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人形俳句写真『円盤』『白梅』

とにかく次々と送られてくるのだから仕方がない。
今回のは意味が分かりやすく、情感もたっぷり出ていると思うがどうだろうか。

そうだ、今度、卓球のでも作ってもらおう!
誰のどんなシーンが絵になるだろうか。でも卓球台とか難しいので、プレー中は無理だろうな。馬琳とか王皓がベンチで考えているところとか落ち込んでいるところかな。

人形俳句写真『電源』『楽団員』

電源の俳句の意味がさっぱりわからないが、ともかく部屋に電源のひとつぐらいはあるのだろうから、写真とまったく関係がないとはいえまい。どうせもともとの俳句自体に意味はないらしいので、解説はこれくらいでいいだろう。楽団員の方は、バックに戦艦が見える。そう、義姉は広島在住なのだ。いずれの写真も何か訴えるものがある。

ときどき「写真の文字が小さくて俳句が読めない」という人がいるが、写真をクリックしてくれれば画面いっぱいに大きくなるのでやってみてください。

ウンコの脅威

今日は特別に汚い話なので、好みではない人は読むのをご遠慮願おう。

私は小さい頃からウンコというものの身も蓋もない汚さに脅威を感じていた。恐怖さえ感じていたといっていい。この汚さに自分の気持ちが乱れるのが悔しいのだ。世の中に当たり前に存在して、医者や汲み取り業者ならなんでもないこの程度のものに対して、平然としていられないことが悔しいのだ。

用具マニアの杉浦くんも、ウンコについてはなみなみならぬ恐怖をもっているようで、何度も不愉快な夢を見ると言う。トイレでウンコをした後、水を流したはいいが配管がつまり、どんどん水位が増してきてしまいには便器からあふれ出す夢だ。この話を聞いて以来、私もその最悪の状況を思い描いては不愉快な気持ちと戦っていたのだが、ドーサンにきてから現実に経験してしまった。アトランタのホテルで、部屋のトイレが詰まったのだ。詳しくは書かないが、すぐに部屋を替わってもらったとだけ書いておこう。

私もウンコに関連する不愉快な夢をよく見る。会社の洋式便座でウンコをしていると、突然、個室の戸が開いて、当時同僚の阿部さん(2007/8/9参照)が狭い個室にむりむり入ってきて、あろうことかズボンを下ろしてそのまま私の膝の上をまたいだのだ。隣の便器に行くためだと言う。いかにも夢らしいつじつまの合わない話だ。しばらくは阿部さんを見ると、この不快な夢を思い出して「またぐなよ」と思ったものだ。

夢ではなくて実際に体験した最悪ケースは、学生時代に遡る。休日に研究室にいたのだが、その日は研究所全体が断水だった。ところがそれを忘れた私はトイレでウンコをしてしまったのだ。当然、水が流れないので、トイレ中が大変な臭いに包まれた。幸い休日だから学生も職員もほとんどいないとはいえ、何人かはいるわけで、とても申し訳なく恥ずかしい思いをした。断水は数時間で解除されるはずだから、それまでの間、気が気ではなかった。やっと断水が解除されたことを知って、大急ぎでトイレに向かってほっとしながらレバーを押した。すると、断水後の初めての使用だっため、水が出る前に空気がプシューッと勢いよく吹き出し、その風圧で粉々に飛び散った自分のウンコを、頭から足まで全身に浴びてしまったのだった。あんなに恐ろしい思いをしたことはない。ミスがミスを呼んだ最悪の事態であった。とはいえ、別に死ぬわけでもなし、珍しい経験をしたことでちょっと得意な気持ちにもなったものだった。それにしても他人にかけてしまわなくてよかったとつくづく思う。皆さんも断水中のウンコにご用心。

愛と平和の人

下の記事にある『ジョンの魂』を発表した頃のジョンのインタビュー集から発言を抜粋してみよう。

「私のような人間は、自分が持っている天才的な才能に、10歳とか8歳、9歳ころに気づくのですが・・天才である自分をなぜ誰も発見してくれないのだろうと、私はいつも不思議に思っていました。学校では、この学校で誰よりもかしこいのは自分なのに、みんなそのことがわかっていないのだろうか、と考えていました。先生は馬鹿だということもわかっていないのだろうか、自分には知識など必要ないのだが、その不必要な知識だけしか持ち合わせていないのが先生なのだが、それに気づく人はいないのだろうか、と私は考えていました。」
「私は自分がアーティストであることに憤慨していますし、そういう意味では、なにも知らない馬鹿な人たちのためにパフォームすることに憤りを覚えます。そういう人たちはなにも感じることができないのですよ。感じているのは、私です。」
「いざアメリカへ来てみると、みんな馬鹿みたいなバミューダ・ショーツをはいて歩いていて、髪はボストン・クルー・カットで、歯にはブレースをはめていたのですよ。(中略)女の子たちは、1940年代の馬みたいで、ドレスに対するコンセプションとか、そういうものがまったくなくて、なんという醜悪な人種だろうかと、私たちはただそう思ったのです。」

