているので、こういうときは自分の感情に反して意地でも堂々と振舞うようにしている。たとえば今でも、講演会のときなどで、前の方に座るのが恥ずかしくて全員が後の方に座っているときでも私は一人でずかずかと歩いて行って一番前の中央に座る。するとそれを見て「恥ずかしさの防波堤」ができたとでも思ってか他の人たちもおずおずと臆病な羊のように私の後の席を埋めだす。二十歳どころか四十にも五十になってもこんなことで時間を費やしたり主催者に「前に詰めてください」と言わせたりしているのだ。しかし私も実はとても恥ずかしいのを意思の力で無理やりやっているのでかなり緊張していて加減が分からない状態になっている。その結果、講演者の席に座って「そこはちょっと・・」と主催者から注意をされることもあるくらいなのだ。それにしたっていくらなんでもカラオケで最初に歌うなんぞは屁でもない。

それで歌ったのが前から歌いたくてずっと練習していたピンク・フロイドの「あなたがここにいてほしい」だ。これがイントロが素晴らしく長く、歌い出すまで1分20秒かかるのだが、カラオケでもちゃんと本物と同じく長いイントロだった(http://www.youtube.com/watch?v=IXdNnw99-Ic。あまりに歌が始まらないので子供たちが「お父さん、何これ?何?」とうるさい。次男など「歌がないカラオケなの?」なんて言ってる。あるかそんなの。

イントロが長いと書いたが、ピンクフロイドの曲としては普通である。ひどいのになると歌い出すまで9分近くかかるのもあるのだ(「狂ったダイヤモンド」http://www.youtube.com/watch?v=1N8BYNMMjqU&feature=related。さすがにこれのカラオケはなかったが、もし歌ったらブーイングだろう。

私が続いてスミスの「心に茨を持つ少年」を歌おうとすると、子供たちが冷たくこわばった顔をした。連続で歌うのは絶対にやってはいけないタブーで「友達がいなくなる」行為だというのだ。他人が歌っているスキに自分の曲を5曲も6曲もぶち込んだり、他人の入れた曲を横取りして歌ったりする我々のような考えは彼らにはないようである。

最近は切れる子供も少なく凶悪犯罪も激減し、子供がすっかり大人しくなったという統計を実感した瞬間であった。いいヤツばかりでよい世の中になったものだ(どうしても皮肉っぽく響くが皮肉ではなく本当にそう思う)。

缶コーヒーのおまけ

サントリーの缶コーヒーを買ったらおまけがついてきた。
機関車のミニチュアのようだ。私はこういうものはまったく興味がないのだが、このおまけは、なんと缶コーヒー本体をタンクに見立てて機関車にひっぱらせるミニチュアなのだ。

これは気に入った。こういう気の利いた工夫をしたものは大好きである。とはいえ、鉄道ファンではないので、ほどなく捨てることにはなるだろう。ともかく、上手いことを考える人がいるものだと思った。

ドルトムント帰還祝い

昨夜は私のドルトムント帰還祝いという、いかにもとってつけたような名目でいつものメンバーで飲んだ。

飲んだ店は百人屋台という店で、屋内なのにまるで屋外にいるかのような凝った飾りつけの店だ。我々が居座ったところは「空中座敷」と言われるところで、片面が屋外に面していてビニールシートが張ってあるだけのところだ。夏はビニールシートを取るので開放感があって楽しそうだ。

トイレに行くと、思いっきり昭和の広告が貼ってあってしばし見入ってしまった。

連休中のためか店内にほとんど客はおらず、7時から1時まで6時間もダラダラと飲み食いをしたのだった。私は何事も過剰でしつこくいく性質なので、こういうやり方が好きなのだ。

町山智浩

2ヶ月ほど前、ふと近所の本屋で手に取った本で、久しぶりに素晴らしい作家と出会った。町山智浩という人だ。『映画の見方がわかる本』というのだが、これまでに読んだどんな映画解説本とも違う、本当に面白い本だった。

