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I am ティムさん

私の会社は日本の会社なので、ここドーサンの現地人は何かと日本人に気を使ってくれる。たとえば、人を呼ぶときに日本人にならって「さん」をつけるのだ。電子メールでも「Jota-san」という具合に書いてくれる。

彼らは、「さん」は英語で言えば「Mr.」のようなものだと思っているのだが、ときどき面白いことを言う。初めてティムという人に会ったとき、彼は自分のことを「I am Tim-san」と自己紹介したのだ。それで、私は「さんは自分にはつけないんだ」と教えてやった。ところが、その後、電子メールでもやたらと文章の終わりに「Jacky-san」などと、自分の名前に「さん」をつけて締めくくって送ってくる人がいる。それで事情を聞くと、英語では自分にMrやMsをつけることが結構あるらしいのだ。どうも、自分が男性か女性かを知らせるためもあるのだという。それで、「日本には男女を区別する敬称はないし、自分に敬称をつけることはない」と教えてやったらひどく驚いてありがたがられた。

それよりもなによりも、「さん」なんて付けてくれなくていいのにと思っている。

「さん」で思い出した。Sandyという人がいるのだが、彼女のことを言おうとしてデビッドに「サンディ」と言っても通じないのだ。スペルを言ったらやっと「ああ、サンディか」とわかってくれた。私の発音のどこが悪いのか聞いたところ、「セアンディ」という風に言わないと日曜日のSundayに聞こえるというのだ。

家で子供たちが学校から渡された英語の発音練習用のCDがあるのだが、これが難しい。五つの基本の母音があるのだが、困ったことにそのうち三つは同じに聞こえるのだ。その五つとは
AppleのA(「エア」という感じ)
OstrichのO(くちを「オ」の形のままで「ア」と発音する感じ)
UmbrellaのU(普通の「ア」と同じ)
ElephantのE(普通の「エ」)
IndianのI(普通の「イ」)

だが、最初の三つが全部同じ「ア」に聞こえるのだ。特に2番目と3番目の違いが難しい。聞いて区別できないものを発音できるわけもなく、通じないということになる。

以上、単語に出てくるa,e,i,u,oの五つが基本の母音なのだが、これは単語の中に母音がひとつしかない場合で、これを「短い母音」と呼んでいる。これが母音が二つ以上の単語では、a,e,i,u,oはアルファベットの読みと同じになり、順にエイ、イー、アイ、ユー、オウと発音し、これらを「長い母音」と呼んでいる。もちろん例外があるとはいえ、これらの規則があるから初めて見た単語でもアメリカ人は発音できるのだそうだ。だから日本人の名前SATOを見ると例外なく「セイトウ」と発音するわけだ。まぐれでも「サトー」とは言わないわけである。
英語の読みに規則性があるなどとは、高校の授業でも聞いたことがなく、驚きであった。私は英語の発音に規則性がないことがとても嫌だったのだ。こんなに面白く役に立つことをどうして中学高校で教えてくれなかったのか残念である。

さすがドイツ

一晃さんがネット検索してくれて、ドイツの小便器を紹介しているサイトを見つけてくれた。なんと小便器にサッカーゴールが備え付けられているのだ。さすがドイツ。この調子なら、卓球台とか、コックなら料理、医者なら臓器と、いくらでも応用ができそうである。

http://relakus.exblog.jp/2425406/

サッカーゴールの位置が「しぶき」の観点から適切ではないように思えるが、もはや効果よりも「楽しみ」を優先させているのだろう。
それにしても、この小便をかけられるために作られたサッカーゴール、小便によってどれだけ汚れるのかと余計なことを想像してしまってさすがに気持ちが悪くなる。『サイエンスチャンネル』で、リン(P)という元素がどのようにして発見されたかを見たが、中世の錬金術師が小便を煮詰めて煮詰めて底に溜まった光る物質がリンだったのだという。サッカーゴールもリンだらけになるのだろうな。そういえば、村上力さんの知人が、まだ世の中にアンチラバーというものがなかったときに、それを自作するために普通のラバーを小便で煮てみたと言っていた。中世の錬金術師と同じことをしているのだ。まったく信じられない執念だ。

さて、小便といえば前から気になっていることがある。それは、映画やドラマで男性が小便をする場面の不自然さである。決まって体全体を上下に揺する動作をして小便が終わる様子を表現するのだが、そんなことをする男性は少数派である。「男性は体をゆすって雫を切る」と思い込んでいる女性は、考え直してもらいたい。手で振ればすむものをどうして膝の関節まで使って振る必要があるのか。卓球じゃあるまいし。「俺は手で持ってないから体ゆするぜ」という人がいたら、それこそ大問題である。そういう奴が小便器を外して床に放滴したりするのだ。威張っていないで、大至急考えをあらためてもらいたい。

