ロジャーのラケットの重さを計ってみたら361グラムだった。通常のラケットの2倍以上だ。たぶんバタフライの素振り用ラケット「スブリィ」より重い・・・。
どおりで手首が痛くてカットサーブも出せないわけだ。
こんなのを使って「強くなった」って言われてるんだからどういう試合よ一体。
帰任するに当たって、不動産屋を通して家を売りに出している。
家の前に売り出し中の立て札を立て、プラスチックの筒にチラシを入れてある。チラシには薄い鉛筆でこっそりと通し番号を書いておいたので、何枚なくなっているか分かるのだ。日に日にチラシは減っており、もう14枚もなくなったのに、依然として値段交渉どころか誰も見学に来もしない。
同僚の話によれば、それは同じ団地の住人たちが自分の家の価値を知りたくて持って行っているのだろうとのこと。こっちはいつ見学に来られても良いように、毎週芝生を刈り掃除をして家を綺麗に保っているというのに、なんとさもしい奴らだ。
どこにも売れなければ、最後には会社が安い金額で買ってくれるので大損害というわけではないが、高く売れるに越したことはない。今日もチラシを誰か持っていかないかと家の中からチラチラと監視している(これがダメなのか)。
一方、職場での昼休み卓球は相変わらず盛況だ。
いつもラバーがツルツルの古いラケットを使っていたロジャーが、どっかから見つけてきたゴムを貼ってきた。
「ルール違反かどうか見てくれ」というのだが、どうにもこうにも話にならない。
なにしろ「4mm以上の厚み」の「ツブのない」「茶色」のシートを「工業用ボンド」で「元のラバーの上から重ねて」貼っているのだ。ルール違反かどうか判定するのもバカバカしい。球突きをしてみると腕が折れるかと思うほど重く、まったく弾まなくてしかも回転もかからない(アンチと表の中間ぐらい)。
面白いのは、これを使い始めてからロジャーは強くなったというのだ。確かに試合を見ると、今まで負けていた人に勝っていた。卓球の多様性と複雑さの神秘だ。卓球は面白い。
同僚のカイルから新たにスラングを教わった。
「Gone Ass」と言うのだが、直訳すれば「消え去ったケツ」とでもいうもので、女性のズポンのお尻の部分が、お尻の形がわからないほどにたるんでいて魅力的ではない状態を指す表現だという。
日本でも極端に痩せた人がときどきそういう状況になると思うが、こちらでは太っている人が多いのだから、そういう状況はあまりないだろうと思ったが、それは考えが足りないための誤解だった。
こちらで太っている人というのは、腹の部分がとんでもなく太く、いくら尻の肉が盛り上がったところで、胴囲にはぜんぜん追いつかないのだ。その結果、お尻の部分のズボンは確かにブカブカのユルユルになり、お尻の形などないに等しくなる。
Gone Assなど聞いたことがなかったので、ここいらの方言じゃないかと言ったのだがそんなことはなく、アメリカ全土で通じる言葉だという。ちょっと間接的に「GA」とも言うらしい。アメリカ人は結構、アルファベットに省略するのが好きで、わざとなんでもかんでも省略して遊ぶこともある。
奇しくも私が日本にいたとき、課内の打ち合わせ、つまりグループ・ミーティングのことをわざとGpMtg(ジー・ピー・エム・ティー・ジー)とかえって長くなるように言い換えて召集をして遊んでいたことを思い出す。
卓球で言えば「フォアハンド・スマッシュ」のことをわざと会話で「エフ・エッチ・エス・エム」と言うようなもんだ。
マイクとベアリーが、子供のころテレビのせいで、日本人がみんな空手とかヌンチャクをやると思っていたと言ったので、私も日本でよくあるアメリカ人の姿を紹介した。それは、サングラスをかけてガムをクチャクチャ噛み、「ガッテーム」とか「シャラーップ」と叫び「ふしゅるふふふ」と笑うというものだが、よく考えるとこれは少年ジャンプの特定のマンガの中での描写のような気がする(『ドーベルマン刑事』とか『私立極道高校』とか)。間違ったことを教えたがウケたからいいか。
一方、ベアリーが面白いことを言った。彼らが子供の頃、テレビで見るもっとも典型的な日本人は、空手を除けば、ゴジラ映画だったという。そのゴジラ映画では、日本人の台詞が英語に吹き替えられていて、いつもなぜか口がたくさん動いているのにとても少ない台詞しか発しなかったと言う。それがとても奇妙に感じられ「日本人はああいう風に口をパクパクたくさん動かしてときどき発音するのか」と思ったという。いるか、そんな奴!
