月別アーカイブ: 7月 2009

気の利かせすぎ

スペース挿入で他にも不愉快なことを思い出した。

映画の字幕などを見ていると、やたらと傍点を打った文字が出てくるのだ。強調したい言葉でもなんでもないのに、傍点が打たれていて、気になって仕方がない。書いた人の考えを想像するに、あまり一般的ではない話し言葉であるために、文字の区切りを間違える人がいると思って気を利かしてやっているのではないかと思う。それ以外に理由は思い浮かばない。

しかし、下の実例を見てほしい。「きっとふくれる」「ミスらなかった」「トビ心地」こんなもの、何も傍点を振らなくても支障なく読めるではないか。どうしても心配なら「きっと、ふくれる」「きっと膨れる」「飛び心地」とでも書けばいいだけだ。こんなどうでもいい言葉にいちいち傍点をつけられて視線を集中させられるのだからたまらない。読みやすいどころか、はっきりと読みにくいのだ。傍点撲滅運動でもやりたいくらいだ。

そういうわけで、私は自分の雑誌の原稿に傍点を振るのだけは絶対にやらないよう、担当の編集者に伝えてある。

もうひとつ嫌なのが、なぜか片仮名を必ず半角で書く人だ。「今回のガイダンスの問題点は参加者のコミュニケーション不足にあります」という具合だ。文中にいきなり半角のところがあるので読んでいてひっかかるし、濁点のところで文字間隔が変わるのでこれもひっかかってしまう。文字数に制限があって、やむなく半角にして情報を入れようという場合はやむをえないが、日常的にこれをやっている人がいるのだ。

これらの書き方に私が文句をつけるのは、書いている人たちは気を利かしているつもりだからだ。面倒だとか、私利私欲のためだとか、気が利かないとかの理由でやることなら、私は大概のことには文句はない。人間はそういうものだし、お互い様だから他人に多くのことは要求はしないのだ。

ところが、半角スペースを入れたり傍点を振ったり半角片仮名を書く人たちはちがう。気を利かしたつもりで、わざわざ労力を使って読みにくく書いているのだ。親切のつもりで何メートルも後ろを歩いている人のためにドアを開けたまま待っいて、そのために後から来る人を急がせて走らせたりしてしまう迷惑な人と同じなのだ。

分かち書き

学生時代、一足先に就職して外国に赴任した友達から手紙が来たことがあった。それは、異様な文体だった。

「よう 条太 元気か? 俺 は 元気だ。」

というように、単語の間が奇妙に空いた文章だったのだ。そいつは文章などは苦手な男だったから、英語を使う生活に慣れてしまって、日本語の書き方を忘れてしまったのだろう(このような書き方を「分かち書き」というhttp://ja.wikipedia.org/wiki/わかち書き)。いくら理系だったとはいえ、国語が苦手にもほどがあると笑ったものだった。

ところが電子メールが普及すると、外国暮らしをしたわけでもないのに、単語の間を空けて書いてくる人がいることに気がついた。本人は、読みやすいように気を利かせているんだと思うが、まるで新聞の文字を切り抜いて作った脅迫文のようで読みにくいことこの上ない。自分では読みやすいのだろうか。

26個だけのアルファベットで書く英語と違って、日本語は、平仮名、漢字、片仮名、句読点で十分読みやすく書くことができるように発達した文字なのだから、「俺 は 元気だ」などと書かなくても、「俺は元気だ」と書けばちゃんと漢字で書いた部分が平仮名から浮き立って意味の区切りがわかるのだ(もちろん、看板や見出しなどは別だ)。

職場の同僚に極端な分かち書きでメールを出してくる女性がいた。前々から腹に据えかねていたので、ついにあるとき我慢しきれずに「読みにくいから普通に書いてください」とお願いをした。するとその女性は、「そんなふうに書いた覚えはない」と言う。私のパソコンの画面を見せても「原因が分からない。自動でそう変換されるようになってるんじゃないの」などと言う。そんな頭の良いパソコンがあるわけがない。

納得できない私は、その女性の机に行き「じゃ、私が見てるから、いつものように文章を打ってみてください」と言った。すぐに打ち始めたその人、単語を打った後に間髪入れずにスペースキーを叩き、その瞬間、「あっ」と声を上げた。無意識だったのだ。

中 には、わざわざ 半角 の スペース を 入れる 人 も いる(この文のように)。手間をかけて読みにくくしているわけだ。それが読みやすいなら、世の中の本はすべてそのように印刷されているはずだが、そうではない。書くときに生じる、錯覚による違和感が、無駄なスペース挿入作業をさせているのだ。

ただ普通に書けば、どれだけ書きやすく読みやすいことか。

虫眼鏡

子供の頃に資金や知能が足りなくて思う存分できなかったことを大人になって本格的にできるようになったことが多く、楽しいなあと思う。

子供の頃によく小さいおもちゃの歪んだプラスチック製の虫眼鏡で日光を集めて何かを焦がしたりしたものだが、それほどの威力はなかった。今ではもっと大きく精度のよいガラスの虫眼鏡を持っているので、それでアラバマの強烈な日光を集めて照射するとすごいことになる。黒っぽい紙など、焦点を合わせるのも待ちきれずに炎を出して燃え始めるのだ。これは楽しい。

それで、家の周りに干からびて死んでいる昆虫を焼いてみようと思い立ち、子供たちに「虫眼鏡で虫を焼きたい人集まれ~」と声をかけた。子供たちは騒然として駆け寄ってきたが、妻が大爆発した。「死んだ虫をやるんだからいいだろ。なんでダメなんだ?」と言いかけると「この話これ以上する気ないから」と門前払いで、一同、シュンとなった。

後日、ひとりでこっそり死んだ蜂を燃やしてみたことは言っていない。

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