『ご冗談でしょう、ファインマンさん』

ノーベル物理学賞をとったリチャード・ファインマンというアメリカ人がいる。すでに亡くなったが、私はその人が書いたエッセイ集『ご冗談でしょう、ファインマンさん』という本がとてつもなく好きで、学生時代から何十回読んだか分からない。その中のもっとも好きな、徴兵検査を受けたときのエピソードを紹介する。
-以下、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』大貫昌子訳(1986年岩波書店)から転記-

実を言うと僕はこういうでたらめな話が大嫌いなのだ。精神科医なんてものは皆インチキだと思っているから、連中の顔など見たくもない。いよいよ僕の番がきたとき、僕はこういうムードで医者の前に座った。
僕がデスクの前に座ると、医者は書類に目を通しながらやけに快活な声で「やあ、ディック」と言った。「君はどこで働いてるのかね?」
「ディックなんぞと呼びつけにしやがって、いったい自分を何様だと思っているんだ!」と腹の中で思いながら僕は冷やかに「スケネクテディ」と答えた。
「どういうところで働いているのかね、ディック?」と医者はあいかわらずニコニコしている。
「ジェネラル・エレクトリック。」
「君は自分のやっている仕事に満足しているかね、ディック?」と例の作り笑いのまま医者がたずねる。
「まあまあですね」と僕は全然そっけない。
これまでの三つは軽い質問だったが、四つ目は急に変わってきた。
「人が君のことを噂していると思うかね?」と彼は声をおとしておごそかに言った。
僕はたちまち元気になって「むろんですよ。僕が帰省するたびおふくろが言うんですよ、いつも友達に僕のことを話しているってね。」ところが医者は僕の言うことなど聞いていやしない。何やら書類に書き込んでいる。
書きおわるとまた低いおごそかな声で「人が君をじろじろ見ていると思うかね?」
僕がもう少しで「いいえ」と言おうとしていたら、「たとえばそっちのベンチで待っている連中が、君のことを今じろじろ見ていると思うかね?」と重ねてたずねた。
さっき番を待っている間、僕は12人くらいの男たちがベンチに腰かけて、三人の精神科医の検査の順番を待っているのに気がついていた。むろんこの連中は手持ぶさたでほかに何も見るものなどない。だから僕は三人の医者の数でこの12人を割って四人ずつをふんだが、少し内輪に見積って「そうですな。まああの中の二人は僕たちを見ていますね」と答えた。
すると医者は「じゃあふりむいて見てごらん」と言ったが、自分ではそっちを見ようともしない。
ふりむいてみると、果たせるかな二人の男がこっちを見ている。そこで僕はそっちを指さして「ほら、あの男と向うのあの男がこっちを見ていますよ」と言ってやった。むろんこんな具合にふりむいて指をさしたりすれば、他の連中もみんなこっちを見ることになる。そこで僕は、「ははあ、こっちの男も、向うの二人もだ。おやおやずいぶんたくさんの数になった」と言った。それでも医者はまだ何やらごちゃごちゃ書類に書きこむのに忙しく、確かめてみようともしない。
それから今度は「頭の中で声が聞こえるようなことあるかね?」ときた。
「あるとしてもまれですね」と、僕が今まで二回ほどそういう経験をしたことを話そうとしていたら、今度は「独り言を言うことがあるかね?」と重ねて聞かれた。
「ええ、まあときどきですがね。ひげをそっているときとか、考え事をしているときとか・・・」医者はここでまた何やらしきりと書きこんでいる。
「君は奥さんを亡くしたとあるが、その奥さんと話をすることがあるかね?」
僕はむっとしたが、ぐっとこらえて、
「山へ行ったりして彼女のことを考えているときには、ときどきね。」またもや医者のペンが走る。「で、家族の中に精神病院などに入っている者がいるかね?」
「ええ、僕の叔母が一人脳病院にいます。」
「君、何で脳病院などと言うんだね?」と医者はくやしそうに言った。「精神病院となぜ言わんのだ?」
「どっちだって同じじゃないんですか?」

-中略-

僕は精神科医の書きこんだところを読みはじめたが、大変なことが書いてある。最初の医者は、
「人が自分のことを話していると思っている。
人がじろじろ見ると思っている。
催眠時幻聴。
独り言を言う。
亡妻と話す。
母方の叔母、精神病院に入院中。
非常に異常な凝視(これは僕が「これが医学というわけで?」ときいたときの目付に違いない。)」

-転載終わり-

こういうわけで、ファインマンは精神状態欄がD(不合格)となり「4-F(健康上兵役延期)」の判定をされてしまう。もちろんファインマンはこれを話のタネに仲間と大笑いをしていたが、わざと兵役逃れをしたと思われるのは困ると考えて、あとで徴兵局に対して「自分は国家の将来をになう科学専攻の学生を教えているので徴兵されるべきではないと考えている。しかし、徴兵検査の結果の精神的欠陥ありというのは重大な誤りであり、自分は兵役逃れのためにこの判定結果を利用しようと考えているわけではないので、この誤りを指摘する。」という手紙を送った。

これに対する徴兵局からの返事は「4-F。健康上兵役延期。」だったという。

大貫昌子の訳が本当に素晴らしい。

この本を書き写してみて、あらためて自分の文章がこの本の影響を強く受けていることに気がついた。影響を受けていると言えば聞こえがいいが、なんだか下手なマネをしているだけのような気がして少し恥ずかしい。