ポール

ロバートと親しくなる前に、実はもうひとりやけにうちの子供たちに近づいてきた友人にポールというのがいる。しかしこれがよくわからないのだ。というのも、毎週のように誘われていたのだが、誘いは必ず本人ではなくて母親から私の妻にあるのだ。とにかくなぜだか英語もろくに話せないうちの子とポールを遊ばせたがるのだ。

ポールも嫌がりもせずに遊ぶのでまんざらではないと思うのだが、なにしろ誘いが母親からばかりなので、真意が図りかねる。まさか「本当はどういうつもりなんですか」と聞くわけにも行かない。

それでまあ、あまり深く考えないようにして付き合っていたのだが、ある月曜の朝、学校に行ったらポールがいなかったという。先生が言うには転校したというのだ。いくらなんでもうちの子にも妻にも一言もなく転校するなんてことがあるはずがないので、絶対聞き間違いだろうと言ったのだが本当だった。それもちょっとやそっとの距離ではない。ハンツビルという、車で5時間もかかる遠いところなのだ。ポールの両親は離婚していて、そこに実の父親が住んでいるので、ポールだけそっちに移ることになったというのが後で聞いた話だ。それはいいのだが、毎週母親が遊びの誘いをよこし、泊まったりして遊んでいたのに、引っ越すのに一言もないというのが信じられない。これには驚いた。「アメリカではこれが普通なのか」と同僚に聞いたら「それは異常だ」と言われた。

ポールの母親は、会うととても愛想がよく、もてなしてくれるのだが、ときどきわけが分からないことがあるのだ。片道5時間もかかるハンツビルに日帰りで遊びに行こうと言ったり、土曜に遊ぼうというから、当日電話をすると電話に出なくて遠いところに遊びに行っていてすっぽかされたりだ。

その後ポールは、2週間に一度はドーサンに遊びに来ることになり(ハンツビルとドーサンの中間の町でポールを受け渡しするという)、今でも時々遊んではいる。もちろん誘いは100%母親からだ。このポール、うちの子と同じくらいの身長だったのに、この一年でずいぶん伸びて声も変わって怖いくらいだ。しかし中身は子供なので、先日、ポールの家でバーベキューをしたときには、裏庭で水鉄砲で水を掛け合い、最後にはタライで掛け合うというひどい遊びになっていた。

ロバート襲来

子供たちの帰国まであと一週間になったので、ロバートからの誘いは断らずに遊ばせることにしら、なんだか際限なくなってきた。昨日は、我が家に遊びにきて、しきりに「泊まりたい」と言う。ここいらでは友達の家に泊るのは普通らしいが、さすがにこちらが断ってるのに何度も泊まりたいというのはずうずうしい方なのではないかと思う。本当は泊めてもいいのだが、下の息子がアメリカ人が嫌いで、泊めて欲しくないというので泊められないのだ。それで断っていると、今度は「夕飯を食べていきたい」と言い出した。それで食べるとまた「泊まりたい」だ。

それですったもんだしていたら、ロバートの家に泊まりに行くのなら問題ないことがわかり、昨夜は上の子達だけロバートの家に泊まった。翌朝、朝食をいただいたら帰ってくる約束だったが、結局昼食まで頂いて3時頃に帰ってきた。そのあと勉強するはずが、4時頃にまた誘いの電話がかかってきて出て行った。早すぎる。しかもその後夕食までいただいてきた。

なんだか際限ないのだ。ちなみにロバートの母親はベトナム人とアメリカ人のハーフで、昨夜はロバートのいとこが4人来ていたが、4人ともベトナム語しか話せず、ほとんどコミュニケーションがとれなかったそうだ。面白いのかねそれで。

うちの子によると、ロバートは我が家に来たときは散々屁をするのに、自分の家ではお母さんが怒るので屁をしないそうだ。なんて奴だ。逆だろう普通。

エドモンド・ペタス橋

メンフィスからの帰りにセルマという町にある「血の日曜日事件」で有名なエドモンド・ペタス橋を訪れた。
血の日曜日事件とよばれる事件は、世界に10個以上もあるようだが、これは、1965年に公民権運動に際して起きたものだ。

黒人の権利を主張するデモ隊がセルマのある教会からアラバマ州都であるモンゴメリーをめざして70キロの旅をしようとしたのだが、町を出るところの橋で警官隊に待ち伏せされて催涙弾を浴びせられて滅多打ちにされ、女性一人が死亡した事件だ。

