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卓球の的当て

卓球選手がバラエティ番組などに出ると、ときどき、そのコントロールの正確さを表すデモンストレーションとして、相手コートに置いた的に打球を当てるというのがある。

いつもこれで不思議に思うのが、一球だけしかやらないことだ。一球しか映さないのなら、そんなもん、当たるまで何回も撮影すればいいだけなのだから、本当にコントロールがいいかどうかわからないではないか。当てる直前にカメラは切り替わっているので編集も疑われる。もちろん、出演者たちはさも一発で当てたように驚けばいい。

NHKの「アインシュタインの眼」に松下浩二が出たときは、岸川が送ったボールをスマッシュして一発でペットボトルに当てたが、その後、台に置いたピンポン球に対しては、2回外して3回目に当てた。これくらいリアルだと見る気になるのだが、どんなものだろうか。

ちなみに、下の写真は、社内のクラブ紹介用に作ったビデオだが、3番弟子の小室がバックサイドの台の外からコーナーのボールにブチ当てるという、超難易度の高い技の映像だ。当たるまで何回もやらせたことは言うまでもない。やっと当てたはいいが、あまりの嬉しさに笑ってしまった小室にNGを出し「バカ笑うな。さも毎日当ててるような顔をしろ」と厳しく指導したのが思い出される。

超能力捜査官

やっと地上波デジタル放送が見られるようになった。
昨日、9時からの番組で、ナンシーなんとかというインチキ超能力者の番組をやっていた。1982年にある事件の遺体の位置をズバリ当てたそうだが、それから現在までの約30年は何をやっていたのだろう。

いったいどういう人かと思って「ナンシー」で検索したら、以前「テレビのチカラ」に出ていた別のナンシーとジョージ・マクモニーグルについての面白いサイトが見つかった。

「FBI超能力捜査官はアホだ」
http://www.sakusha.net/moromoro/makumoniguru2.htm

明らかにフィクションのドラマに「実在の団体とは関係ありません」などと言わずもがなのことを書くくせに、こんなインチキ番組を何のことわりもなくドキュメンタリー風に放送するとはどういうことだろう。視聴者をだまして視聴率を取ろうという悪意ある意図は明白である。こういう番組のせいでオカルトを信じる人が多くなり、ひいては霊感商法にひっかかったり、間違った信念を持つに至る人がどれだけいることか。

それにしても、身内が殺された人の、藁にもすがる気持ちをいいことにヤラセ番組を作るのが遺族に対する愚弄でなくてなんだろうか。これこそ明白な犯罪行為であろう。こんな蛮行を許しておいて良いのだろうか。いい加減、こういう番組は厳しく取り締まって禁止にしてもらいたいものだ。

長嶋茂雄と江加良

私は、1990年代前半から、テレビのバラエティなどで卓球が取り上げられた映像を細々と撮りためている。そのためにテレビの番組欄は常にチェックしていたし、卓球の文字がなくても可能性がある場合には常にテープに録画しておいて、幸運にも卓球がでてきたら後で別のテープにその部分だけダビングするのだ。

そのようにして撮りためた8枚のDVDの中身を昨日、整理した。
なかなか珍しいものもあって、松下浩二が木ベラで小学生チャンピオンと試合したのなども見つかった。当時は知らないので気がつかなかったが、今みてみると、その小学生チャンピオンとは当時小学5年生の三田村宗明であった。

もっとも貴重なのは、世界丸見えテレビ特捜部で一瞬出てきた、長嶋茂雄と江加良のラリーだ。こんな映像を持っているのは世界広しといえども私ぐらいのものだろう。また、何かの番組で、ソウル五輪決勝の劉南奎と金琦擇のラリーが数秒映ったのもあった。当時、NHKで放送された高いカメラ位置のとは違って、フロアから撮影された超ド迫力映像だ。

誉めてもらいたい。

映画『善人の条件』

『善人の条件』という映画がある。ジェームス三木という有名な脚本家が監督に挑戦した映画なのだが、これはある点で特異な映画である。

写真をご覧いただければそれが分かると思うが、この濃すぎる面々を見て欲しい。
津川雅彦に丹波哲郎、これだけでも「うわ」という濃さなのに、これに小林稔侍、橋爪功が絡むのだからたまらない。写真には写っていないが、イッセー尾形も入っている。
つまりこの映画は、ジェームス三木が、その人脈を使って、普通ではあり得ないような贅沢なキャストで作られた映画なのである。だいたい、小林稔侍と橋爪功という超クセ者を同時に画面に映すなど、自殺行為に等しい。通常、こういう役者は1作品に一人なのだ。この他に柄本明、西岡徳馬、竹中直人を加えて映画を作ったらどうなるだろうか。一度見てみたいものだ。