仕事中に隣の席のマイクが「中学とか高校の頃、取っ組み合いのケンカをしたことはあるか」と聞いてきた。マイクが小さい頃の日本人の印象は、テレビで見る空手とかカンフーであり、日本人はケンカでそういう技やヌンチャクなどを使うのかどうかを聞きたかったらしい。私が「ない」と答えると「日本人はケンカをしないのか」と言う。「ケンカをするヤツらもいるけど、そういうのはだいたいデキの悪い学生なんだ」と言った。
するとマイク「俺はよくケンカしてたぞ。お前、俺がバカだって言いたいのか?やるか?」と拳を突き出して笑った。私は「アメリカでは反対で頭が良いほどケンカをよくするのかもしれないな。頭の回転が早い分だけ気も短いんだろう」とわけのわからない理屈を言って取り繕ったが遅かった。マイクはその後、あちこちの同僚にニヤニヤしながら「高校時代、ケンカしたことある?」と聞くのだった。「たぶんジョウタが判定してくれるよ」なんて言ってる。
マイクに、どういう理由でケンカになるのか聞くと、たとえば食堂で誰かが嫌な目つきで自分を見ていたら、「お前、何見てるんだ!」「見てねえ!」となってもうケンカだと言う。・・・やっぱりバカなんじゃないだろうか。
そこから子供への体罰の話になった。日本ではどのようにするかと言うので、「やる場合には平手打ちが一般的だ」と言った。すると後の席のベアリーまで一緒になって「それじゃ効かないだろ?」と言う。アメリカでは現在では子供に体罰をしたら警察に通報されるが、以前は当り前のようにしていて、ベルトとかしなる棒を使って叩くのが一般的だったと言う。「日本では子供を叩くのに道具を使うなんて聞いたことがないし有り得ない」と言ったが、彼らによると「平手なんかじゃ、7、8歳頃まではいいけど、大きくなると痛くないから効かないんだ」と言い、マイクはズボンからベルトを抜いてみせた。いや、実演しなくていいんだが。
どうも我々とは感覚が違うようである(感度が鈍かったりして)。
最後にベアリーは「スーパーに行くと若者がジーパンを腰の下まで下げてだらしない格好で歩いてるだろ。ちゃんと叩かなかったからだ。」と言った。「あれはただの流行だから叩くとか関係ないんじゃない?」と言っても「いーや、叩かなかったからだ」と言う。どこまで本気なのかはわからないが、なるほど、警察が体罰を取り締まらなくてはならないわけだと思った。
そういうことがわかると、テレビでマジシャンを見るときに、彼らが客を喜ばせるためにどのような戦略で演じているかを見るのも楽しくなる。
たとえば、前田知洋。これはもう徹底的に紳士的で、下手に出すぎるくらいに下手に出て客の好印象を勝ち得ている。クロースアップマジックの世界的名手であるにもかかわらず、そのプライドは微塵も出さない。ランス・バートンと同系統だ。
たとえばふじいあきら。彼はわざとけだるそうに自分はたいしたことないというそぶりで演じる。ゲストの客が「すごーい」と驚くと「すごいですよねー考えた人が」となげやりに言うことさえある。ふじいは大変なテクニックをもっておりプライドも高いに決まっているが、それを周到に隠して粗野を装って客の共感を得る戦略で成功しているのだ。
彼らが演じているマジックは彼らにしかできないというものではない。マジックショップでタネを売っていて誰でもできるマジックを演じることさえある。彼らを彼らたらしめているのは、客を楽しませるための演出と振る舞いであり、実はそれこそが最高のスキルを要する彼らの本当の「マジック」なのだ。
マジックの特殊性についてもう少し書きたい。
マジックで人を喜ばせるのは至難の業だが、ある要因が事態をさらに難しくしている。それは、そもそもマジックを覚えて人に見せようと思う人がどういう性格の人なのかということだ。楽しませようという気持ちもあるだろうが、マジックを覚える最初の動機は、凄い技術を身につけて人を驚かそうというもので、その裏には尊敬されようという気持ちが少なからずあるものだ。そういう演者の自己顕示欲が客が喜ぶことの妨げになるのだ。
素人の場合、客が知り合いだったりすると、普段、どう思われている人間かということまでが関係してくる。当たり前のことだが、高慢でイヤな奴だと思われている人に騙されて嬉しいわけがない。ところが演じている本人は大抵それがわからず、現象さえ見せれば尊敬されると思い込んでいるので「自分はこんな凄いことができるのに、どうしてみんなはもっと喜ばないのか、どうしてもっと見たいと言わないのか」と欲求不満を募らせることになる。
これは「人を騙す芸術」というマジックのもつ構造からくる本質的な難しさなのだ。
テレビに出るようなマジシャンの中にもときどき、演技が速すぎてどこが不思議なのかもわからないようなマジックを客に挑むような態度でする人がいる。実は、マジックを競技としてとらえ、技術を競うことを目的とするマジシャンおよびそれを楽しむマジック通の客の一派が存在して一ジャンルを形成しているのだ。音楽で言えばギターの速弾き競争のようなものだ。それはそれでマジックの楽しみ方のひとつであるが、ときどき見られるそういうマジックが、一般人がマジックをつまらないものと誤解する元になっていることが少し残念である。