これを命じたのは当時の州知事、ジョージ・ウォレスで、この知事は、なんと「今こそ人種隔離、明日も人種隔離、人種隔離を永遠に!」という途方もないスローガンで当選したという知事なのだ。これで当選したというのだから、アラバマ州恐るべしである。

橋のふもとには、公民権運動の偉人たちの碑がちゃんと建てられていた。

ヘレン・ケラーの肉声

ヘレン・ケラーの展示を見ていて気になったことがひとつある。

彼女の有名な演説の映像が上映されていたのだが、どう見ても時代が合わない。1925年の演説だというのに、あまりにきれいなカラー映像なのだ。第一、ヘレンもサリバン先生も数多く残されている写真と顔が違いすぎる。それで管理人に「これは実物の映像なのか役者による再現なのか」と聞いたが、私の英語がまずいためか、要を得ない返事しか返ってこなかった。

後でネットで調べてみると、上映されていたのは
http://www.youtube.com/watch?v=rfr6YO-zLZc
で、やはり役者による再現映像であった。ヘレン・ケラーが亡くなったのは1968年だから、世界中を歴訪した彼女の実際の映像などいくらでもあるはずである。ところがそれはネットで探してもまったく見つからない。彼女が話している映像が見つからないのだ。

おそらく、彼女のイメージダウンを恐れ、ある程度印象の良いものだけを流布させているのだと思われる。目も見えなくて耳も聞こえないんだから、言葉が不自由なのは当然である。それでもいいから人情としては彼女の肉声を聞いてみたかったが、生家の展示からして再現映像では、たぶんそのチャンスはないのだろう。

ヘレン・ケラーの舞台

生家の隣の敷地には『奇跡の人・ヘレン・ケラー』という有名な劇の屋外舞台セットが備えてあった。6月から7月半ばまで毎週金土の夜、2時間の上演があるという。私は舞台の演技のわざとらしさがどうにも嫌いで、さらによく俳優などがなにかというと「舞台でお芝居をやりたいです」というのを聞いてますます反感を持っていたのだが、このセットを見ていると猛烈に見たくなった。残念ながら予定に入れられず、見ることはできなかった。

なお、劇のタイトルである「奇跡の人」の原題は「Miracle Worker」で、ヘレン・ケラーではなくサリバン先生のことらしいが、日本人はこの邦題のせいでほとんどが誤解しているという。

劇のハイライトである井戸がちゃんとセットの中央においてあって「なるほど、ここで手に水をかける気だな」と思った。

井戸

目も見えないし耳も聞こえない7歳のヘレン・ケラーが、この世に言葉というものがあることを初めて理解したのがこの井戸である。井戸から出る水を手に浴びながら、もう一方の手にサリバン先生がW-A-T-E-Rと字(もちろん特別な文字だろうが)を書いたという有名な井戸だ。

目も見えない、耳も聞こえない人に、どうやって言葉を伝えたのか考えると気が遠くなる。

ちなみに「井戸」は英語で「well」だ。副詞のwellと同じなので、知らないととても頭を痛めることになる。英語にはときどきこういうとんでもない単語があるので、油断をすると痛い目に合う。他にも最近、「fast」に「断食」の意味があることを知った。健康診断のときに、前日に何を「速く」するのかいくら集中して読んでもさっぱりわからなかった。分からないわけだ。

ヘレン・ケラーの生家

カルマンの次にはタスカンビアとう町にあるヘレン・ケラーの生家に立ち寄った。
もちろんここも観光地になっている。

もっとも感慨深かったのは、彼女が育った母屋ではなく、離れにあった台所の小屋だ。当時は、台所は別の小屋になっているのが普通だったという。これが見事にボロボロだった。入り口が二つあり、左側が炊事をするところで、右側がコックが住んでいた部屋だということだ。これが歴史にも何にも残らないただのコックの部屋かと思うと、ある意味ヘレン・ケラーよりも感慨を覚えた。やっぱりこういうのに弱いのだ。

アベマリア・グロット4

売店でキリストの像が売っていて興味をそそった。私は信者ではないが、キリストの人形がよくできていてとても面白かった。

何十個ものキリスト像が売っていたのだが、よく見るとイエス様はそれぞれに個性があり、やけに苦しんでいるのやら痩せすぎているのもある。