内容自体は、面白くなくもないのだが、それよりもとにかく俳優陣の濃さに圧倒されて、そればかり強く感じさせられるのだった。

ちなみに、ウィキペディアによれば、ジェームス三木は新人の頃、名前を覚えてもらえず、「ジュース三本」と間違われたことがあるという。

田丸さんの名刺

帰国以来、ごちゃごちゃに本棚につっこんでいた書類をやっと整理し終わった。

その過程でさまざまなものが出てきた。

その中のひとつが、以前雑誌にも書いた田丸諭さんの名刺だ。

なにしろあなた、卓球研究指導家だというのだから凄いではないか。卓球指導研究ならまあよくある話だが、卓球の研究を指導するというのだから、いったいどこにそんなニーズがあるのだろうか。

そして卓球講習会を70回も受講したという肩書きだ。いったい、講習会の受講回数などというものが肩書きたりうるのだろうか。私が田丸さんの記事を書いた後、「自分は受講回数が51回の名刺をもらったことがある」というハガキが編集部に届いたというから、田丸さんはちゃんと受講回数を更新しているらしいのだ。

私がこの名刺をいただいてからすでに3年半経っているから、今頃は何回になったのだろう。全日本でお会いするのが楽しみである。

荘則棟のイラスト

先日、卓球王国編集部に行ったときに『スポーツ上達の力学』という本が目についた。いろいろなスポーツを力学的に分析している本のようだ。

どれどれ、まともなことが書いてあるかなと思って卓球のところを見ると、非常に趣き深いイラストを見つけた。前陣速攻型の打法の紹介なのだが、フォームが荘則棟なのはいいとしても、頭が不自然に禿げ上がっているのだ。

こ、これは・・・引退して20年以上も経ってからの荘則棟ではないか。なぜフォームを説明するイラストで、わざわざ世界選手権を3連覇した選手の、引退後20年もたった姿の、その髪型まで正確に模写する必要があるのだろうか。

もちろん、その理由はわかっている。たまたま手に入れた写真がその写真だったのであり、それが引退してからの姿だと分からない人が描いたからなのだ。そして、この本に関わる誰一人それに気づかなかったのだろう。

まるで、前陣速攻をするためには禿げなくてはならないかのようなイラストで、面白かった。

墓の話つづき

墓の話を読んだ友人から電話が来て、それにまつわることを話した。

その友人は、先日、祖母の7回忌があり、すでに亡くなった父に代わってそれを取り仕切ったという。お坊さんを頼むのは嫌なので、彼が自分で手に入れたお経を棒読みをしたという。参加をしていた親戚たちは「○○らしくていい」と言っていたらしいが、やはり後で方々から不満が声が聞こえてきたらしい。無理もない。素人がお経を棒読みをするくらいならやらない方がマシとも言えよう。

その友人がお坊さんを頼まなかったのには理由がある。もともとその祖母は、あるお寺の檀家だったのだが、亡くなった時には100キロも遠くの家(その友人の叔父の家)に住んでいたこともあって、別の坊さんに葬式を出してもらったのだという。それで亡くなって何回忌だかのときにそのもとの坊さんに頼んだところ、葬式を別のところで出されたのが面白くないらしく「お宅とは縁が切れたと思ってください」と断られたのだという。そんなわけで、その友人は、二度とそんなクソ坊主に頼むものかと思い、今回、自分でお経を上げることにしたのだという。

友人のお経に対して文句を言い出したのは、その祖母を最期まで世話をしていた叔父だという。祖母の生前は、さんざん邪険に祖母を扱い「あの家に帰るぐらいならここで死にたい、殺してくれ」と友人に泣きながら訴えたほどであるのに、死んだ後のくだらない儀式に金を掛けなかったのが不満だというのだから呆れる。