これは何だろうか。虫の居どころが悪かったとはいえ、ジョン・レノンとはこういう人なのだ。完全にイカれていると言っていいだろう。では歌はどうか。愛と平和の象徴とされているアルバム「イマジン」の『真実が欲しい』という曲の歌詞は次のようなものだ。

「視野も心も狭いケチの偽善者の言うことは聞き飽きてうんざりだ/ぼくの欲しいのは真実だけだ/すこし真実をくれないか/神経症で分裂症でブタみたいに馬鹿な政治家の書くことは読み飽きたんだ/ぼくの欲しいのは真実だけだ/すこし真実をくれないか」

といった調子だ。他にもポールマッカートニーをさんざんこき下ろした歌「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」というのも入っている。一面的な『愛と平和のジョン・レノン』という宣伝だけを鵜呑みにしてCDを買った人は「なにこれ?」と思うに違いない。ジョン・レノンってそんなに良い人でも聖者でもないのだからデタラメを書くのは本当にいい加減にしてほしい。ソロアルバム「トゥー・バージンズ」では、ヨーコと二人そろって股間丸出しの全裸写真をジャケットに使って顰蹙を買ったり、愛もへったくれもない異常者なのだ。バカバカしい偉人扱いするのはやめよう。彼はただ音楽の天才だっただけのことで、そのことだけが十分に素晴らしいのだ。

伝説になったジョン・レノン

他人の夢の話を聞かされるほど苦痛なことはないと言われるが、残念ながら今日はその夢の話だ。

ひとつは卓球だ。なぜか私が練習場で青森大学の大矢英俊選手と試合をしているのだ。もちろん彼と面識などない。広州で一瞬握手しただけだ。

私はナックルドライブを見舞い、見事大矢にネットミスをさせて1ゲームを先行した。2ゲームめをやろうとしてコートを換わると大矢はなぜか椅子に座って休んでいる。「どうした?」と聞きにいくと「え?まだやるんですか?」と言われていたたまれない気持ちになった。大矢に勝つということはあり得ないことだが、試合を断られて気まずい思いをするのはしょっちゅうなので、こんな夢を見たのだろう。

試合だけではなくて、一般に私は何かを断られることが多いのだが、その原因はよくわかってる。そもそも私は、断られて当然のようなずうずうしい申し出が多いからなのだ。他人からはかなり恥知らずだと思われているようだが、そういうときの気まずさはまったく慣れることがなく、その都度、胸が痛む。しかし胸が痛むこと自体に慣れたといおうか、まあ、そんなもんだ。

その前後して、ジョン・レノンの夢をみた。どっかのホテルに泊まっていて部屋に戻ろうとすると、同僚から携帯に電話があり「ジョン・レノンがフロントに来るそうなので条太さん、会いません?」と言うではないか。私は小躍りしながらフロントに行くのだが、その途中で「まてよ、ジョンはとっくに死んでるじゃないか。来るわけない。ということはオノ・ヨーコが来るのか?」と半分だけ正気になって考え直した夢だ。

偶然にもヤフーのトップページを見ると『伝説になったジョン・レノン』http://music.yahoo.co.jp/shop/p/12/91321/という記事が目についた。読んでみるとまったく呆れた内容だった。

『この死によって、レノンは崇拝されるようになったと発言する者もいる。だが、果たしてそうであろうか?』

間違いなくそうだ。ジョンが死ぬ前など、ソロのシングルはほとんど廃盤になっており、一般的には完全に過去の人で、もし死ななかったら一部のロックファン以外からは完全に忘れられていただろう。

『彼はソロ活動において、ビートルズ時代より大きなマインドで「ラブ&ピース」を唱え、音に託した。(中略)多くのリスナーは、そんな彼の姿から(家族)愛や言論の自由に対し、共感を得たのではないだろうか? そう、ソロ・デビュー作『ジョンの魂』(70年)で呈示したレノンのソウルは、今後も世代を超えて愛され続ける至宝であろう。(リッスンジャパン) 』