簡単に言えば、それぞれの映画の構想段階の資料や関係者の発言などを根拠にして、作者の意図や本当の意味を探ることで、映画を楽しむことを助ける本である。往々にして芸術家は自分の作品を説明することを嫌い「見た人が好きなように感じてくれればいい」などと言うし、それを真に受けて「芸術を鑑賞するのに余計な知識は不要でありそれは本来の楽しみ方ではない」という人がいる。本来もクソもない。その方が面白い人はそうすればよいだけのことだ。私は断然その方が面白い。作者の意図や前提となる事実を誤解したまま感動して何になるというのだ。

たとえば『2001年宇宙の旅』はいろいろと哲学的で難解なことで有名だが、実は全然そうではなく、すべてのシーンには明快で即物的な意味があったのだ。猿が進化するきっかけとなったモノリスという黒石板は神秘的なものではなくて宇宙人が作った人工的な「装置」だし、ボーマンが宇宙で18世紀フランス風の部屋で食事をするシーンは、宇宙人がボーマンをもてなすために地球の様子を真似て技術的に再現した部屋なのだ。こういった本当の意味を説明するナレーションや実際に撮影されたシーンが沢山あり、それはもう議論の余地がないのだ。それをキューブリックは編集の段階で次々と情報を削ってわざと意味が分からないものにした。理由は「映画のマジック」のためだ。わざと分かりにくくした方が、見るほうがあれこれと深読みをしてくれて評価が高まると思ってのことなのだ。だから、分かりにくくなった部分をトンチンカンな解釈をして論じてもまったく無意味なのだ。

こういったことを『タクシードライバー』『時計仕掛けのオレンジ』などといった名作について事細かに論証していくという、そういう本である。

さて、それだけならただの「映画マニアのための裏話本」にすぎないようだが、そうではない。これらの裏話を通して町山の映画に対する思いや言いたいことが伝わってきて、読者はそれに感動するのだ。映画評論に限らずあらゆる評論は、作品の解説のためだけにあるのではない。評論自体がその人の表現であり作品なのだ。どんなに詳しい映画の裏話を仕入れたところで、誰も町山のようには書けまい。まさに帯に書いてあるようにこの本は「町山智浩以外には誰も書けない映画論」なのだ。特に、ポール・シュレイダーがなぜ『タクシー・ドライバー』を書き、スコセッシがなぜそれを監督したかを解説するあたりは白眉である。

それにしてもこんなに優れた評論家を今まで名前も聞いたこともなかったとは。損したような気になる一方で、新たな楽しみが増えて嬉しいような気もする。
昨夜、YouTubeで初めて顔を見たが、そのパフォーマンスも素晴らしかった。
http://www.youtube.com/watch?v=Xll4jPQ6c-8
もう「一生ついていきます」という気分だ。

森末のCD

念のために調べてみたら、なんと森末慎二は、体操選手を引退してからジャズ・ボーカルのCDを出していた・・・。ショック。しかも落語家としてもデビュー。わけがわからん。凄すぎる。

ボイストレーニング

ブログの読者から新幹線の商品カタログの写真が寄せられた。
これは私も見ていたのだが、あまりにベタなので取り上げなかったが、あらためて見るととても可笑しい。説明は不要だ。

51%と150%

・また51%理論だ。なぜ51%なのだろうか。これ以上入っていないと「○○豆使用」と書けないとか。

・5gに対して150g入ってるのかと思ったら150%だった(笑)。2倍より少ないのね。できるだけ大きい数字を書きたかったんだろうな。

また新幹線の商品カタログ

引き続き新幹線の商品カタログより。
写真左から

・商品はともかく、なんという危険作業だろうか。会社でこんな作業をしたらクビだ。拭くなよこんな窓。撮影もさぞ怖かっただろう。見てるだけで怖い。

・膝のところのシワをこんなに律儀に書かなくてもよさそうなものだが。商品の目的をわかっているのだろうか。

・家でこんな滑稽かつ恐ろしい努力をしている女性がどれだけいるのだろうか。

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