私も友人も、霊魂などないと思っていて、あくまで人間主義なので、そういうまやかしやインチキを人間よりも優先するかのようなバカな話にはとうてい納得できないのだ。

墓の話

一昨日、どういう経緯か忘れたが、自分が死んだ後の葬式と墓の話になった。

私は霊魂など信じないので、それを商売にしている坊さんにお金を払うことだけはどうあっても認められない。当然、葬式も墓も不要である。檀家などとんでもない話だ。そんなことは金が余っている人たちにだけ続けてもらって日本文化を維持してもらいたい。私はごめんである。まあ、自分が死んだ後のことだからどっちにしてもコントロールできないし知ることもできないのでどうでもよさそうなものだか、あえて言えば、死んだ後にどうしてくれるかを知って納得して死にたいということだ。死ぬ前の自分の満足のためにそういう約束を遺族としておきたい。

映画やドラマなどで「貧乏のために葬式も満足に出してやれなかった」と泣いたりするシーンを見ると「やらなければいいのになあ。そんな無駄なことに金をかけるから貧乏なんじゃないか」と話のスジと関係ない憤りが沸いてきてしまうので、こういう台詞はぜひとも削ってもらいたい。

とはいえ、私が嫌いなのは霊魂だのお布施だのだから、坊さんなしでの葬式なら大歓迎だ。仏壇もお経もなしで関係者に集まってもらって弔辞を読んだりするのは全然問題ない。これらは生きている人の満足のためにやることだからだ。そこに霊魂だの宗教だのが入ってきて余計なお金をかけるのが嫌なのだ。

ネットで調べてみたら、葬式をしたくないという人はときどきいるらしく、費用もかなり安くなるらしい。普通に葬式をすると130万円ぐらいかかるのが、火葬だけにすると30万円くらいだそうだ。私は火葬も要らないので、警察に罰されない範囲で生ゴミにでも捨ててもらってよい。人間など死んだらただの物なのだから、外見にだまされて大事にする必要はない。

当然私は墓参りなどしない。お墓は実家のすぐ近くにあるので、お盆に親戚といっしょに行くことはあるが、墓を見ても「なんと無意味な石だろう」と苦笑するだけである。

こう書くと、私に先祖を敬う気持ちがないと思われるかもしれないが、それとこれとは別である。そうだとしても文句を言われる筋合いもないが、むしろ私は先祖を敬う気持ちは人一倍強いと思う。私は常日頃から、祖父母や曽祖父母が若かった頃はどうだったのだろうかとその情景を思い浮かべたりして、祖先についての思いをめぐらせているし、大好きだった曽祖父の名前を息子につけたほどだ。これほど先祖のことを思っている私が、お盆のときしか先祖のことを思い出さないような人たちに、その気持ちを見せるために無意味な儀式をする必要などない。お盆に墓なんかに行かなくてもいつでもどこでも私は祖先とともにあるのだ。

葬式も墓も要らないと言ったら、子供たちが「お父さんのことを忘れられてもいいの?」と言った。「そんなことをしなくても忘れなければいいではないか」と言ってハッと思ったのは、墓はたぶん、死んだ人のことを忘れないためにあるのではなく、その逆に、お盆のとき以外は忘れてもよいという免罪符のためにあるのだ。

まあ、自分が忘れられても忘れられなくてもそれは死んだ後のことだから実はどうでもよい。これだけ強調をしてもいざ私が死ねば平気で葬式をして墓を作って「面倒な要求ばかりする変わり者だった」と言われるのだろう。それもどうでもよい。

「お金目当てでは意欲が出ない」か

昨日のヤフーの二ユースで、「お金目当てでは意欲が低下」という題の記事が載った。

どこかの大学で「面白いことでもお金稼ぎが目的になると楽しめなくなり、自発的なやる気が低下する」ということを脳科学実験で確認したのだそうだ。

本当だろうか。どうもこういう、ある価値観を科学で裏付けたような「実験結果」というのは恣意的な臭いがして抵抗がある。面白くてお金までもらえることにやる気が出ないなんてバカなことがあるだろうか。それに、お金とそうでないものの境目をいったいどうやって脳科学とやらで検証したというのだろう。

記事の説明によると「勉強やボランティア活動をしている子供に、思い掛けない褒美をあげるのは励ましになる。しかし、最初から成績に応じた小遣いを約束すると、『やらされている』感覚が生じ、小遣いをもらえなくなったときに意欲が低下する恐れがある」のだという。

それでは勉強やボランティア活動をしている子供に「思い掛けないお金をあげる」のと、「最初から成績に応じたご褒美を約束する」のではどちらがやる気が出るのだ?

こういう実験をしなくてはお金の特性を出せないではないか。まったく不思議な記事である。