確かにジョン・レノンは気まぐれで愛や平和を歌ったこともあるが、別にそこが優れているわけではない。それらは単なる歌の題材にすぎないわけで、平和主義が偉いならもっと偉い人は他にいくらでもいるだろう。彼は同時に悪意と攻撃性と狂気の人でもあった。ジョン・レノンとは単に才能があって優れた音楽を作った男にすぎない。その点において偉大なのだ。彼の偉大さを説明するのにどうして音楽と関係のない「愛」だの「平和」だの「言論の自由」だのという、世間一般の正義を借りなくてはならないのか。本人が何も語れないのをいいことに、口当たりの良いフレーズで売ろうとしているのはなんとも残念だ。音楽ライターも食っていかなけらばならない以上、仕方がないのかもしれない。

雑誌にしろブログにしろ、私は好きなことを書ける立場でつくづくよかったと思う(書けないこともあるにはあるが)。

ダイエット

順調に体重と胴周りが減ってきている。しかし、岡田斗司夫の本にあったレコーディング自体はもう止めた。特に必要を感じなかったからだ。

なにしろポテトチップス、チョコレート、ピーナッツなど異常な間食をしなければいいだけのことなので、そうキツイわけではない。何よりも、体重が徐々に減ってきているので楽しい。やはり継続のポイントはグラフ化することと、もったいないと思わないようにすることだ。ゴミ箱に捨てるも自分の胃袋に捨てるのも同じことだ、という考え方だ。

同じペースで食べているのに1週間から10日ぐらい同じ体重が続いた後で、突然1kgぐらい減るというプロセスを繰り返している。放熱量とか便とか、消費量がこのように変わるようにできているんだろう。

このペースだと、メタボリック判定に合格するのは11月の中旬ということになる。その後はどうなるのだろうか。どこいらへんで落ち着くのか興味深いところだ。なお、体脂肪率も28%で大変な値だったのだが、これは測定器がないので測っていない。おそらく変わっているだろう。

痩せ始めてよかったのは、歩いていて胸が上下に揺れなくなったことだ。女性ならあたりまえだろうが、自分の胸が上下に揺れているのを発見したときには、心底不愉快だった。「なして俺の胸が揺れねばねえのよ?」という感じだ。

2週間前に日本に出張したときにはみんなから「随分と痩せましたね」とか「今、おなかに力入れて引っ込めてるでしょ?」などと言われた。中にはあからさまに「リバウンドを楽しみにしてまーす」という女史もいた。ダイエットとは関係ないが、旧知ではない女性から「ブログのプロフィールの似顔絵より素敵ですね」とも言われたが、当たり前だ。あの通りだったら大変だ。

ともかく、こうやって公表をしてリバウンドをしないよう歯止めをかけているわけだ。

ノー・サンキュー

レストランなどで未だに困るのが、要らないときにいう「ノー・サンキュー」だ。こんなに簡単な単語が通じない。サンキューだけが聞こえるらしく、追加注文されたと思って料理などを持ってくるのだ。「追加注文しますか?」と聞かれる。要らないので「ノウ・サンキュー」というのだが、そのときの店員の「オーライ!」というセリフとニコッという笑顔に不吉な予感をしていると、だいだい料理を持ってくるのだ。

なんとかちゃんと断れないかと思い、「ノー」のところをきちんと「ノウ」といったり、強調したりしてみたのだが、かなりの確率で誤解される。もしかしてバカにされているのだろうか。

それで、ついにあるとき意を決して、サンキューをいわないという非常手段に出た。「ノウ」とだけ言うのだ。ちょっと失礼だと思うのだが、こうも度々無駄金を払わせられたのではたまったものではない。それで思いきって「ノウ」といったら、なんとコーラをもってきやがった。「コウク」と聞こえたものらしい。そんなに私の声は通らないのだろうか。いっそのこと、最初のNを強調して「ネオウ!」という具合にでもいってやろうかとも思うが、なんでレストランで喧嘩腰にならにゃならんのだ。

依頼、諦めて「ノー・サンキュー」に戻し、要らないんだということを念を押すように他の言葉や身振りで補完している。こんなに短い単語のいったい私の発音のどこが悪いのだろうか。その秘密を知りたい反面、不思議なことを残しておきたいような気もしていて、アメリカ人に聞いてはいない。

英語の名前

デイリークイーンの意味が「毎日の女王様」ではおかしいと思って調べてみたら、なんとDailyではなくてDairyで、「乳製品」という意味だった。だから「乳製品の女王様」という意味で、ソフトクリームが自慢の店だったということがあらためて分かった。調べてみるものだ。

どうしてDailyだと思い込んでいたかといえば、Dairyを知らなかったからだ。しかし、Dairyの発音はデイリーよりはデアリーに近いのだ。もしデアリークイーンと言われていたら、間違うことはなかっただろう。DQの担当者が、日本で売るときに考えがあってデイリーとしたのだろう。