製作者だって、まさかその作品で”小便の終わり”を表現したいわけではあるまいに、どうして判で押したようにそういう演出をするのだろう。ひどいのになると、上半身全体を反らしてチャックを上げたりする。そういういかにも茶番な大げさな場面を見るたびに「ああ、またやってる」と恥ずかしいようないたたまれない気持になるのである。

郁美さん(8/18参照)から「スタンはアメリカ人だけどあんこが大好きです」とメールが来た。すいません、例外はあるのですね。もしかして小便についても、全員が体ゆすりをする地域があるのかもしれません。

サイエンスチャンネル

独立法人文部科学振興機構というのが素晴らしいものをネット配信している。『サイエンスチャンネル』である。

http://sc-smn.jst.go.jp/index.asp

数々の科学番組を無料で視聴できるのである。もう、面白くて片っ端から見ている。科学界の偉人の話とか、元素ひとつひとつが発見された経緯などがとてもわかりやすく面白く紹介されてる。卓球王国の原稿を書きたいのだが、どうやら全部見ないうちは書けそうにない。

その中に『アスリート解体新書』というのがあって、いろんなスポーツを紹介している。

卓球は真っ先に見たのだが、残念ながら面白くなかった。いろいろな測定結果が出てくるのだが、意外性がないのだ。おそらく、卓球選手の動体視力などを測定して、飛びぬけて優れた値であることを紹介しようと思ったものの、たいしことがなく、ただ「測定してみた」にとどまったのではないだろうか。「俺ならもっと面白く作れるのに」と歯ぎしりした(そのうち、申し出るつもりだ)。

弓道は面白かった。矢は軽くて柔らかいので、弦による加速に耐えられずに発射時に曲がり、スローで見るとグニャグニャに振動しながら的まで飛んでいくのだ。また、打ち出されるときに、弦は弓の方向にまっすぐもどるのだが、矢は弓の厚みの分だけ右を向いているので、ただ射ると矢はその分だけ右にそれるのだという。これを修正するのと、矢にスピードをつけるための両方の目的で、選手は矢を射る瞬間に弓を持っている左手首を甲の方に瞬間的に曲げて弓全体を大きく左に回転させるのだという。これを「角見(つのみ)」という。
他のスポーツの極意を知ることはとても面白い。

この調子で、ときどきサイエンスチャンネルの見どころを紹介していきたいと思う。スポーツごとの科学的アプローチの違い、人物などとても面白いのだ。

家めぐり

こちらに来てから、休日に家族と過ごす時間が長くなった。なにしろ車がないとどこにもいけないし、友人や知人も極端に少ないので、ほとんど一日中家族で過ごすことになる。

それでときどきやるのが、建築中の家めぐりである。私の住宅地はまだほとんど家が建っておらず、建築中の家が何件かある。休日は大工さんがいないので、そこに勝手に入って間取りなどをチェックしてあれこれ言うのが楽しいのだ。住宅地の中なので歩いて5分なのだが、子供たちはまるでピクニック気分で飲み物やおやつなどを持ってくる。

先週、誰もいないと思ってある家に入ったら、屋根に大工さんがいてびっくりした。「家を探しているのか」というから「いえ、もう住んでいて、見ているだけです」と答えた。「わかるよ。俺も車を買った後でも車屋に行って見るのが楽しいもんなあ。ガハハ。」という感じで気のいい人だった。

こどもたちはそこから木の切れ端をもらってきて母親に怒られていた。男は、きれいな木の切れ端などを見ると何かに使えそうな気がして欲しくなるものなのだ。これも本能だろうか。

つぶあんとこしあん

アメリカ人はあんこが大嫌い(というより全然食えない)だが、私は大好きである。嬉しいことにこちらでも、例の韓国雑貨店であんこの缶詰が手に入るので買ってきてそのまま、あるいは牛乳をかけたりして食べている。少し塩分が足りないので塩を入れると、完全に日本のあんこと同じになって大変美味しい。ツブもかなり形が残っていて理想的なツブあんである。

私はツブあんは大、大、大好きなのだが、こしあんとなると嫌いと言うほどではないが、目の前にあってもわざわざ食べる気はしない程度のものになってしまう。それほど評価に差があるのだ。だからときどき、ツブあんかこしあんかわからないお菓子があったりすると困る。ためしに他人に食べさせてみたりしている。こんな大事な情報をパッケージに書かないとは、なんと無神経な業者なことか。「ツブあんもこしあんも味は同じだろう」という人もいるが、私にとっては何かが違う。うまくいえないが、ツブの中の豆の味の香ばしさがいいのか、ツブの感触がいいのか、はたまた皮を歯で噛むところがいいのか自分でもよくわからないが、とにかく全然違うものに感じるのだ。

