嫌なこと

私はアルコール類を飲むことが嫌いではない。味は好きではないが、甘い味を入れてカクテルにすれば美味しい。酔うこともなんとなく楽しい。

しかし宴会で嫌で嫌で仕方がないものがある。それは、酒を注いだり注がれたりすることである。何が嫌かと言うと、必然性のないこの茶番ともいえる動作をすることが嫌なのだ。理由があれば何の問題もない。高価な酒をご馳走されているので自分で注ぐわけには行かない場合とか、知らない人と話すきっかけを作るために注ぎにいったり注がれたりなら私もやる。しかし、知っている同士の飲み会では必要ないだろう。隣の人のコップの空きぐあいを気にしながら注ぐタイミングを考えたり、注がれるときにはいちいちコップを持って、ありがたいと思っていないのに礼を言わなくてはならない、そういうのががとても苦しいのだ。ウソはつけない。

酒を注がれるぐらいなら放っておけばよいが、大学や会社での歓迎会などでは「飲む」ことを強要されるから最悪である。なぜ飲料を「飲め」と強要されなくてはならないのか。中には「この場を収めるために頼むから飲んでほしい」と耳打ちをする「優しい」先輩もいたりする。私にとって酒を飲むことは、しょっぱくて飲めないラーメンの汁を飲むことと同程度のことである。同じ考えの人はいるはずだ。もしそういう人が歓迎会でそういう目にあったら、「わかりました。私は酒を飲みますから、あなた、そこの醤油を飲んでください」と言ってみるのがよいだろう(袋叩きにされること間違いなし)。

ところがこちらではこの「酒の注ぎ合い」が一切ないのだ。アメリカ人にそういう習慣がないのは当然だが、赴任している日本人どうしの飲み会でも「郷に入れば郷に従え」とばかり、誰もやらないことになっているのである。それがなんとも心地よい。こうしてみると、日本で注ぎ合いをやっている人たちも本当は「面倒だなあ」と思っているのではないだろうか。だから、やらなくてよい理由ができると、もう俄然やらないのだ。

ちなみに私は、酒を飲みすぎて記憶をなくすという人が羨ましくてしかたがない。私は酒に弱すぎて、飲みすぎるとすぐに具合が悪くなって吐いたりしてしまい、そういう状態には絶対にならないのである。理性と記憶をなくした自分がいったい何を語ってどんなことをするのか、ビデオにでも撮ったら面白いだろうと思う。いつかそういう薬の力でも借りてやってみたい。