目を疑う話

「目を疑う」と言う表現があるが、これは大概は比喩であり、本当に自分の目の錯覚であることを疑うことなどない。しかし私は一度だけ、本当に「今のは見間違いではないか?」と思ったことがある。

それは忘れもしない、大学4年のとき、2年先輩の大学院生二人と研究室で世間話をしていたときのことだった。Mという先輩が、机の引き出しから耳掻きを取り出して、話しながら耳掃除を始めた。あまり見て楽しいものではないが、この程度なら会社でも見たことがあるし家でなら当たり前のことだ。ところがMさんは、耳掻きを耳から出した後、そのまま口へ運んだのである。私は「あれっ?今、何した?」と本気で自分の目を疑った。自分が何かを見間違ったのではないか、あるいは画像編集でもされたのかと思ったぐらいである。Mさんは世間話を続けているのだが、もうそんなものは私の頭に入らない。私は、今度は絶対に見逃すまいと、Mさんの行動に影響を与えないように平静をよそおいながら、耳掻きから目を離さないよう精神を集中した。次の瞬間、Mさんはその耳掻きをあろうことか鼻の穴に突っ込んで耳掻きのヘッドを上手にクリクリと回しながら壁面の鼻クソを掻き取り始めたのである。「まさか・・これも」と思う間もなくMさんはそれをこともな気に口に運んだ。その後も耳掻きは耳の穴と鼻の穴と口を何回か巡回し、Mさんは満足してそれを机にしまった。

Mさんがいなくなったあと、もう一人いた学さんという先輩に「今、Mさん、耳クソと鼻クソ食ってましたよね」と言うと、学さんは「そうなんだよあいつ。気持ち悪いから止めろって言ってるんだけど『僕は昔からこうだから気にしないで』って全然聞かないんだよ」と言った。気にしないでってあんた、気になるってそんなの。

これは、誰に話しても「絶対ウソだ」といわれるが、誓って本当の話である(フィクションだとしたらこんなもの可笑しくもなんともない)。

うちの子供はよく爪を噛むので止めろと言うと、彼らは美味しいのだという。兄弟どうしの爪でも美味しいという。指をなめていたときもそう言っていた。考えるのも不快だが、Mさんはおそらく耳クソと鼻クソ、どちらもそれぞれに別の味わいがあって美味しいと思っているに違いない。また、ある意味綺麗好きともいえるのかもしれない。それにしても不愉快な話である。恐れ多くも、同じ学科の他の研究室の教授の甥っ子だという彼が結婚したかどうかは知らない。