当然世の中には逆の「断然こしあん派」がいるわけだが、数人でそれぞれの魅力について議論をすると大変面白い。「ツブあん派」も「こしあん派」も、それが単なる好みの問題ではなくて、どちらも自分の方が「正当」であり「他の人もそう思っている」と主張するのだ。「だっておはぎはツブあんが普通だろ」「そんなおはぎは聞いたことがない。おはぎこそこしあんじゃないか」といった調子で、もうハナっから話が合わない。

何年か前、職場の忘年会で温泉に行ったときのことだ。ホテルの同室の6人でこれを話したとき、ある「こしあん派」の人が私に「ツブあんのほうが好きだなんておかしい。そんなやついるか」と言った。私の主張は明白である。「世の中の人は若干ツブあん派が多いが、ほとんど同数である。その証拠はコンビニのあんぱんだ。コンビニの品揃えはそのまま人々のニーズを表している。こしあんが圧倒的に人気があるならツブあんなどとっくに店から消えている」 すると、これに別のこしあん派が反論する。「コストの問題があるんですよ」 彼によれば、本当はこしあんを好きな人の方がずっと多いのだが、こしあんは「こす」分だけコストがかかるため、あまり売りたくなく、結果的に半々に売っているというのだ。こういう調子でとにかく「こしあん派が正当である」と譲らない。アイスクリームに入っているあんが100%ツブあんである事実についてさえも、「コストの問題だ」と言い切る。

翌朝、ホテルのみやげ物売り場で名産の饅頭を売っていたので、さっそくみんなであんの種類を確かめると、はやり半数がツブあん、半数がこしあんであった。私はツブあんを一つ買ってから、売っていたおじさんに「こしあんとツブあんのどちらが買う人が多いですか」と聞いた。すると彼は「まあ、だいたい半々だね」と言ってから声を落として「本当はツブあんがいいのさ。こしあんがいいなんていう人はちょっとね」と言ったのだった。

ビートルズ8

いよいよビートルズネタも最後に近いづいてきた。

今回のは日本発売のシングル盤ジャケットである。初めてビートルズごっこをしてそれなりに自信を得た私は、多少の準備をして真似できそうな写真の真似をした。とはいえ、小物には限界があるので、ポールのチョッキは家にあった父親の『胆沢町消防団』のユニフォームだし、メガネと鼻は前回と同じである。スーツ類はすべて父親のものを勝手に出して袖を折ったりして使っている。

人物の間隔が本物と全然違うことに気づかずに撮影してしまい、残念至極である。

このシングル盤は、楽曲も写真もまったく好きではなく、単に「真似できそうな写真」というだけのことだった。

写真とは関係ない話。私がビートルズファンになったのは77年で、すでに解散から7年が経っていたので現役時代は体験していない。ロック評論家の渋谷陽一やビートルズに影響を受けてミュージシャンになった人たちの証言を聞くと、ビートルズは現役時代、日本では人気がなかったという。ファンなどクラスに1,2人しかいなく、ファンはいつも白い目で見られていたそうなのだ。だから、日本にはいわゆる『ビートルズ世代』というものは存在しないという。いるとすれば、それはビートルズが解散してもっと過激なロックが出てきてビートルズの毒が相対的に薄められて安全なものになる70年代だろうとのこと。しかし私がファンになった77年でもやはりレコードを買ってまでビートルズを聴いている人はクラスにはほとんどいなかった。まさか80年代以降にビートルズ世代があるとも思えない。となると、日本にはどの世代にも『ビートルズ世代』というのはなく、薄くいろんな世代に広がっているのだろう。また、CDが売れるのは単に有名だからなのだろう。

酒に強い人と弱い人

酒の話で、お気に入りのウンチクを披露したい。
以前、テレビで見た話なので正確性についてはご容赦願いたい。

酒の強さを考えるときに、2つのパラメーターがあるという。それは、アルコール脱水素酵素とアセトアルデヒド脱水素酵素である。人間はアルコールを飲むと、それが胃や腸から吸収され、脳にまわることで「酔い」の状態になる。判断力が鈍ったり気が大きくなるという状態だ。その体内のアルコールは、肝臓でアルコール脱水素酵素の働きでアセトアルデヒドというものに変わる。アセトアルデヒドは、体にとって有害物質で、具合が悪くなって吐いたり頭痛を引き起こす物質だ。二日酔いの原因物資である。アセトアルデヒドはさらに肝臓でアセトアルデヒド脱水素酵素によって分解されて最終的に体外へと排出される。