こういう例は他にもある。たとえば昔、Vitamin Zというロックグループがいたのだが、日本では「バイタミン・ゼット」という名前で売り出された。音楽評論家のピーター・バラカンはこれに対して「これはおかしいですね。イギリス読みならビタミン・ゼット、アメリカ読みならバイタミン・ズィーで、これはどちらでもないあり得ない読み方です」と言っていた。日本のレコード会社の考えはたぶん次のようなものだったんだろう。まず、「ビタミン」は栄養ドリンクの名前を連想させてかっこ悪いのでこれを避けた。次に、日本ではZをズィーと読む習慣がないので「ゼット」にした。それで結局、英米混合の「バイタミン・ゼット」に落ち着いたというわけだ。ピーターはそこまではわからなかったと見える。

日本でクアーズとして売られているビールがある。これのつづりはCoorsで、どこにも「ク」と発音する要素がない。どう考えてもコーズかコアーズだ。しかしコーズではなんか物足りないと思った日本の担当者がこれをクアーズとして発売したのだろう。そのおかげで、日本人はアメリカに来ても一生懸命「クアーズ」と言っては店員に「何?コーラ?」などと聞き返されることを繰り返すことになる。

私はもともと酒をあまり飲まないので当然、そんなアヒルの鳴声みたいなビールなど知らない。アメリカに初めて出張にきてレストランに入ったとき、出張経験の長い先輩が「クアーズは発音が難しくてなかなか通じないんだ」と言いながら舌を巻いたりして世にも奇妙な声色で「クアーズ」と言って、案の定、店員に聞き返された。私には店員の発音は「コーズ」としか聞こえないのでそう注文するとすぐに通じ、先輩に「お前すげえな」と言われた。「だって店員はコーズって言ってるじゃないですか。そういえばいいんじゃないですか?」というとその先輩は「ここいらは訛ってるからそう言うかもしれないが、本当はクアーズが正しいんだ」などと言う。何を言っているのか。正しかろうが間違っていようが通じる方を使えばいいだけのことではないか。

一度クアーズだと思いこんだ人にはコーズとは聞こえないし、仮に聞こえてもそうは言いたくないのだということがよくわかってとても面白かった。

ちなみに、卓球ラバーのベストセラー「スレイバー」は英語圏では「シュライバー」だ。

ドーサンのDQ

妻がドーサンに来て喜んだのは、ファーストフードの店、DQ(デイリー・クイーン)があったことだ。

DQは、以前は日本にもあったのだが、何年か前に撤退してしまったのだそうだ。妻はソフトクリームが大好きで、売っている店を見ると必ず食べて「美味い」とか「イマイチ」と判定をしている。

その妻をして、今までで最高の店がDQなのだという。それも議論の余地なくダントツで一番だという。

昔、DQのソフトクリームが出てくる蛇口のところに上向きに寝て口に流し込む夢を見たというほど好きだったらしい(画にしたいが、あまりにオモシロイので止めておこう)。

ドーサンでDQを発見した時は大喜びですぐに入ってみたが、日本のDQとはほど遠い味だったらしい。大体アメリカ人はそんなにソフトクリームを重要視なんかしていないのだろう。とはいえ、ここでは美味い方とのことなので、ときどき夜に家族で食べに行っている。

私はといえば、ソフトクリームはだいたいどれも美味いので、よくわからない。だいたい、DQがダントツで一番というが、他の人はどうだったのだろう。そんなに美味かったのなら日本から撤退しなくてもよさそうなものだが・・。
と、ここで妻からクレームが入った。ハンバーガーがイマイチだったそうだ。

超常現象

先日、左足の甲がやけに痛いので、もしかして虫にでも噛まれたのではないかと思い、靴下を脱いで見てみた。

一瞬、靴下の繊維がついたのか、またはアメンボみたいな虫がくっついているのかと思ったが、なんと自分の毛だった。毛どうしが結ばれているのだ。こんな不思議なことがあろうか。おそらく、靴下とこすれているうちに毛同士がお互いに絡み合ってよれてしまったのだろう。痛いわけだ。

私は洗面所から櫛をもってきて、「いててて」と言いながら足の甲の毛をとかしたのだった。

自然によれて人工的な形になってしまうといえば、イギリスのミステリーサークルを思い出した。これは人間がイタズラで作っていることが分かる前は、真剣に研究している人たちがいた。その人たちは、麦の倒れ方が自然ではあり得ない形に編まれていることを、イタズラではない証拠としていた。しかし、現実は、板を使って足で踏んで麦を倒すと自然にそのような形に倒れるだけのことだったのだ。その研究者も、考えてばかりいないで自分で試してみればすぐに分かっただろうに。イタズラをした犯人たちはさぞ可笑しかったことだろう。

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