流れを整理すると

アルコールを飲む

脳にまわって酩酊状態となる(酔っている状態)

アルコールがアセトアルデヒドに分解される(アルコール脱水素酵素の働きによる)

吐き気、頭痛に襲われる

アセトアルデヒドが分解されて体外に排出される(アセトアルデヒド脱水素酵素の働きによる)

人間の酒に対する酔い方は、このアルコール脱水素酵素とアセトアルデヒド脱水素酵素の強さの組み合わせによって以下のように分類されるというのだ。

1.アルコール脱水素酵素が強く、アセトアルデヒド脱水素酵素も強い場合
飲んでも飲んでも酔わないし具合も悪くならない。いわゆる酒に強い人

2.アルコール脱水素酵素が強く、アセトアルデヒド脱水素酵素が弱い場合
酒を飲んでも、すぐに酩酊状態からは脱するが、気分が悪くなって吐いたりする。→私はこれだ!

3.アルコール脱水素酵素が弱く、アセトアルデヒド脱水素酵素が強い場合
少量の酒ですぐにべろんべろんになり、長時間そのまんま。しかし具合が悪くなったり二日酔いになることはない。一見、強いんだか弱いんだかわからなく見える。→○晃さん?

4.アルコール脱水素酵素が弱く、アセトアルデヒド脱水素酵素も弱い場合
すぐにべろんべろんになる上、後から具合が悪くなって二日酔いになったりする。

私は、常々、記憶をなくすほど酒を飲んでみたいと思っているのだが、このような酵素の働きを考えると、おそらく死ぬ思いの嘔吐を覚悟しないと無理なのだと思う。大学入学時の初めての飲み会で自分の酒の弱さを知らずに日本酒をコップで何倍も飲み、さすがにそのあたりの記憶は朦朧としているが、30分ぐらいするととてつもなく気分が悪くなって嘔吐と下痢が始まり、それは翌々日まで続いたのだった。アセトアルデヒド脱水素酵素の強い人が本当に羨ましい。

嫌なこと

私はアルコール類を飲むことが嫌いではない。味は好きではないが、甘い味を入れてカクテルにすれば美味しい。酔うこともなんとなく楽しい。

しかし宴会で嫌で嫌で仕方がないものがある。それは、酒を注いだり注がれたりすることである。何が嫌かと言うと、必然性のないこの茶番ともいえる動作をすることが嫌なのだ。理由があれば何の問題もない。高価な酒をご馳走されているので自分で注ぐわけには行かない場合とか、知らない人と話すきっかけを作るために注ぎにいったり注がれたりなら私もやる。しかし、知っている同士の飲み会では必要ないだろう。隣の人のコップの空きぐあいを気にしながら注ぐタイミングを考えたり、注がれるときにはいちいちコップを持って、ありがたいと思っていないのに礼を言わなくてはならない、そういうのががとても苦しいのだ。ウソはつけない。

酒を注がれるぐらいなら放っておけばよいが、大学や会社での歓迎会などでは「飲む」ことを強要されるから最悪である。なぜ飲料を「飲め」と強要されなくてはならないのか。中には「この場を収めるために頼むから飲んでほしい」と耳打ちをする「優しい」先輩もいたりする。私にとって酒を飲むことは、しょっぱくて飲めないラーメンの汁を飲むことと同程度のことである。同じ考えの人はいるはずだ。もしそういう人が歓迎会でそういう目にあったら、「わかりました。私は酒を飲みますから、あなた、そこの醤油を飲んでください」と言ってみるのがよいだろう(袋叩きにされること間違いなし)。

ところがこちらではこの「酒の注ぎ合い」が一切ないのだ。アメリカ人にそういう習慣がないのは当然だが、赴任している日本人どうしの飲み会でも「郷に入れば郷に従え」とばかり、誰もやらないことになっているのである。それがなんとも心地よい。こうしてみると、日本で注ぎ合いをやっている人たちも本当は「面倒だなあ」と思っているのではないだろうか。だから、やらなくてよい理由ができると、もう俄然やらないのだ。

ちなみに私は、酒を飲みすぎて記憶をなくすという人が羨ましくてしかたがない。私は酒に弱すぎて、飲みすぎるとすぐに具合が悪くなって吐いたりしてしまい、そういう状態には絶対にならないのである。理性と記憶をなくした自分がいったい何を語ってどんなことをするのか、ビデオにでも撮ったら面白いだろうと思う。いつかそういう薬の力でも借りてやってみたい。

意外な日焼け

こちらに来て、頭も日焼けすることを初めて知った。考えてみれば何も不思議はことはない。皮膚である以上、日焼けしてなんの不思議があろうか。ただ、普通は髪の毛があるから日が当たらないだけのことだったのだ。

7月頃に、家族でドーサンから2時間ほどかけてフロリダ州に行き、海水浴をした。この時期、私はハゲているだけではなくて思いっきり短く刈り込んでおり、ほとんど僧侶のようにしていた。そこに北緯30度(九州南端ぐらい)の直射日光を3時間ほど照射してしまったのだから、焼けるのは当然なのだが、経験がないために思いつかなかった。顔や体には日焼け止めクリームを塗ったのに、頭には塗らなかったのだ。

夜になるとなんだか頭の皮が引っ張られるような浮き上がっているような違和感があったが、それでもまさか日焼けだとは気づかなかった。何日かすると、頭に触れるとやけにフケが落ちるな、と思ってよく見ると、それは日焼けでむけた頭皮だったのである。

びっくりしてグレッグにそれを話すと、「ここらでは坊主頭の人は外では帽子を被るのが常識だ」とのことだった。なるほど、かならずしもおしゃれで帽子を被っているのではなかったのだ。それ以来、こういう場合には帽子を被ることにしている。

カードペン

私は大変物忘れがひどく、消しゴムやペンを無数になくしてしまう。仕事をしているとペンをあちこちにおいて回るし、逆に他人のものをいつの間にかもってきて自分の机に何本も集まってしまうこともある。消しゴムなど最後まで使ったためしがないし、ボールペンもその天寿をまっとうしたことがない。おそらく3ヶ月も同じものを使っていないと思う。ときどき、握るところの塗装がすっかり剥がれて10年以上も使い込んでいる人がいたりして、私にはまったく考えられないことである。

それほど物持ちの悪い私が、なんと20年もなくさずに使っているペンがある。それが『カードペン』である。これは20年前に、新日本スポーツ連盟の卓球の試合に出たときの参加賞としてもらったものである(そういえば桔梗苦羅舞として出たので、村上力さん、戸田と出たんだった)。もらったときには「こんなものをカードにして何の意味があるんだバカバカしい、さすがこんなところで只で配られるわけだ」と思ったことをはっきり覚えているのだが、ほどなくその便利さを思い知ることになる。さすがに物忘れが激しい私も財布だけはなくさない(20年以上前に一度だけパチンコ屋でなくしたことがあるだけだ)。だから、このカードペンを財布にさえ入れておけば、財布をなくさないかぎり絶対になくならないのだ。しかも私は日常、財布を常にズボンのポケットに入れているので、いつでもペンが取り出せるのだ。急に電話番号をメモしたいとき、試合のオーダーを書くときなど、役に立ったことが数え切れない。

このペン、二列になっていて、片方がボールペン、片方がシャープペンであるが、残念なことにボールペンが無くなってしまっている。会社に入った年の運動会で、上司が急にペンが必要になり、私がすかさず提供したのだが、持っていかれてそのままなくされてしまったのだ。このエピソードだけを見ても、いかにこのペンが役に立っていたかがわかるだろう。片方のペンがなくなったことでフレームに力が集中し、一箇所が折れてしまったのだが、接着剤で補修して使い続けている。

これほど使ってみるまでその便利さがわからない商品もあるまい。おそらく作った人もその便利さはわかっていないのではないか。cmのメモリなどついている情けなさである。商品説明さえちゃんとやれば絶対に売れると思う。ただしなにしろなくさないので買換え需要がないだろう。しかしこれは一生ものなので、装飾を含めて最高級の品質にすればよい。書き味、デザインともに高級にすれば、1万円近くでも売れるだろう。

どうしても新品のカードペンがほしい私はいろいろとメーカーにあたってみて、かつてゼブラ株式会社がこれを作っていたことを突き止めた。それで、上記のような要望を切々とメールで訴えたのだが、「昭和61年から発売していて平成7年で生産中止した」との返事であった。アピールが足りなかったのだと思う。なんとももったいないことだ。

アメリカに来てからこちらのネットオークションで一個だけ中古のカードペンが見つかって購入した。コカコーラのデザインなので、おそらく景品だろう。品質も悪く書き味が最低である。こういうものは品質が悪ければ売れないのだ。カードペンは、世界中で同じ扱いを受けているのだ。それでもついこの前も空港で話し込んだ人の電話番号をメモするのに役立った。

いつの日か最高級の品質のカードペンを手に入れるのが夢である。